水森思功の思考。 | 境界線型録

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 その冊子を開き数行を一読して驚愕した。
 --水即森即土即海即人也。穢水横溢シテ穢土溢ル。穢土涵養シタル森林原野田畑是即地獄ト謂也。開闢来幾千万億時ヲ経共是事不可換也。--

 今日にあっては分かりきった事実に過ぎないが、その冊子(書籍と言うよりはパンフレットと呼ぶ方がふさわしい、わら半紙にガリ版刷りされた綴じ物)が発行されたのは、1927年(昭和2年)11月のことであり、未だわが国に現代科学が拡散していない時代であり、肥沃な土壌に林野は青々と生い泉水河水ともに素手で掬って飲めたに相違ない時代のことだからだ。
 著者は、神秘学者の水森思功であり、わら半紙の和綴じ装丁を思えば、僅かな部数を手作りし極近しい人にのみ配布したものではないかと伺われる。そのことは冊子の奥付に、--謹呈 無双如先生--とあることからも想像される。この無双如先生が誰を指すのかについては幾つかの推論が為され、昭和3年に北海道において初めて無双原理大学講習を実施された桜沢如一という説が有力とされているが説としては確定していない。



 僅か三章からなる短い論文である。
 冒頭に引いた序は漢文調だが、本文はうって変わり現代文となり、当時としてはモダンな部類と言って良いだろう。

 --吾国の森林は地理的かつ気象的に特異なる亜熱帯~温帯環境を示し故に植生の多様が確保され河川海の健全なる運営が可能となり水物輪廻の法則の許に沿海産物を育むは愚か遠洋に至るまでそのもたらす恩恵は絶大にして正に地球全球に及び豊饒を拡大し得る大自然の臍とも謂ふべき宝物なのである。(第一章第三節)--

 この10~15年ほど地球人の環境危機意識が強まり、世界中の人々は環境変動の一大要因として二酸化炭素増大によるオゾン層破壊を取りあげ世界各国で様々な取り組みが為されつつあるが、既に90年近くも以前にそのような思考が為されていたのだから驚く。
 近年は環境意識の高まりにより二十数年前にはパパラギの演説が紹介され、エコなるムーブメントが起こり後、1998年に米国においてポール・レイ、シェリー・アンダーソンらによってLOHASが提唱され我が国にも輸入され、またマータイ女史による「勿体ない」提言や最近は「ハチドリ計画」なども起こり、減CO2を主眼とする植林活動などが各地で展開されているが、水森思功が著したこの冊子は、それらに大なる疑念を投じるに足る異端の書とも言える気もする。

 その異端の書の題、『リンネの日記』からして、水森思功の神秘学者という性質を彷彿とさせる。
 一見してアンネ・フランクリンの哀切なる日記を想起させるが、水森思功の『リンネの日記』が著されたのは第二次世界大戦以前であり、パロディとしては成立し得ない。
 もっとも題は日記となっているが、内容は全く日記の体を為さず、一貫して論文としての体裁を採っている。この点において、学会では水森思功という人物の実在そのものに疑問を呈する声も少なくはない。
 しかし、実在か虚構かの考証は問題ではない。問題はその冊子は昭和2年に著されたものと推定し得る背景を有し、その時代にわが国の今日的な環境汚染の恐らくは根源的欠陥となるであろう問題が指摘されていたという一事に驚きを禁じ得ない。

 水森思功はこういう。
 --水源地域こそ吾国土の臍なのである、清水湧き出る地中と地表の境界域こそが。嬰児が母体より臍をもつて滋養を得るが如く土森海は滋味を育む。滋味とは如何なる者で或哉其れ即ち精命血液也。八百万の生命を生み出した水こそ吾国土の母と任ず可し。太陽が父、水が母なのである。--

 1960年頃に土壌汚染の深刻な将来不安を世に訴えたカーソン女史の告発は、散布される毒物を問題としていたが、水森思功の思考は毒物の危険を指摘するものでありながら、土壌以前に万事水を核として繰り広げられ、やがて第三章において軍事兵器の製造及び研究施設を水源地域に近づけるべきではないと結論される。この帰結を見れば、水森思功があるいは既に開戦の予感に衝き動かされてこの小冊子を著したと推されないこともないであろう。

 長くなりすぎるので要点のみ記そう。
 兵器製造こそ最先端の科学技術の結晶であり、人間の予測し得ない、科学的に評価が確定しない未知の化学反応や物質を扱う。そのような存在が水源に浸透したならば、それは国土に猛毒を散布する愚行に他ならない。田畑に猛毒を撒き散らし国家自殺を図るようなものである由。
 水森思功の論は正に戦後経済復興において具現されたと言って良い。という以上に、現代においてもまだ開眼されていない危険な真実でもある。
 地方の積極的な企業誘致がその最たる現象といって良い。経済的に衰弱する地方は過疎地を拓き大企業の製造工場の誘致に夢中になる。それは、水源域へ猛毒物質を誘うことだと理解しない。あるいは理解していたとしても、その予測不可能な毒性とそれがもたらす水質汚染の深刻な影響を見ようとしない。枝葉末節の経済対策が、血液を決定的に汚す。水森思功が指摘するのは、根源的に守るべき存在とは何かという問題だろうと感じ、それは抑制をこそ促すものではないか。
 誘致企業側は自治体の優遇策に引かれまた現地住民からも雇用拡大として歓迎され、その歓迎に応えて地域貢献にも取り組み、比較的手軽で社会的にもわかりやすい「植林活動」などを展開する。地方自治と企業の蜜月としてマスメディアでも好意的に紹介されたりもする。しかし、水森思功の指摘を理解するならば、甘やかな蜜月の足元には毒素がじわじわと染みこみ、土中水分に運ばれてそれは中流下流へと運搬されやがて海洋をも穢れた血液で満たす。つまりは先端先鋭最新とされる競争優位の価値がいかに生命負荷をもたらす危惧があるか否かこそ、真に議論されるべき問題ではないのかと読める。
 環境意識は、大地森林水などへの負荷を減少させる取り組みを提唱しているが、多くは植林、河川や山岳の清掃、個人レベルではエネルギー消費の節約、植物意識の向上、家庭廃棄物のリサイクルや減少などなど多様な活動を派生させている。しかし、そのいずれも本質的な「水質」の保全には繋がらない。太陽光パネルの製造は石油の消費を抑えたとしても水にダメージを与えないと誰が保証しているのだろうか。いかに熱心に河川を清掃しても水そのものは浄化されないのだから。視覚域のみ清らかに見えるに過ぎない。
 産業活動は、ほぼ例外なく水質を汚さずにいられない行為を伴う。

 --凡そ全ての文化文明と謂ふ人間活動は水質負荷と謂ふべき原罪を背負ふのである。人は食の安養を希み田畑の肥沃を願ひ海洋の多様豊饒を尊ぶものであるがしかし水質の健全こそが何者にも況して優先さるるべき一大事業である事は考慮しない者なのである。恰度人々が己の血液の健康を意識すること無く加齢し少なからず血病に冒される現実に酷似すると謂はざるを得ないのである。(跡書)--

 さらに水森思功はこうも言った。
 --如何に土を洗はうとも洗浄された土を産むのみ。如何に田畑作物を肥えさせやうとも太つた作物を産むのみ。如何に森林を育まうとも巨きな林郭を産むのみ。如何に海産が豊饒であれ富むばかり。全てに滋味滋養を運搬分配する「水」その科学的最小単位に健全をもたらし得ないならば吾々は何をなし得ると謂ふのであろう哉。美味なる豆腐が喰ひたい。嗚呼喰ひたい。--

 神秘学者水森思功なる人物の実在は、誰も知らない。
 今さっきたまにはフィクション遊びしようと思って、でっち上げただけなので。