合気の有無。 | 境界線型録

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I Have A Pen. A Pen, A Pen Pen Pen.


 やはり「技」の内部解体は、なにそれ?的になるだろうから、もっと概論的にやろう。
 日中、ユーチューブで合気系武道の動画を色々眺めてみた。笑えるものがたくさんあった。以前も見たが、合気達人対総合格闘家の試合などは、強烈にアホ臭い。合気達人は一発ノックアウトされ、救急車が駆けつけた。こういうのがいるから、武の本質が見失われていくのだろう。
 合気道対レスリングとかもあった。どう見ても合気道はない。と言うか、現在の合気道はそれで良いのかもしれないけれど、私が夢想して憧れた「合気」はどこにもない。ただ、取っ組み合い、力みまくって手関節を捻って必死に倒そうとしたり。どこが合気道なのかわからない。恥ずかしくて最後まで見てられなかったので勝敗は知らないが。

 武道がルールを持ち勝ち負けを競うようになったのは、やはり幕末の玄武館か明治の講道館からだろうか。当初は技を練り合う目的だったのだとは思うし、武道が青少年の身体健康を促進するためだとしたなら、それはそれでけっこうなことだが、人間というのは闘争本能を蔵する生き物なので、どうしても勝敗にこだわる。とにかく、勝ちたい。勝たなければ意味がない。勝つためにやるのだ、何が何でも勝ち抜きたい、となる。技を探るよりも、勝つことが優先される。
 この構図は、流通の安売り広告と相似する。有名ブランドも生き残るために安さをアピールして、何とか勝とうとする。が、安さという個性を身につけてしまえば、ブランドイメージはそちらに固定化されて利益率を低下させる。マクドナルドは今年から利益率向上のためにブランドイメージのスイッチ戦略を展開しているようだが、一度固定化された安売りイメージを払拭するのは容易ではない。なので200円セットなども開発して訴求するしかない。味ではダントツだったモスバーガーなどは今がチャンスだと思うが、もう身売りしちゃったからしかたない。
 ではなかった、試合だった。
 観戦する側はあまりきついことはないので、勝て勝て、頑張れと応援する。闘いというのは、見ていると自分も一緒に頑張っている気がして興奮する。私も試合のあるスポーツは好きなので、よく興奮し、気がつくと手に汗握り、シーザーの首をギリギリ絞めていたりする。
 しかし、武道の試合を観ていると、勝敗が決する前に、あー、あれは死んじゃったなと思うことが多い。剣道は典型的で、日本刀で試合したなら、いや木刀でも良いが、ああいう動作はできないのではないか。ちょんと当てたところで、バサッと斬られたり突かれたりしたら死んでしまうし。凄いのは相手の剣先が自分の左胸に向いているところに果敢に突っこみ、面を打ったりする攻め。あれ、面を打つ前に死んでいるに決まっているが、なぜか死ぬはずの方に「一本ッ!」と軍配が上がったりする。それは、武なのだろうか?

 私は怖くて試合とか組み手とか乱取りとかしたくない。穏やかな合気道でも、関節の逆が決まってしまうとボキッといったりする。
 そもそも生死の問題のはずなのに、なぜ試合できるのか、が理解できない。負けたら死んじゃうんだよ、危ないよ、と言いたい。
 ま、それは冗句だが、この十数年研究してきた限り、「合気」的な「技」というのは、実に精妙な『感覚』によるもので、「技」と言うよりもまったく『感覚』により発動される類のものらしく、しかも、その『感覚』は、筋肉が緊張してしまうと感覚しにくいものらしい、と理解できてきた。

 例えば自分の重心を知覚するためには、下半身の筋肉が弛緩しないとムリらしい点。肘固着も前腕上腕の筋肉が収縮すると感覚しにくい。もっとも、これは一度感覚できれば、後は力を使っても可能なようだが、力を使う必要はあまりない。筋弛緩を説く人は多くユーチューブにもけっこうあった。が、見るとダラダラ弛緩で無茶苦茶。高岡さんの影響だと思うが、ただのユルではないだろう。呼吸法をゆるゆるでやっている動画は多いが、ほとんど受けの重心は崩れないまま力で押し倒したりしていた。あんなもの、合気ではないだろう。
 そもユルの原点は野口三千三さん。野口さんの前には肥田春道という変わった人もいたが、この人は上虚下実で下半身は剛だった。
 確かな固着で浮きを作れていた動画は、合気道関係では砂泊緘秀さんしか目にできなかった。大東流はよくわからないので合気道関係に限るが。

 「柔」と呼ばれた昔の日本に実在したらしい「技」は、その名が示す通りやわらかいものだった、と言うことを私は信じるようになった。十年前はまだ疑心暗鬼だったが、この数年は確信水準になっている。
 やわらかい技を使うには、やわらかさを保つ稽古が必要になる。なぜなら、人体というのは、些細な刺激に反応して筋収縮してしまうものだから。筋肉が収縮するということは、硬くなると言うこと。ここに気がつかないのだろうか、と不思議でならない。
 やわらかいと言って、ふにゃふにゃではムリだろう。そんな状態で相手の体に影響を与えられるとしたなら、それこそ神秘だが、そんなものを追いかけるなど幼稚すぎる。天地自然の運行には、必ず摂理がある。因果応報もある。崩れるには崩れる理由があり、神秘といういい加減な言葉で納得してしまえばただのカルト。カルトには良いことなど何もない。

 と考えてくれば、勝つために頑張るしかない試合をやったのでは、やわらかい「技」は見えにくいかも知れないな、と思わざるを得なくなる。よって、「技」を知りたいなら、やっぱ「型稽古」に限るな、と私は結論した。ガキの頃から勝った負けたと騒ぐのが嫌いだからだが。
 そうして、やわらかい型稽古をやってみると、いろんなことが見えてきて、かつて「合気」と呼ばれた不思議な技は実在した、と確信するに至った。
 まだできないのが惜しまれるが、たぶんそれっぽいことを実演できるレベルまではきた。自分は元もとあまりその系の才はないと思うので、体現できなくても悔いはしないが、その存在を再生したくてしょうがない。あったに違いないし、後続がかっこつけたり勝敗に夢中になって、いちばん大事なところを喪失してしまったに違いないから。
 合気は実在したに違いない。

 和術は「合気」再生運動と宣言しとこうかな。これまでの研究では、「合気」とは、人体を和する法則のもとに相手の体幹に作用させて体バランスを奪う技術と定義しておこう。ポイントは「和する」こと。相手の体と自分の体を、一体のようにくっつけてしまう。この理屈はもう解明できたと言って良い。パーフェクトにできるとは言えないが、原理はもうわかった。別に秘密ではなくて、ずっと言っている通り、「重さ」がその原理。単純に、掌に物を載せれば落ちない。これはどういうことかというと、重力に引かれた物が、掌にくっついているから。これを自分の体の重さも利用して、色々くっつけると、相互の体がくっつく。型稽古でないと、こんなことはまずわからない。くっつくのである、人の体は。技術はなんと言うこともない、簡単な固着。
 問題は「感覚」だが、これは慢心や競う心がある限り絶対に見えないと断言しよう。
 しつこいが、対すれば相和す、である。