百年の礼節。 | 境界線型録

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 今夜のお題。
 倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る。

 この管仲が示したフレーズは、「衣食足りて礼節を知る」と変形して今も度々使われる。が、このフレーズは、どうも誤ったとらえ方をされているのではないか、といつも感じる。
 若者がチラッとお行儀悪いことをやると、衣食足りて礼節を知るだろ、不届き者めとか。原意は言うまでもなく、「民百姓は米倉が満ちていれば安心して礼儀節度も知ろうとするし、衣食がちゃんと足りてさえいれば栄誉も恥辱も知れると言うものでしょ」と言うもの。
 国政などでも頻繁に使われたりする。
 当然、民百姓の家計が厳しく、衣食に不自由すれば礼節どころじゃない。他人様のものだろうが何だろうが奪ってやろう、となってもおかしくはない。実際、そのようにして治安は乱れる。
 が、これを管仲が桓公に進言したらしい春秋時代という背景を見落としてはいけない。
 春秋・戦国と続く通り、群雄割拠して覇を競った戦乱期のこと。
 政治の課題は、今の中・露もそうだが、民百姓の騒動を抑制することも重視された。覇を広げるため、あるいは外からの進軍を食い止めるためには、どうしても国内の平定が必要だっただろう。争乱下で内部から崩れるとどうしようもない。なので、平定戦略が必須だっただろう。
 よって、例の管仲のフレーズが提唱されたのではないか。
 この戦略は的を射て、斉は栄え、やがて桓公は周王朝より重用されるに至った。というサクセスストーリーのプロローグとなるフレーズ。
 しかし、それは紀元前の戦乱の世のこと。現代ではない。

 本当に衆生は、衣食足りて礼節を知るのだろうか?

 日本は敗戦後、大変な努力をして経済大国へと駈け上がり、一億総中流と自嘲気味に語る時代もあった。人々はおしなべて経済的豊かさを享受した時代があった。
 今も、あの頃は良かったという人もいる。私は、「エッ?」と驚くが。
 人々の暮らしの衣食は足りていき、さらに贅沢な環境も実現してきた。
 ところが、その手の成長と足並みを揃えるかのように、凶悪犯罪は増えていかなかったか。青少年の非行なんて言うのが取り沙汰されるのはいつの時代も同じだと思うが、非行行為は陰湿になっていかなかったか。暴走族などは、エネルギーの発露としてむしろ健全だと思うが、陰に潜んで悪事を働くことが増えてきたのではないか。彼らには、衣食は足りていなかったのか。

 私が学んできた限り、開化前の武家社会では、「衣食足らずとも礼節を知るべし」だったと思う。
 モラルが、衣食に優先した。
 それは、武家だけではなかった。日本に渡来した外国人の手記などには、日本人民の礼儀正しさ、親切さがきっと驚きと共に記録されているのではないか。民百姓に至るまで、礼節を知り、親切を知っていた。それが日本精神の原風景ではないか。
 衣食は足りなくとも、礼節は知っているのが、日本人だった。
 過去形で書くしかないのが情けないが、事実だろうと思う。

 ことさら清貧を美化するつもりはない。できることならば、豊かで清らかな方が良いに決まっている。が、豊かで薄汚い時代になっていないだろうか。と、ずっと感じている。
 誰も彼も汚いのであるならば、争乱の世にしてしまえば良い。命がけで闘い、衣食を争奪するのも、ひとつの在り方だろう。
 けれど、こそこそと薄汚いのは気持ち悪い。
 良識家面して悪事を為す人間のいかに多いことか。今日も教育者の盗聴騒ぎなんてバカバカしい事件が報じられていたが、それが今の真の姿。もっとも悪事を為している自覚があるなら、まだ救いはあるだろう。怖ろしいのは、自覚無しに薄汚いことを為している場合。
 先日も書いたが、無自覚に殺人者になっていたり。自分や企業の利のために誰かにムリを強要し、さらにそこが下請けにいっそうの負担を強いて、孫請け企業の社員が重荷に耐えられず病に倒れたとか自殺したとか。無自覚のまま間接的に自殺に追いこんでしまうという犯罪にならない殺人を行っているというケースは、きっと少なくないだろう。無自覚ならば脳天気でいると思うが、それを自覚した時、無自覚だった者はどういう精神的影響を受けるだろうか。

 衣食は足りなくても礼節だけは知っている、のが日本人だったはず。
 恥を知る、足りるを知る、譲る、遜る、慮る。しかし、不義不正だけは断じて排除する。それが、私が思う日本人。衣食足りて礼節を知るなどというのは、情けない奴隷の姿に過ぎない。
 倫理に根ざさない制度で、経済はまともに機能するわけがない。
 明確な倫理観を持つ者が社会システムを設計しなければ、国家が良くなるわけがない。、確固たる根幹無しに、小手先目先のことに大騒ぎしても、ただ瞬間の祭りだけで政にはならない。
 政治とは、この国は五十年後百年後にどうあるべきか、という視点で語らなければならない。経済など各論のひとつに過ぎない。貨幣経済が破綻すれば、システムなどコロッと変わる。
 今の苦境は凌げばいいとして、子どもや孫が今より幸福に暮らせる世の中にするために、今自分はどうすべきか、が私的には問題なのだ。経済では平和は作れないから。
 明日の飯が心配なら強盗でもやって凌げばいい。いや、これは極論だが、どうもこの世の話は小さすぎてつまらない。百年後の日本人に、あの時代の祖先は凄かったと言われた方が面白いのに。誰も彼も現実論に終始する。明日の幸などすぐ消える。
 そこら中で国家百年の大計というが、どうも哲学を感じない。百年の大計を実現するのは、道徳の確立と教育しかないなんてわかりきったことだが、政治屋の語る大計はお粗末すぎる。福翁ですら失敗した大計なのだ、われわれ凡夫が十年二十年で見通せるものでもないだろう。少しずつ少しずつ積み上げていくしかないが、揺り戻ししてしまうのが常なのだ。揺り戻す力が、目先に流れる「具体論」というやつ。こいつが揺り戻し、ストレスを生むのだ、いつも。本気で組織や事業の再生などに取り組んだことがある人ならば、わかるのではないか。いつも邪魔するのは、目先の結果を求める欲。
 マルクスは賢者だったが、彼も誤解されただろう。彼が語ったのは通底する自然哲学なのに、ブルジョアジーを敵視する「具体論」故に失敗したのではないか。浄土思想とダブって見える。ブルジョア階級に保有資産を快く再分配させる方法を考え出せたならあるいは、とも思うが。