修験道と密教(8) | Just One of Those Things

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修験道と密教 』から『修験道と密教(2) 』より。


そして、『修験道と密教(3) 』、『修験道と密教(4) 』…とみてきました『修験道と密教(5) 』。


さて、『修験道と密教(6) 』をもう少し掘り下げて『修験道と密教(7) 』をみてきましたが、そこをもう少し掘り下げてみましょう。



修験道における大日如来は、「三身即一(さんじんそくいつ)」、そして「六大縁起」としてとらえています。


三身即一と六大縁起、これらは修験道の教えを理解するうえできわめて重要なものです。



仏には、法身(ほっしん)、報身(ほうじん)、応身(おうじん)という三身があります。


これは先ほど述べた森羅万象に遍満してはたらきわたる仏のおいのち、本源の覚りそのものであり、すがたかたちのない、真理そのものを法身といい、この法身を、誓願と修行によって覚ったところを報身といい、方針それじたいのはたらきとしてこの現象世界に顕現し、衆生の求めに応じて活動するところを応身といいます。



これら三身は、三身にして即一、つまり本質的には一つなのだと修験道では説きます。


そしてこの三身即一ということは、「遍一切処」(一切の処に遍きもの)であり、それは大日如来であり、釈尊の覚りそのものだとします。


このことは『観普賢経』に「釈迦牟尼を毘盧舎那(大日如来)、遍一切処と名づく」と説かれています。



この三身即一の大日如来は、遍一切処、つまりこの世界のどこにでも行きわたっています。


つまり、そのはたらきは、この世界のすべてを成立させ、またそれらすべてでもある六大(地・水・火・風・空・識)縁起の自仏として了解(りょうげ)されるものです。


尚、この六大を「元素」として説明される方もおられるようですが、それは間違いです。六台は元素という実態的なものではなく、あくまでも「はたらき」としてのみあるものです。ゆえに「縁起」というのです。



即ち、その道を歩む者には、本来的な覚り(本覚)が具わっていて、その本来的な覚りそのものが六大縁起の現象世界すべてであり、自分とは切り離されている存在しているように見える現象世界が、仏のおいのちとして自分自身と異ならないということ、しいて言えば、三身そのものが六大縁起の自分自身の現れに他ならないということなのです。


そのことを。無相の三密において、直接的に了解するということが修験道の眼目にほかなりません。



密教では、有相の三密において、即身成仏です・・・。