皆様方御忙しい最中失礼致す
暫し、私の武録に御付合いくだされ
本日も熊本城に御越し下さった御客様、そして我ら熊本城おもてなし武将隊を応援して下さる御客様に感謝して過ごす
此度は覚兵衛殿が体調不良からの復活して天晴れ…
故に久方振りの全員出陣…
清正殿の久し振りの甲冑姿を目にした際には誠に新鮮な気分で御座いました
熊本城に御越し下さった皆様は此度土曜日ということで一日三度の演舞でありましたが楽しんでくれたであろうか…
やはり加藤家が揃うと何かが起きる…
″やんちゃ者″
″熱い者″
″ふんわり者″
″あまい者″
″でぃやな者″
全てを合わせると″わちゃわちゃ″する
本当にわちゃわちゃしとるような写真で御座る…
此度の演舞では覚兵衛殿の策略により私の口上前に笑いが起きた…
そして加藤家家臣による″清正様″掛け声に巻き込まれた私…
思わず目の前の″鬼″を刺してしもうた…
私が場を乱すことはあっても
私の心が乱されることは許さん…
当世では
此れを″ジャイアニズム″というそうな…
ガキ大将扱いするな…
私は大名である…
ふっ……独り言であるから気にしないで下され
そういえば肥後の地が生んだ日ノ本野球界を代表する天才打者…
前田智徳殿……引退…
誠に寂しい出来事であるが新たな時代が来たということであろう
誠に御苦労様で御座いました
私は偉大な貴方を決して忘れませぬ
此度は″前田コール″で寝床に就くと致そう…
今宵も良い夢を…
風邪ひかぬよう…おやすみ
私の武録は以上で御座います
最後の独り言で御座いますが
長月二十八日…
慶長六年(一六〇一年)…
五大老の一人である戦国大名″毛利輝元様″…
戦国の合戦にて大敗した西軍の総大将であった為に今後の処分についての密約が交わされた…
此の関ヶ原の合戦にて毛利輝元様は西軍の総大将という立場であったが実際に関ヶ原本戦場には自ら出陣せず豊臣秀頼様と共に″大坂城″に入った
その後、関ヶ原本戦場では西軍が壊滅したことにより輝元様は東軍″徳川家康様″に降伏し大坂城を退去した訳である…
しかし戦を交わしてはいないにしても総大将であった輝元様の毛利家は御家存続の危機に陥る…
しかし毛利家は無事に存続することに成功する訳である
此の危機的状況である毛利家の為に東軍と密約を交わして助けたのが″吉川広家殿″で御座います
毛利輝元様と吉川広家殿は、共に″毛利元就公″の孫である
輝元様は元就公の長男″毛利隆元殿″の息子であり、広家殿は元就公の次男″吉川元春殿″の息子で御座います
二人共に豊臣秀吉様が存命の頃から徳川家康様とは親密にしていたが、秀吉様亡き後の戦国の世は徳川家康様を中心に各地で不穏な動きが続出…
よって輝元様と広家殿は今後何が起きようとも互いを裏切らずに一致団結を誓い合う″誓紙″を交わしたので御座います
其の読みは見事に的中した…
豊臣恩恵の家臣である″安国寺恵瓊″ の手によって輝元様が西軍の総大将に擁されてしまった事で御座います
此の時、吉川広家殿は安国寺恵瓊殿と仲が悪かったと云われる
元々は毛利家臣でありながら秀吉様の家臣へと鞍替えしたこともあり、広家殿の中で恵瓊殿は信用出来ない要注意人物であった…
故に広家殿の心中は早くから東軍に味方するつもりであり、合戦前から怪しい動きをする恵瓊殿を警戒した広家殿は輝元様の大坂城入城前には
徳川家臣″榊原康政殿″宛に″主君無実″の旨を書き記した手紙を送った…
しかし輝元様が入城した以上は更なる対処が必要と相成ってしまった
其処で広家殿は家康様の信頼も厚く、豊臣恩顧として親交のある私の息子″長政″に仲介役を願い出た…
此れに成功した広家殿は直接、家康様に″主君輝元様が徳川に敵対する意志はない″ことを書き記した弁明の手紙を息子″長政″と協力して送った
すると、関ヶ原の合戦前日に起請文が届いた…
其処には″合戦に不戦すれば戦後の毛利の処遇は全て従来通りに領国を安堵する″内容が書かれていた
此れにより広家殿は翌日の関ヶ原当日、合戦には自陣から全く動かず不参加の姿勢をとった…
そして家康様は輝元様に大坂城の明け渡しを即座に要求し、既に戦う意志の無い輝元様は大坂城を退去した…
しかし此処で予想外の展開が起こる…
其れは輝元様が″石田三成殿″に味方して采配を揮ってた事実が、後々になって明らかとなったので御座います
広家殿は徳川側から送られてきた起請文が前日であったこともあり、輝元様に起請文の内容を上手く伝えることが出来なかったので御座います
此れでは自分の領地は安堵されても毛利輝元様無きでは″毛利の家名″そして″領地没収″…
それでは広家殿の収まりはつかない…
広家殿が望むものは″輝元様″そして″毛利の家名″なので御座います
絶対絶命の広家殿は″長政″や″福島正則殿″に向けて、何とか毛利の家名を残してほしい願いを涙ながらに書き記した手紙を送った…
此の時の広家殿には最早、情に訴えるしか術が無かった…
手紙には″主君輝元様は今後、家康さんに刃向かう事なく忠節を尽くす…もし万が一の際には自らが輝元様の首を取り家康様に差し出す″との内容が…
此れには流石の長政や正則殿も心を動かされ、二人の協力もあり、後に毛利に対して誓紙が送られたのである
其処には″周防と長門の二国の安堵″そして″輝元様の長男″秀就殿″を人質として父子共に身の安全を保証する″内容が書き記されていた…
本日は毛利輝元様が長男″秀就殿″を江戸へ人質として差し出した日で御座います
人質として差し出された僅か七歳の″秀就殿″は其の後の十年間を江戸で過ごし、慶長十六年に弟″就隆″と交代する形で本拠地の周防国に戻った…
″約一二〇万石″から″約三十七万石″という三分の一以下の減封となったが何とか家名だけは存続した毛利家であった…
では…
また明日…
黒田官兵衛孝高