袖のない防寒コート | Adagio Days

Adagio Days

カオスなブログ

※過去記事再投稿させていただいています。

毎年寒くなると思い出す記事、

長いのと、ヘビーな内容なので、それを了承の上読み進めてください。









先日新宿住友ビルで所要があり、


帰りに同ビル49階の平和祈念資料館へ行ってきました。


もちろん毎度のおひとり様で。^^








以前NHKで放送されていた


吉田茂のドラマ『負けて勝つ』を観ていたのもあり、


1945年、終戦直後マッカーサー率いる


GHQ占領下の日本をもっと知りたくて行ったのですが・・・。





毎朝自分に問いかけてみる。







エントランスは両サイドの壁全面に、


太平洋戦争の引き金?となった


日中戦争(昭和12年)から、


昭和20年の終戦までの戦い、


戦後の復興までが時系列で掲示されてました。









私達の世代?


私自身の子供の頃からの戦争の認識って、


広島・長崎の原爆投下とか、


東京大空襲とか、


なんだか、アメリカにこてんぱんにやっつけられたって印象だったけど、


やられるにはやられるだけのことを


日本が最初にふっかけてきたんだよなって・・・。


このエリアだけであらゆる思いが駆け巡りました。






毎朝自分に問いかけてみる。






前にも書いたけれど、


母は顔も覚えてないという一番上のお兄さん、


私の叔父はフィリピン北部のルソン島というところで戦死しました。









ルソン島の戦いが勃発したのが昭和20年の一月だったから、


この頃は敗戦の色濃く、


戦地への食糧や武器などの物資搬入も閉ざされ、


6万人とも言われるルソン島での戦死者は、


飢え死にするか


マラリアなどの伝染病にかかり、


そのまま死ぬか、


マラリアに侵されながら自決した人も多かったのだそう。










もしあなたのご親族で戦死された方がいたら、


どこの国や島で戦死したかがわかれば、


そこでの戦いの様子や


その時の状況がここでは詳細に分かると思います。


戦争体験者による戦地別の関連書籍もたくさんありました。





毎朝自分に問いかけてみる。






一方で義理祖父の家では、


祖父の兄、


長男と二男を戦争に取られ、


三男(義理祖父)まで死なれたら困ると、


祖父のお母さんが懇願して工学系の大学に進学させ、


軍事工場に配備され、戦地への出兵は免れたそう。


その当時は戦死することはめずらしくもなかったのかもしれないけれど、


二人の息子の命を戦争で奪われた


祖父のお母さんの悲しみは計りしれなく。。












下の写真は海外の戦地からの引揚船の中の様子。


食べるものも着るものもろくになく、


日本へ帰還中、


引揚船内で亡くなった赤ちゃんのおむつを外して作られた


子供の洋服(実物)などが展示されていました。





毎朝自分に問いかけてみる。






NHKドラマの影響で、


吉田茂のこと、


吉田茂の側近だった白洲次郎が生きた時代


GHQやマッカーサーのこと、


東京裁判や、戦後の財閥解体等、


その後の日本復興のことが知りたくて足を運んだはずなのに、


そこまでの道のりを素通りすることはできませんでした。












そんな中しばらく足が止まってしまったのが、


シベリア抑留の展示コーナー。


今日のタイトル『袖のない防寒コート』は


そこで知ったエピソードです。








毎朝自分に問いかけてみる。





シベリア抑留・・・



正直、その言葉となんとなくの話しか知らなかったけれど、


資料館では、その当時の状況が詳細に説明・展示されていました。











ガイドブックの説明を引用します。



『戦争が終結したにもかかわらず、


 約57万5000人の日本人がシベリアを始めとする


 旧ソ連やモンゴルの酷寒の地において、


 乏しい食糧と劣悪な生活環境の中で過酷な強制労働に従事させられました。


 寒さや食糧の不足などにより、


 約5万5000人が亡くなったとされています』



―引用ここまで―




毎朝自分に問いかけてみる。





なぜ戦争が終結したのに、


ソ連は日本兵を強制抑留させたのか?









知ってる方からしたら説明するまでもない話しですが、


当時のソ連の最高指導者のスターリンが


ポツダム宣言(日本の無条件降伏宣言の要求)を無視して、


日本人を強制労働させるように命じたから、ということ。











シベリアでの抑留生活というのが、


マイナス40度という酷寒の中、


手作業で鉄道建設などに従事させられ、


粗末な食事しか与えられず、


栄養失調や伝染病で亡くなる方はもちろん、


凍傷で腕や足を切断された方も多かったそう。













シベリア抑留から無事帰国した方々(今は故人)の体験談が


上映されていましたが、


そのエピソードは言葉を失う内容ばかりで。。







そんな中、


コーナーの中央にかけられた


一着のコートに釘付けになりました。


両腕の袖がない防寒コート。









終日マイナス40度の中で働かされ、


一日一食、


粗末なパンを一切れと水のようなスープだけという食事では当然足りず、


一人一着だけ与えられた防寒コートの袖の部分と引き換えに、


パン一切れを交換したのだそう。


最初は片腕の袖だけ、


次はもう片方の袖と、


たった一切れのパン欲しさに。。









画像は、パンフレットのものですが、


実際にハンガーにかけられ展示されていた実物を見つめていたら、


なんとも言えない気持ちに。。





毎朝自分に問いかけてみる。





明らかに違法行為なシベリア抑留者の帰国は、


戦後翌年1946の年末から、


日ソの国交が回復する1956年(昭和31年)まで続き、


最長で11年間も抑留生活を強いられた人達もいたそう。











余談ですが、


シベリア抑留経験者の中には旭化成の元会長や


伊藤忠商事の元社長、ワコールの元副社長、


知っている方も多い帝国ホテルの元総料理長の村上信夫さんなど、


みなさん既に亡くなられていますが、


各界の著名人が多い。








理不尽で非道で生き地獄とも言えるような過酷な日々を経験し、


それでも生き延びてきたことが、


その後の人生に少なからず影響を与えているような気がしました。










私を含め読者のみなさん全員が戦争を知るわけでなく、


個人的興味のみで訪れた資料館。


日本の暗い過去を取り上げ、


優等生ズラして、


平和を提唱するかのような記事書くのもどうかと迷いましたが。。














訪れて思ったこと・・・


戦中戦後の長い時間、


多くの日本人が食べるものも着るものも、


あたたかく眠る場所も、


夢や希望、家族や友達との笑顔の語らいも、


満足に持てなかったということ。













私達がこれからもっとこうなって、


もっとああなって・・・って、


より高みを目指すことは悪いことではないけれど。。。












時に立ち止まり、


今既にあるもの、


既に満たされているものについて考えてみることも


大事なんじゃないかなって思いました。



~Today's self coaching~




※質問にピンときた方のみ考えてみてください。




今日の記事を読んで、


あなたは何を思いましたか?

















ランキング応援いただけると

ブログ更新の励みになります!

いつも応援ありがとうございます。

ファッションランキングへ

トラコミュ
シベリア抑留

戦争映画
戦争のない未来のために
戦争より平和を
平和共存
 
幸せについて