STAP細胞の論文捏造疑惑 - 不正行為の背景にある研究費の熾烈な獲得競争 | すくらむ

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 理化学研究所の小保方晴子ユニットリーダーらが発表したSTAP細胞の2本の論文に、不自然な画像の使用や、論文流用などが多数見つかっている問題で、昨日、理研が記者会見を開き「論文の取り下げを視野に検討している」と発表しています。

 こうした研究者による論文捏造は繰り返されてきましたが、この問題についての総合研究大学院大学教授・池内了氏の指摘を紹介します。(※私が事務局を担当して、つくばで開催した国立試験研究機関全国交流集会で、2010年6月17日と2012年6月21日に科学者・研究機関の社会的責任をテーマに、池内教授に講演いただいた一部の紹介です。文責ノックオン。ツイッターアカウントはkokkoippan)

 科学者・研究機関の社会的責任を考える
  総合研究大学院大学教授 池内了氏


 (池内了[いけうち さとる] 天文学者、宇宙物理学者。総合研究大学院大学教授・学長補佐・学融合推進センター長。名古屋大学名誉教授。理学博士(京都大学)。世界平和アピール七人委員会委員。「九条科学者の会」呼びかけ人)

 研究費の熾烈な獲得競争が
 論文捏造など不正行為の背景にある


 研究における不正行為はなぜ起こるのでしょうか。実験データを捏造してもいつかそれがあばかれるであろうことは当の研究者も知っているはずです。それなのに論文捏造が起こってしまうのですから、これは構造上の問題ともいえるでしょう。

 国立研究機関でも国立大学法人でも研究費の獲得競争が熾烈になっていることが、こうした論文捏造の大きな背景にあります。

 この間、国立研究機関の多くが独立行政法人化され(※理化学研究所も独立行政法人化されています)、国立大学も国立大学法人化されました。そして、それぞれの主要な財源である運営費交付金が毎年削減され、基盤的な研究費も削られ続けていて、研究者も追い詰められているという状況があるのです。

 研究者は、研究費がなければ、研究はできませんし、論文を書くこともできません。論文を書くことができなければ、研究費を獲得することもできません。とりわけ、競争的資金と呼ばれる公募型の研究資金を獲得するためには、他の研究者との相対的な比較の中で、少しでも目立たなければなりませんし、論文を多く出版する必要があるのです。

 研究者の世界の言葉に、「publish or perish(論文を出版せよ、でなければ破滅)」というのがあります。何が何でも論文を出版しなければ、研究者としては死を意味するということです。そうすると、論文を発表できなくて追い詰められた研究者は、論文捏造に走ってしまいかねないわけです。

 一般に論文捏造が行われるのは医学や生物学の分野に多くなっています。もともと人体や生物には多様性があることが特徴で、反応も個体によって異なる場合があり、そのような実験結果が出たと言われれば簡単には否定できないからです。さらに、微妙な実験が増えてデータや画像を見ただけでは不正が見破れなくなったことも一因としてあります。

 それから、教授のような身分が安定した研究者が論文捏造に直接手を出すのではなく、研究者として岐路に立っている人が不正行為に手を出すケースが多いということも特徴です。

 教授が直接不正行為を行わないのだけれど、その研究室のポスドクや助教、大学院生がデータの捏造を行うというケースがあります。教授は研究現場には顔を出さず実験をポスドクなど若手研究者に任せきりにして、早くデータを出せと迫るばかりなので、実験を任せられた若手研究者は思い通りのデータが出ないと追い詰められた気分になり、教授の覚えは将来の身分にも関係するから、つい不正行為に手を出してしまうという構造上の問題もあります。そうして出されたデータを十分にチェックすることなく、教授は教授で「publish or perish(論文を出版せよ、でなければ破滅)」と、論文にしてしまう、という構図にもなっているわけです。

 また、研究室の教授から若手研究者が直接頼まれなくても、その研究室のヒエラルキーの中でトップの意向や圧力を感じて不正に走ることもあります。せっかく、トップが研究費を取ってきたのだから、とにかく何が何でも結果を出さなければと考えるわけです。

 こうして研究費の獲得競争などの構造上の問題によって、じっくり時間をかけて論文を書くという風潮が失われると同時に、論文捏造などの不正行為も蔓延するようになっているのです。

 (※これ以降は、福島原発事故にかかわっての概念的な科学者の社会的責任について池内教授が語った部分です)

 事故の背景にある「罪」と「過ち」

 ゴードンという人の『構造の世界――なぜ物体は崩れ落ちないでいられるか』という本が丸善から出ています。これは古い本で、絶版になっているかもしれませんが、建物、建築物の事故をいろいろ調査した後、どこに問題点があったかをまとめた本です。その最後の部分で、「事故というのは罪と過ちと金属疲労によって起こる」と書いています。

 私はこの言葉が好きでよく使います。「罪」と「過ち」と「金属疲労」です。「過ち」というのは過失、錯誤です。読み違いとか、聞き違いとか、見間違いです。そういう過ちはだれにでもあるということです。「金属疲労」というのは、設備が老朽化している、あるいは不良部品が使われている。われわれの側の責任ではなくて設備そのものの責任です。

 けれども問題は「罪」である。これは倫理的な罪のことです。ゴードンは「事故を点検してみたら97%が罪に関わっている」と言っています。罪とは何か。これは不注意、手抜き、不勉強、知らなかったというわけです。縄張り意識、ここまでは俺のところだけど、そこから向こう側は知らない。自尊心、慢心、驕り、妬み、貪欲、メンツ、度量の狭さ、意志の弱さ、狭い視野、これらいろいろの「罪」が事故の原因になっていることがほとんどであると彼は言っています。

 「過ち」の背景にもこの「罪」の側面がある。過ちを起こしたときに自尊心が傷ついて相手の忠告をきちんと聞かなかった。それで操作の間違いを起こした。これはたんに操作の間違いではないのです。その背後には自尊心があったということになります。だから「罪」をもっと意識しなさいと彼は言っているのです。これは科学者・技術者に対して重要な忠告ではないかと思います。

 プロフェッションとは何か

 プロフェッション(専門職)とは何か。これは私自身が、特に科学者をめざす若者に対して科学・技術・社会論という科目でいろいろ言っています。特に科学者の社会的倫理責任について講義等で言っていることです。

 要するにわれわれは科学あるいは技術のプロである。プロであるという意識をまず持つ必要があるのです。「プロ」というのは何々の前で、「フェス」というのは宣言する、誓約する、述べる。神の前で宣言するということです。神の前で誠実に仕事をすることを宣言するのが「プロフェッション」なのです。

 いわゆるプロフェッション(専門職)とオキュペーション(職業)の違いは何かを考えます。われわれが専門職として位置づけているのは、医師とか弁護士、看護士、学校の先生です。これらはいずれも基本的には免許を持っている方です。大学の先生や研究機関の人々は別に免許を取っているわけではないけれども、プロフェッションです。状況はいろいろあるのですが、たとえば専門的な訓練を経ているということです。大学なり大学院において数年間の専門的な訓練を経ている。それは基本的には国家の金で賄われているわけです。

 いったんある種の仕事をやると、そのサービスの独占権を持っています。ある意味ではそれに対して外部から文句はつけられない。ある一定程度われわれが、あるいはチームとして決めることもあるかもしれませんが、ある方針を決めると、ある設計を決定すると、それは外部から文句は言えないわけです。そして、その仕事は社会の福利に貢献をするということです。
 サービスの独占権と基本的には同じことですが、高度な個人的な判断と創造性という自治があるということです。規律に関しては倫理規範によってのみわれわれは制約を受けているわけです。

 プロフェッションの特質

 プロフェッションとはそういうもので、それを公式的に書くと専門性、自律性、独自の倫理というこの三つの側面で特質が決まっているわけです。

 専門性というのは、特殊で専門的な知識を体得しているということです。これは科学者、技術者としてすべてわれわれは訓練を受けているし、そういう知識を持って仕事をしている。これは非常に独自の立場です。

 自律性は、他の集団から指示や干渉を受けないということです。

 それから、独自の倫理を持っています。これは職務規程です。全構成員が遵守する義務があります。それは社会の信頼ということと深い関係があります。社会からの信用の上に立ってわれわれの仕事が成立しているという意味です。だから科学者あるいは技術者は、免許はないけれど典型的なプロフェッションとして成立しているわけです。

 科学者の3つの責任


 科学研究者には、倫理責任、説明責任、社会的責任という3つの責任があります。

 倫理を考える上で、ハーバードのサンデル教授が討論を主体にした哲学を論じた講義が参考になります。そこで彼はいろんな立場から倫理というのをどう考えるか、いろいろな例を打ち出して議論しています。

 「沈没船のジレンマ」という、有名なエピソードがあって、サンデルも似たような例を出しています。船が沈没しかかっていてボートが出された。ボートには50人しか乗れない。しかし乗客が100人いる。あとの50人は見放さなければならない。だれから選ぶかという問題です。

 この場合に、功利主義倫理というのがあります。最大多数の最大幸福というものです。多くの人間が幸福感を感じるような社会こそ最大幸福な社会になるのである。だから社会に役立つ人間から優先していけばいい。露骨に言えばそうです。

 倫理というものはそう簡単にすぐ答えが出る問題は多くない。サンデル教授のものもいろんな議論が可能です。サンデル自身も明確に答えを出さない、答えが出せないという特徴もあるのですが。しかし、少数者の権利というのは常に持っておく必要があります。頭に置いておく必要がある。これは倫理と補完的な意味合いだと思います。

 功利主義の拡大

 功利主義をわれわれはつい拡大していくということです。やむを得ない側面もあります。

 コストとベネフィットという発想、これも功利主義です。コストを最小にしてベネフィットを最大にするという、これはまさしく最大多数の最大幸福です。不幸な人間を最小にすると言った人もいましたが、金額に換算できないコストとベネフィットがあるということを前提にしておかないと、功利主義の倫理は冷たい倫理になってしまいます。

 一つの命と多くの命があるわけです。つまり一つの命で実験をして、その結果を多数の命に生かす。これも功利主義の考え方です。

 たとえば放射線基準量が決まってきた歴史は、放射線に対して無知だったこともあるのですが、人体実験同様の実験でこれだけ放射線をかけると危ないということでだんだん厳しくなってきました。あるいはプルトニウム人体実験というのがアメリカで行われました。これは原子力委員会が承認した実験です。プルトニウムが体に入ったときにどれぐらい体内に滞留して体の外へ出ていくかを実験したわけです。放射線もそうです。いま内部被曝はいろいろ問題になっていますが、セシウムを体の中に入れたときにどれぐらいの期間で対外へ押し出されていくか。50日とか出ています。原子核の半減期以外に体の中の半減期というのがあるわけです。そういう場合に、個人の命を実験台にして、多数の命、つまり社会全体の安全値みたいなものにくみ上げていくというやり方が取られてきた。そのとき個人に危害を与えながらより大きな安全、より大きな社会の安全というのをめざしているわけですが、これに対して本当にそうなのか。個人の命そのものをもっと大事にする。いま人体実験は禁止されています。それは個人の命も地球と同じ重みがあるということです。しかし、いざとなれば功利主義の立場に立ってしまうわけです。

 科学に携わる者として


 そういうふうに功利主義倫理がいろいろな面であります。これはやむを得ない側面と、われわれ自身がそれを補って適用しなければならないという側面があります。だから科学に携わる者として、科学の内実が本当に市民に生きているかどうかを、常にわれわれはチェックする必要があります。

 科学の知見がいかに使われるかという想像力、何をもたらしたかという現実の直視、真実を受け入れるかという知的誠実さという3点を基本にして、科学者の倫理規範というのを私なりに考えてみたわけです。これは実は科学者だけではない。あるジャーリストの会でしゃべったら、それはジャーナリストにも当てはまると言われました。いろいろな職業にすべて当てはまることであるかもしれません。

 科学者の倫理規範


 科学者の倫理規範の第1番目は、専門家の想像力を持たなければならないということです。そのときにわれわれが押さえなければならないのは、近場の利益と長期の損失です。つい近場の利益でわれわれは満足する、あるいは近場の利益を優先させてしまう。そして長い時間をかけてじわじわと表れてくる損失に関しては目をつむる傾向があります。長いタイムスパンの中できちんと想像するということ、これはものすごく大事な要素ではないかと思います。

 それから2番目に公開の原則。これは逆に言うと、現実を直視しましょうということです。オープンな議論にこそ科学の真髄があるわけです。科学というのはいろんな立場の人間がいろいろな意見を、あるいは見方を、考え方を、方法を討論する中で鍛えられていきます。現実に何が起こったかということを具体的にまず見ておくこと、それをオープンにする必要があります。今度の原発事故は全くそれがなされなかった。現在もなされていません。原子炉の状態がどうであるかいまだに不明です。近寄れないという理由はあるのですが、いろんな点で調べることはできるはずです。想像力と現実を見て、それを土台にして議論はできるはずです。

 3番目は、真理に忠実ということです。知的誠実さが求められています。もし自分が間違っていたら、はっきりと明確にそれを認めて自分の意見を変えるということです。それこそが知的誠実さです。

 4番目に一人の市民として、自分の子どもや両親に対して誇りを持ってやっていることを言えるかというわけです。死の廃液を垂れ流したとは子どもには言えないというようなことです。

 これら科学者の倫理規範というのはすべての職業人に対する倫理規範だと思っています。

 科学者の社会的責任

 科学者の社会的責任というのは、専門家としての知識や経験を生かすということです。科学者でなければわからないこと、あるいは科学者としての判断ができることがあり、それを社会に公正に伝えるということです。

 いろんな伝え方があります。マスコミで伝える方法もあるし、NPOとか、NGOとか、地域とか、九条の会とかいろいろな運動があるわけです。いろいろな運動の中で伝えていくのは、科学者の社会的責任として重要な側面ではないかと思います。

 先ほどから言っているのでおわかりだと思うのですが、想像力と、現実の直視と、真実に忠実、この3つを基礎にして科学を実践する者として何が可能であるかを考えていくことが必要なのではないかと思っています。

 『科学技術白書』にあるように、いま科学者に対する信頼が落ちています。確かに今度の東日本大震災の後、科学は人間を本当に幸福にしたのかと疑問を持つ人が多くなりました。しかし、科学から離れて生きることは現代の社会においてはできないことです。とすると科学を人間の幸福のために使われていくべきだということ、あるいは幸福のために使われる条件を満たしているかということをきちんと考えていく。つまり社会に生きる科学です。それをわれわれは常に持ち続ける必要があるのではないでしょうか。

 最近『科学と人間の不協和音』という本を角川新書から出しました。そこで、科学と人間の間に不協和音が鳴っている、その原因はいろんな要素があり、たとえば欲望に奉仕する科学となっている。しかし、その中でわれわれは本当に人々の幸福につながるようなことに心を砕いて仕事をしているか、運動をしているかを、常に問い直してみるということではないかと書きました。

 午後からのパネルディスカッションでは東日本大震災に絡んで各研究機関、各労組がどのようなことをやってきたか、やろうとしてきたかという話がなされるそうですが、まさにそういうことを経験しながら、自分たちはこうしたいと思ったからできるようになった、あの機関ではそういうことがやれた、それはなぜか、どういう状況だったか、そこらをお互いに学び合いながら、社会に生きる科学をきちんと伝えられる科学者であること、そういう存在であってほしいと思います。こういう集まりこそがそういうためになっていくことを大いに期待したいと思います。どうもありがとうございました。

▼参考エントリー
STAP細胞の論文捏造疑惑であらためて考える研究者のモラル-論文捏造・研究不正の背景にあるもの

http://ameblo.jp/kokkoippan/entry-11792596762.html