アトムに分解されるノンエリートの過労死へと「強制された自発性」さえブラック企業に食い潰される惨状 | すくらむ

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国家公務員一般労働組合(国公一般)の仲間のブログ★国公一般は正規でも非正規でも、ひとりでも入れるユニオンです。

 前回のエントリー「タックスペイヤーたる中産階級とワーキングプアの絶望的な怨嗟が合流する公務員バッシング」と同じく、熊沢誠甲南大学名誉教授インタビューの一部を紹介します。(byノックオン。ツイッターアカウントはkokkoippan)

 公務労働組合運動とはなにか
 ――アトムに分解される労働者の受難に寄り添う
  熊沢誠甲南大学名誉教授インタビュー

 (『国公労調査時報』2013年6月号No.603より一部抜粋)

 安倍政権による労働法制の規制緩和

 ――安倍政権は労働法制の規制緩和を推し進めようとしていますが、これをどう見ればいいでしょうか?

 安倍政権は、日本を「世界で一番企業が活動しやすい国」にすると言っていますけれど、専門家は誰も、日本は労働と雇用について規制の強い国だとは思っていません。企業の労働者の雇い方や働かせ方については、ヨーロッパ諸国と比べると経営者のフリーハンドが強い国です。

 日本は正社員の解雇規制が強過ぎる?

 ――竹中平蔵氏や八代尚宏氏などは一貫して、正社員の解雇規制が強過ぎることが問題で、これが日本の成長を妨げているんだとずっと言っています。

 建前のうえで終身雇用というのがありますから、「強制された自発性」にもとづいて「不要な従業員」を退職させようとして、面接や「追い出し部屋」送りで、労働者の自尊感情を破壊し、退職を余儀なくさせる労務が横行しています。そういう歪みも正社員の解雇ができないからだと財界は主張しているわけですね。

 能力・成果の査定で
 リストラの対象者選別は企業の自由


 もっとも大切なことは、「年功制の国にストレート・セニョリティなし」の事実だと私はいつも思います。ストレート・セニョリティとは、査定のない勤続年数一本で競争・選別なくレイオフ者の順番などを決めることです。能力・成果の査定による選別が正当性を疑われることなく猛威をふるっている現代日本の企業では、要するにリストラの対象者選別は企業の自由です。それでも追い出される人に提訴できるだけの主体性が残されているのならまだ救われるのですが、先ほど言いましたように、「退職勧奨」は訴えうる主体性そのものを破壊するまでに精神的に追いつめるまでに至っています。

 訴えることができれば、ゆきすぎた「勧奨」も「強要」ということになって「違法」になるから、今回の規制緩和は、裁判で違法と判示されても、カネで容易にリストラできるようにしようというわけですね。「移動を容易にするため」とも理由づけられていますが、移動が可能な人は今でも移動しているわけですよ。むしろ転職の難しい人を辞めさせたいわけでしょう。労働市場での競争上不利な人に雇用機会を用意する施策なしに、追い出しを強行しようとしている。私はいかなる場合でも、「評価される能力とはどんな内容で、どんな基準ではかられるか」という退職勧奨のルール、また、職場の現在の要員数や仕事のノルマに対して労働者の発言権がないとき企業が唱える「流動化政策」というのは、かならず将来の保障ないままの首切り自由になると思っています。

 労働時間規制の緩和は論外
 11時間のインターバル規制こそ必要


 労働分野の規制緩和でさらに問題なのは、労働時間規制の緩和です。これは論外です。というのは、すでに労働者のかなりの部分は実質上、労働時間の規制を外されています。論者によっては、ホワイトカラーを中心に4割くらいの労働者がそうなっていると言うくらいです。「名ばかり管理職」ということもあるし、サービス残業も休日出勤もある。週60時間以上働く労働者はすでに、男性正社員の20%から22%くらいいます。こんな時に、さらにエグゼンプションを拡大するというのは、どういうことなんでしょう。論外としか言えませんが、ホワイトカラーエグゼンプションは財界念願の主張ですから、自民党が支配している今、やってしまおうとするでしょうね。決して許してはなりません。ちなみに、今の日本にもっとも求められているのはヨーロッパにすでに機能しているインターバル規制(退勤から次の出勤までの最短時間を、例えば11時間というように規定すること)です。ワーク・ライフ・バランスが「国民的課題」なら、制度化が考えられるべきです。

 有期雇用の入り口規制がない日本

 それからむろん、非正規労働者の雇用契約期間の問題があります。あれだけ期待されながら民主党政権が、これを中途半端に、いい加減に放置したことの責任が問われます。例えば直接雇用の有期雇用者も派遣労働者も、日本には入り口規制というものがありません。それを獲得する力量が労働運動にないんですね。ドイツでは、有期雇用を活用できる資格が厳しく問われます。しかし日本は、継続的な仕事でも、いくらでも有期雇用を使えるのです。派遣労働では業種の自由化・適用職種の原則自由化が再び提案されるでしょう。ついに禁止できなかった製造業派遣や登録型派遣が規制されることもしばらくないでしょう。

 有期雇用については、私は今回の改正で5年「積算」という考え方は高く評価しています。しかしもともと企業は有期雇用者を無期雇用にしたくないわけですから、5年より契約期間を短くするということが流行るでしょう。さらに問題はクーリングオフです。新聞は最近あまりクーリングオフのことを指摘しなくなりましたが、これは「積算」を無意味化する措置。ここで労働側は、画期的なことを考えなければならないと思うのです。

 私はクーリングオフ期間中の労働者は、同じ企業の同じ仕事について雇用の優先権をもつようにしなければならないと思います。つまりクーリングオフ中の人がいたら、企業は同じ仕事に別の人を雇ってはならないということにすべきです。これはセニョリティの考え方です。一定期間働いた労働者は、その職場に一定の居住権をもつという考え方です。こんなことは無理でしょうか。なぜ無理なのでしょう。

 もともとクラフトマンや専門職でない一般労働者にこそ、競争制限の基準としてセニョリティが必要とされたのです。しかし日本の経営者は、正社員と認定しない(できない)労働者はどのように扱ってもいいと考えたがるようで、それで今度、正社員も自由に解雇できるようになると、企業が制約なく捨てることのできる労働者がぐんと多くなります。企業は命じられるままに働けると査定した従業員だけを雇用し続けるということですね。

 すべての労働者の存在形態に応じた労働組合が必要

 これからは「限定的な正社員に」という議論もあります。それに関して、少し誤解を招くかもしれませんが、私は日本経団連のいう「雇用ポートフォリオ」にはあまり反対ではありません。従業員を3つに分けるということ自体は理解できます。多くの方があのポートフォリオによって非正規雇用が増えたと言うのですが、少し違うと思います。「雇用ポートフォリオ」は、70年代末から増えてきた非正規雇用の傾向や経営者の希望を総括しただけだと私は思うのです。それによって非正規雇用が公認されたと思う人もいるかしれませんが、もともと雇用形態は経営者の決めること、経団連の文書で増えたわけではありません。私は、職場に定着する人と、横断的な労働市場で専門職に携わる人、それにどの企業、どの職場で働くかは偶然的な流動的労働者の3つに分かれていくこと自体は仕方がないと思います。すべての労働者をどこかの正社員にしなければならないとはいえません。

 私が指摘したいのは、すべての労働者が層別の存在形態に応じた労使関係、労働組合をもつことがなによりも大切だということです。例えば現代の日本では、クラフトユニオンも一般組合も、職場全員組織の産業別組合も必要です。非正規労働者でも、常用型の非正規労働者がいますね。地方の工場などにはフルタイムパートがいます。もう10年も同じ工場で働いているフルタイムパートのような人こそ、職場全員組織に入って、正社員と均等待遇されなければなりません。そこに企業別でも労働組合機能の真偽が問われるのです。

 しかし、「1日3時間くらい、どこで働いてもいい」という働き方を望むパートやアルバイトがいることも事実で、これは企業別組合に加わる必要はありません。一般組合、コミュニティユニオンの方がいいと思います。ようするに、どのような働き方であっても、労働者が労働状況に対して発言権をもつことがなによりも大事なのです。医療などの現場でも、医師とナースがそれぞれで企業横断的な労働条件の比較を試みるという営みがあっていいと思います。総合職エリート社員でない「(機能)限定的正社員」ももちろん「あり」ですね。

 「強制された自発性」さえも破壊するブラック企業

 ――ブラック企業と過労死・過労自殺が今の日本の雇用労働の深刻さをあらわしているように思います。

 私は過労死や過労自殺について『働きすぎに斃れて』(岩波書店2010年)を出版していますが、日本の労働者を過労死に誘う意識は、「強制された自発性」と把握しています。

 今の時点で特に指摘しておかなければならないことは、基本的には「強制された自発性」は「健在」ですけれど、高度経済成長の時代に正社員サラリーマンが昇進や昇給をめざして働きすぎたというのとは少し違います。今、ブラック企業の若手正社員は、前向きの展望もさりとて抵抗する主体性も奪われているという点で、客観的には強制に近い状態に追いこめられている。あるいは「自発」の主体性も破壊されているといっていいほどです。

 能力主義的な選別によりアトムに分解される労働者

 ここで気づくことに、現代日本の労使関係において一番大きな問題は、労働者の配置やノルマ、命令される残業、雇用保障などが〈個人処遇〉になっていること、その結果、労働者個人はアトムに分解され、企業に入る前も入ってからも、熾烈な競争に投げ込まれていることです。それが官民を問わず、能力主義的な選別が行き着いた先です。〈個人処遇〉とは、例えば、労働の具体的なあり方が上司と労働者の個人別の関係のなかで決められること。過重なノルマ残業、不利な配転などはここで決まる。そのプロセスは、「目標管理」とか執拗な「圧迫面接」です。リストラ期の退職勧奨の場合、狙われた従業員は、そこでノルマの未達成や能力・努力の不足を責められて、自尊感情を破壊され、「自分は役に立たないんだな」と悟ることになる。心身が打ちのめされて鬱にもなる。すると今度は「辞めた方があなたの健康のためにいいんじゃないか」と言われる。そうした状況下では、行政や司法に訴える主体性そのものが壊れています。外部の労働組合に訴えてくる場合でも、「率直にいうと今訴えてくる人の3分の1くらいはもうどこかおかしくなっている」と相談者はよく言います。自分の状況や要求をきちんと説明できなかったり、泣き出したり、自分の問題を客観視できないようにされてしまっているのです。

 〈個人の受難〉に労働組合がどう寄り添えるかが鍵

 現時点では、〈個人処遇〉化の結果、労働者のしんどさがすぐれて〈個人の受難〉として表れています。ですから、職場の労働組合も外部の労働組合(コミュニティユニオン)も、どこまでも〈個人の受難〉に寄り添い、連帯的な介入を試みることが大切なのです。どこかに訴えに行くにしても一人で行くのと組合がついて行くのとでは全然違いますからね。生活保護の申請でもそうでしょう。

 けれども、とくに企業別組合では、この〈個人の受難〉を、それは労使関係のアジェンダではないと放置しています。そこが駄目なんです。そこが駄目だから深刻な労働問題に対して組合運動が労働者に見放されているのです。そう痛感します。私は、ブラック企業問題については結局、〈個人の受難〉に対して労働組合がどう寄り添えるかが鍵だと思います。法的規制にはおのずから限界があります。

 ブラック企業と公務員バッシング

 ――ブラック企業が広がる中で、公務員バッシングの背景に「公務員は民間に比べれば楽なのではないか」という国民意識はありますか?

 昔から「低賃金は高賃金を駆逐する」とよく言われます。悪貨は良貨を駆逐するということから来た言葉ですけれどね。それと同じように労働条件でも、ともすれば下への収斂みたいな傾向があって、ひどい条件のもとで改善の方途なく呻吟しているブラック企業の労働者は、それほど状況がひどくない公務員を名指して、「これだけ恵まれているのに文句を言うな」ということになるんです。だから公務員労働組合は、みずからで非難されるカラ残業を廃止しながら、例えば民間のサービス残業を批判するという二面作戦が必要だと感じます。

 民間労働者は公務員バッシングで
 みずからのサービス残業改善の立脚点を失う


 民間労働者は公務員バッシングに加担することによって、みずからのサービス残業を改善する立脚点も失いがちなのです。役所は模範的なエンプロイヤー(雇用主)であるべきだというのがヨーロッパ諸国では常識なのですから、公務員の世界で望ましい働き方が実現していることを、なにも恥じることはないのです。ところが、辛辣にいえば、今は公務員も、例えばサービス残業くらいして過労死でもしなけば「国民に悪い」みたいな気持ちになっているのではありませんか。そうした点も日本の公務労働運動の思想的課題です。

 ノンエリートのままで人間らしく暮らせる
 ようにするのが労働組合の役割


 ――熊沢先生は著作の中で、ノンエリートが人間らしく暮らせるようにするのが労働組合の役割だと指摘されています。最近、ノンエリート論が少し流行り出しているところもありますね。

 私は86年に『ノンエリートの自立』(有斐閣選書)という本を書きました。当時はかなりこの用語に反発もあったと思います。なぜかというと、「多くの人はノンエリートだ」と決めつけることは残酷、それは立身出世の機会の解放に賭ける市民の願いに水を差す発想だというわけです。しかしその非難に意味があったのはせいぜい70年代前半までだと思います。私は格差社会化がその頃からはじまった86年に、日本の庶民に一番必要なのは「ノンエリートの自立」だと考えました。分業がある限り競争の成功者は少ないのですから、不成功者=ノンエリートが成功者=エリートに対していわれなきコンプレックスを抱き、文化的にエリートに対抗できなくなることが最も良くないことだと書いたのです。

 実は、上位ステイタスへの参加機会と、ノンエリートの生活と権利の擁護とは、ある矛盾する側面があります。なまじっかノンエリートからの脱出の機会が開かれていると、下位にとどまる者が上位に脱出していった者に対して、発言したり、告発したり、抵抗したりすることが世論のなかで軽視されがちになるのです。なぜなら「そんなに言いたいなら、がんばってその立場に立てばいいだろう」ということになるからです。労働組合運動の考え方はその真逆──地味な労働でほどほどの生活、それでもエリートに支配され操作されることなく、ノンエリートのままでやっていけるようにする組織だと、私は今でも考えています。格差社会の拡大とともに、このノンエリートの自立という考え方は一定受け入れられて、今ではノンエリートという言葉は、現時点ではさして抵抗がなくなったと思います。ノンエリートというタイトルをもつ本も出てきました。まぁ、いってみれば、エリートの仕事は不必要なものも多いけれど、ノンエリートの仕事は社会に不可欠な仕事が多いですからね。

▼関連エントリー
非正規の惨状が「ブラック企業化」と正社員の「働きすぎへのムチ」として利用される
http://ameblo.jp/kokkoippan/entry-10659757868.html

▼インタビュー動画を視聴できます

公務労働運動の現在地:熊沢誠インタビュー①
http://youtu.be/oCfyqMtN_DY

公務労働運動とバッシング:熊沢誠インタビュー②
http://youtu.be/Crl3cI1QTAo

公務労働運動と大阪の問題:熊沢誠インタビュー③
http://youtu.be/6TR7UXBuLB8

「公」の意味を問い直せ:熊沢誠インタビュー④
http://youtu.be/oLsqwKj-4X4

個人の受難の時代:熊沢誠インタビュー⑤
http://youtu.be/WzsPRiU-BPU

産業民主主義とノンエリートの自立:熊沢誠インタビュー⑥
http://youtu.be/QjzyWF_ENcM