タックスペイヤーたる中産階級とワーキングプアの絶望的な怨嗟が合流する公務員バッシング | すくらむ

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国家公務員一般労働組合(国公一般)の仲間のブログ★国公一般は正規でも非正規でも、ひとりでも入れるユニオンです。

 私が企画したインタビューを紹介します。(byノックオン。ツイッターアカウントはkokkoippan)

 公務労働組合運動とはなにか
 ――アトムに分解される労働者の受難に寄り添う
   熊沢誠甲南大学名誉教授インタビュー
   『国公労調査時報』2013年6月号No.603より一部抜粋)

 政財界のスローガンは
 「官民横断のユニオニズムは許さない」
 ――公務に向けられる「アキュージングフィンガー」


 「官民横断のユニオニズム」は、ヨーロッパ諸国ではかなり明瞭なのですが、日本の政財界のスローガンは、それは絶対に許してはいけない、西欧の轍を踏むな、です。その際、公共部門の労働運動は生産性や支払能力を顧慮しない運動なのだからとにかく叩かなければいけないというわけです。

 他方、日本の場合はさらに労働者を分断させる事情がありました。分水嶺は三池闘争の敗北と言えましょうが、日本の民間労組は1960年代の末頃からとかく企業の生産性向上に協力的なスタンスになってきて、賃金が産業・企業ごとの支払能力によって大きな格差をもつことを内心では容認するようになってきたのです。だから、すべてが民間労組のようになれば、日本はスタグフレーションに陥ることなく上手くいくのだけれど、公共部門の労組は公務はまだそうなっていないということで、日本では「イギリス病」の状況でなくとも、ここで、とくに職場規制において西欧的なユニオニズムの性格を残している公労協に対して、「アキュージングフィンガー(指弾の指)」が向けられたのです。

 公労協にはスト権がないのですから、賃金闘争においてはリーダーではありませんでした。高度経済成長期、民間労組中心の春闘が一定の成果を収めて、賃金の平準化が見られたときにも、公労協は賃金決定のリーダーたりえなかった。しかし、なんといっても公労協傘下の諸組合では、労働者の配置、作業量、要員、残業などの平等主義的な組合規制がなお息づいていました。それが「西欧的」で良くないというわけです。その頃から公労協に対する攻撃が本格化してきたのです。それ以来、広義の公務員の労使関係や労働組合活動を「民間並みにせよ」という圧力がつねにかけられることになったのです。


 「スト権がなく官民共闘ができないことこそ
 欧米にない日本の強み」とする自民党全派閥


 公労協の強みは、仕事や職場業務のあり方についてはかなり発言権をもっていることでした。そこが60年代後半以降の民間労使関係とは違うところだったのではないかと思うのですね。代表的には、技術革新が進んだ新鋭職場での労使関係にみる公共企業体と民間企業の違いです。民間企業では、コンビナートにしても機械の組み立てラインにしても、現場労働者が作業量や要員について細かく規制するということはなくなっていました。しかし公共部門の新鋭職場はといえば、国鉄の新幹線、電電公社のデータ通信部門、郵便局の小包集中局などでは、労働組合による働き方の規制は強力だったのです。とくに「権利の全逓」が健在だった郵便局がそうでした。労働現場に労働組合機能が生きているか否かが、官民の間では大きな違いがありました。

 日本の行政改革は「治療」でなく「予防」

 1982年に生まれた中曽根政権が攻勢をかけることになります。中曽根政権は日本ではじめての明瞭な新自由主義的な政策を推し進めます。その代表的なものが行政改革です。財界はまさにその時、符帳を合わせたように、春闘の賃金白書にこう記しました。「日本では、行政改革は治療ではなく予防として行われる」と。これは非常に象徴的な言葉で、私には忘れられません。

 すでに言いましたように、西欧では、福祉国家の一結果としての公共部門の「肥大」に「官民横断の強靱なユニオニズム」が重なって、資本主義経済はスタグフレーションに陥ったと、政財界は認識している。その挙げ句、典型的にも、イギリスにはサッチャー政権が登場して、「治癒」として新自由主義的な競争刺激の荒療治がはじまっています。

 しかし、日本では「公共部門の肥大」などない。これは今でも公共部門の労働組合がもっと主張しなければならないことですが、日本ではまぎれもなく公共部門の比率が小さいのです。公務員数も相対的に少ない。その上、民間労組は支払能力主義で、労働条件を生産性の程度に調整するというユニオニズムになってしまっています。ですから、日本では資本主義経済が立ちゆかないとか、深刻なスタグフレーションに陥ったとは言えないのです。言えないけれど、まだ残っている西欧的な部分を払拭しようということで、すなわち、サッチャーは民営化などの行政改革を治療として行ったけれど、日本ではそれを予防として行うのだと政財界は主張したのです。

 そこからはご存知のように、電電公社に次いで、国鉄の民営化がはかられました。国鉄民営化には、国労と動労をつぶす狙いもありました。ここで動労は(その評価は簡単ではないのですが)変わって生き延び、国労は基本的に粉砕されました。1980年代半ばの頃はすでに労働運動全体の沈滞期でもありましたので、実のところ国労はさしたる抵抗ができませんでした。私は国鉄闘争は「不戦敗」だったと思っています。スト権スト後の202億円損害賠償の重みはあったと思いますが、なによりも、公労協を民間並みにするという路線はだいたい「国民的承認」を受けていたと言っていいのではないかと思うのですね。

 もっとも、行政改革による公務員への加圧は一直線に強まったのではなく、波もあって、私の印象では、1980年代末頃から90年代半ばくらいにかけてはあまり本格的な公務員バッシングはありませんでした。そして次の新しい幕が開くのは2001年に生まれた小泉政権下です。小泉政権は中曽根政権以上にきっぱりした新自由主義的な政策を取って、郵政民営化とともに、ふたたび行政改革が高唱されるということになります。現時点はそれを引き継いでいるように思いますね。


 閉塞感に悩む国民に熱狂的に
 支持される公務員バッシング


 ――橋下大阪市政に見られるような現在の公務員バッシングは、「予防としての行政改革」というものとも少し違うようにも思えます。

 「予防としての行政改革」というのは、日本の強みを自覚しはじめた当時の政財界の政策志向をよくあらわすものですが、野党はもちろん国民全体としては、なにせ経済と生活にそんなに危機感を感じてはいませんでしたから、心から迎えたというものではありません。行政改革というのは言葉としてプラスイメージをもっているからいいじゃないか、という程度でしょう。今の用語では構造改革ですね。

 しかし2000年代以降の「構造改革」の場合、公務員バッシングはもっと強烈で、誤解を怖れずに言えば、閉塞感に悩む国民にある種熱狂的に支持されているところがあります。「公務員で悪うございました」みたいな、なにか公務員であることがいたたまれないような感じにさせられています。とくに大阪ではそうです。


 公務員の労働基本権剥奪こそが
 日本を日本たらしめる特質


 ひとつ確認しておきますと、労働三権は先進諸国では公務員にも基本的に保障されています。外国に駐在している大使館職員さえスト権をもっているくらいです。もちろん警官や国家機密にかかわる公務員の場合にはスト権はさすがに問題になって国によって少々違いますけれど。アメリカは非現業地方公務員にも団体交渉権があり、争議権は連邦規模ではありませんが、基本的に州法によってさまざまです。新自由主義の祖国、アメリカにも公務員の団体交渉権があるのに、日本にそれがないというのはよく考えてみると本当におかしなことですね。しかし、「公務員労働者からの労働基本権の剥奪こそが日本を日本たらしめる特質」と権力側は考えているのです。そのことは逆に、いかに公務の労使関係が資本主義体制にとって枢要の問題かということを意味しているのです。

 話を戻しますと、80年代末から90年代には一端緩和された公務員バッシングが、平成不況の深刻化と日本経済の地盤低下のなかで、再稼動されることになったのです。

 ちなみに労戦統一と公労協バッシングの関係について、ひとつ付け加えます。75年のスト権ストの敗北から公労協も徐々に変質し、スト離れするばかりか、生産点での規制力も大きく後退しました。その公労協の変質、民間労組的体質への接近を待ってはじめて労戦統一が可能になりました。現時点の日本の労使関係は、やはり国鉄解体に伴う国労処分、その際の従業員の扱い方が、その後の企業別労働組合の弱体化と相互補強的な労務管理の戦略モデルになっているように思います。


 「公共部門の肥大」と「官民横断のユニオニズム」を
 許さないための公務員バッシング


 ――現在の公務員バッシングについてはどう考えればいいのでしょうか?

 公務員バッシングが今どうなっているかということでは、橋下大阪市長の「ハシズム」については後に検討しなければいけないと思いますが、その前に一般論として、現在なぜこれほど公務員バッシングが強くなっているのかを考えてみましょう。

 ひとつ、大きな背景としては、経済政策の動向があります。新自由主義的な政策は、最初は70年代末のサッチャー登場に始まり、80年代に先進国に浸透しました。しかしヨーロッパでは、80年代の新自由主義的な政策によって格差は拡大しましたが、貧困の広がりや格差は日本ほどではなく、90年代半ばには、政策もいくらか見直されています。

 戦後のヨーロッパ諸国の体制は、社会民主主義的な要素が強く、その特徴である「公共部門の肥大」+「官民横断のユニオニズム」が資本主義体制を苦しめた、それは確かです。ですから、社会民主主義的な要素が強くなるなかでサッチャー「反動」があって、他国でもレーガンやコールが登場し、中曽根政権もその仲間というわけですね。しかしヨーロッパ諸国では、福祉国家政策と労働組合運動が大きく後退してしまうということはなく、90年代半ばにはサッチャー政権とはかなり性格を異にする、穏健化した労働党ブレア政権などが登場しています。


 「労働条件の規範的決定」と
 「スティグマなき給付」の大きな後退


 ヨーロッパにおける福祉国家の行き詰まりや、労働運動の後退を指摘し、日本と同じと唱える人がいますが、実は「後退の程度」の違いはものすごく大きいのです。日本では後退があまりに徹底的で、そしてその後退が戻らぬまま平成不況を迎えたのです。わが日本では、企業間競争と個人間競争を徹底的に刺激する新自由主義政策が、とくに中曽根、小泉両政権のもとで驀進しました。格差拡大の是正の期待を担って登場した民主党政権もこれに逆転をかけるに至らず、連合系労働組合も能力主義的選別の無批判な肯定に奔っています。その結果、庶民の生活の明暗はひとえに企業や個人の努力の結果だとする自己責任論が国民の「常識」になりつつあります。これが「努力しないで楽をする」公務員とその擁立する公務員労組への、政財界のバッシングの包囲戦に加担させるのです。

 ユニオニズムとは「労働条件の規範的決定」と置き換えることができます。つまり雇用する経営体の支払能力や生産性のデコボコに関わらず労働条件を規範的に決定して標準化すること。それが労働組合が存在する証です。それと福祉国家の原則というべき、「スティグマなき給付」。この二つの後退の程度が日本では非常に大きく、それらを復権させる明瞭な思想も頼りになる勢力もまだ形成されていないということができます。

 公務員バッシングはタックスペイヤーたる中産階級と
 ワーキングプアの絶望的な怨嗟が合流している


 もう少し細かくみると、この恨みの主体には2つの層があります。ひとつは大企業サラリーマンなど「中産階級」といわれる人びとです。この人びとは「タックスペイヤー(それなりの納税者)」の意識が強い。その意識に照らすと、公務員はのんびり働いていて雇用も保障されており、なお賃金もそんなに下がらない。そういう不満をもっています。

 もうひとつの層は非正規のワーキングプアです。非正規雇用者は小泉政権の頃から加速度的に増えてきて、今は35%にも達しています。いろいろな統計から明らかですが、彼ら・彼女らは総じて低賃金で、年収は200万円に満たない人の方が多いくらいです。契約切れで頻繁に失業もする。ほとんどが労働組合もなく、生活を改善する方法が見つけられないでいます。その場合、こんな社会構造自体をガラガラポンにしてしまいたいといった鬱憤にさいなまれています。ここから、安定した労働環境にあるかのようにみえる公務員への理不尽な怨嗟が噴出するわけです。こうして、タックスペイヤーたる中産階級の公務員バッシングと、非正規ワーキングプアの絶望的なそれとの2つが合流するわけです。

 「国民の利害と一体」だとする幻想

 一方、日本の左派労働運動には、組織労働者と国民の利害を一体のものと想定して、2つを「中グロ」で結び、敵は一握りの政財界だけとみなす発想の傾きがありました。スト権ストのときにも、結局、「民主主義」の闘いなのだから国民は支持してくれるだろうという期待があったと思うのです。逆に、そういう幻想があるから、国民はどうもわれわれを支持していないようだと感じると、ある時には国民との間に緊張関係が生まれても、労働組合に必須の固有の行動に入るべきだという思想性もなくしていたのではないでしょうか。現時点ではさすがにもうそうした幻想はないと思いますけれど、長らくそういう中グロの発想になじんでいたので、国民はどうやら公務員、特に公務員労働組合の味方ではないらしいと感じると、もう手も足も出なくなる、そんなところがあるのではないかと思うのです。

 7.8%の公務員賃下げは蛮行

 こうした環境で、公務員バッシングはいま止めるものがない状態です。労働組合が支持していた民主党政権が、とにかく公務員を減らして人件費を減らせと唱え、そしてさも恩恵がましく団体交渉権を与えるからという約束で公務員賃金を7.8%カットしました。退職金もカットされましたね。団交権付与もどこかへ行ってしまった。そうしたことができるところまで公務員とその労組は追い込まれてきたのです。

 国家公務員の一方的な7.8%という大幅賃下げは許されるべきではありません。労働基本権が奪われていて公務員労働者の発言権、抵抗権がないところで行われた蛮行です。提訴でもなんでも試みるべきだと思います。

 ついでに言うと、基本的人権である表現の自由の問題についても、国家公務員は酷い状況に置かれていますね。日本は中国を人権不在の国だと思っているかもしれませんが、課長補佐の国家公務員が休日に仕事とまったく関係のないところでビラをまくだけで違法になるという次第では、とても中国を嗤えませんね。


 極端な自己責任論と競争至上主義の橋下大阪市長

 ――それから、大阪の問題ですが、なぜあれほど激しい公務員労働組合バッシングが横行していると考えられるでしょうか?

 先ほど述べた一般論を踏まえた上で、大阪の話に入ると、まず橋下徹という人物の特異な性格があって、一般論ではつくせないところがひとつあると思います。彼の発想の基本はまず競争主義ですね。生活の明暗は能力と努力次第という、極端な自己責任論です。競争というものを至上の価値とする新自由主義者です。橋下においては、選挙で勝てば行政や教育の現場で働いている労働者の発言権を一切無視していいという、いわば産業民主主義の軽視が極まっています。そこが特異です。

 産業民主主義を否定する民主主義は
 ファシズムになる


 労働組合運動を論ずる場合、産業民主主義の擁護という考え方をかならず基礎にすえなければなりません。そして私が日本社会を批判する基本視点は、日本における近代国家建設以来の産業民主主義の草の根の浅さです。産業民主主義の擁護というのは労使関係の尊重ということと同じで、労働のあり方を決めるにあたっては、その労働現場で働いている人の発言権や決定参加権を大切にするという思想です。

 選挙で支持されたから行政職員や教員のニーズや要求はいっさい聞かなくていいというのは、むろん産業民主主義の否定で、働き方や労働条件ではすべて首長の命令に従うべきであるという考え方です。産業民主主義を否定する者は、政治的民主主義からでもファシズムを導き出すこともできます。くどいようですが、産業民主主義を尊重する政治的民主主義は決してファシズムになりませんが、産業民主主義を否定する民主主義はファシズムになりうるのです。橋下徹には、この産業民主主義を顧みない、異様なまでの統制癖があります。私は今は大阪にいないので日々の情報には詳しくありませんが、あれだけ統制と命令の好きな政治家はいないのではないかと思います。


 橋下大阪市長を支持する2つの層

 しかし、そうした橋下大阪市長による横暴が通ってしまうということは、新自由主義の哲学の浸透、公共部門の縮小や公務員の権利縮小への支持が、少なからず市民の世論にあったことを意味していると思います。その上に、次のような大阪の特殊性が重なってきます。まず、大都市大阪では、2つの潜在的な公務員バッシングの勢力が量的に大きな層をなしています。政財界による公務員バッシングの包囲戦に加担する、先述の2層ですね。1つは新自由主義に帰依した中産階級的な市民・サラリーマンと、教育では保護者ですね。もう1つは非正規のワーキングプア。大阪は両方に一定の蓄積がありますが、特に後者が大きいのです。簡単にいうと大阪は貧乏な人が多い。生活保護の被保護者も多いのです。むろんその人たちだけが橋下の支持者ではないけれども、その多くが「この人についていけば何かやってくれるんじゃないか」というガラガラポン志向で、市政や教育の運営の手続きが民主主義的であるかどうかなんてことは気にしないのです。

 労使関係を問う視点が欠如しているマスコミ

 話はそれますが、ちなみに新聞というのは、労働問題の深刻さは指摘するけれど労使関係を問う観点はまったく欠如しています。今の新聞は、格安バスツアーの運転手の長時間労働や、原発労働者の被曝、教師の疲弊、ワーキングプアの実態など、労働の厳しい条件についてはよく書くのに、そうした労働条件に対する労働者の発言権や決定権の有無を問うという労使関係の視点は全然ありません。そこに立ち入ることはないのです。学校の先生がこれだけ疲弊しているということに、教育労働運動の後退はどうして無関係ですか。

 たとえば、教師の労働組合がしっかりしていれば、不当な要求をする「モンスターペアレンツ」などには集団的に対処することができると思いますよ。ペアレンツ(両親)の正しい要求もあると思いますし、先生を批判してはいけないとは言わないけれど、どうしてモンスターペアレンツの不当な苦情のために先生がノイローゼになって自殺しなければいけないのでしょう。日の丸・君が代の問題についてもそうです。そういうしめつけが酷いということは書きながら、新聞は決して労使関係や労働組合のことをきちんと書くことはしません。これは日本のマスコミの大きな問題の1つだと私は考えています。


 「階級的物取り主義」から「自主管理的な労働運動」へ
 公務労働運動の復権を

 ――公務員労働組合はどのような運動を進めれば復権できるとお考えでしょうか? たとえば先生は、公務員労働運動の路線は「階級的物取り主義」ではなく「自主管理的な労働運動」であるべきだと提起されていますが…。

 公務員の労働組合運動の総路線は、現業も非現業も、地方も中央もそうだと思いますが、やはり「階級的物取り主義」から「自主管理的な労働運動」へ進まなければならないと思います。

 私は80年代に国労が攻撃にさらされた時、国労の書記長に呼ばれて他の研究者数人とともに「国鉄労使関係研究会」という研究会に参加したことがあります。兵藤釗さんが座長だったので兵藤委員会と呼ばれていたのですが、その時、国労内のさまざまな派閥の論客が討論に加わりました。

 そのなかで社会主義協会はこういうことを言いました。「独占資本が支配している日本では、搾取の軽減が運動の課題で、国鉄労働者はできるだけ少ない労働で高い賃金を獲得しようとすることが正しい」と。それで「ご冗談でしょう? みなさん国鉄を守ろうとしているんでしょ? 国鉄の仕事は必要なんだと考えているんでしょ? 今こんな時にそんなこと言っていていいんですか?」とかなり論争をしました。社会主義協会のような立場を私は「階級的物取り主義」と呼びます。

 「階級的な立場」に立って、仕事を少なくし賃金を高くするというのが「物取り主義」です。「階級的物取り主義」は、産業によっては日本では必要な場合もあります。しかし、公務員の労働組合は違うのです。自分たちの仕事に責任をもって、できるだけ仕事を自主的に、しかも効率的に進めていくという考え方をしなければならないと思います。

 「自主管理的な労働運動」の3つの条件

 この「自主管理的な労働運動」ができる条件を考えてみましょう。どんな組合でもこれができるわけではありません。「自主管理的な労働運動」の条件は3つほどあります。1つは働く人たちがその仕事の意義を実感できることです。公務の場合、教師や医療労働者などだけでなく、一般の行政職員もそう感じて考えている人が多いと思います。「ここでこの業務を支えていくことが大切だ」と考えることができるということです。これは、誰でもそうだとは言えないですよ。たとえば民間企業でノルマを課せられて、自分でもこれは本当に必要な商品・サービスかを確信できないまま、昼夜奔走しているセールスマンを考えてみてください。そういう人たちは、それほど仕事の意義を感じてはいないと思います。そういうところでは「自主管理的な労働運動」はなじみません。

 その2は、現場労働者が、たとえベルトコンベアーの先端で働いているような単純労働でも、仕事の毎日の回し方やノウハウ、こうやれば仕事が上手くいくということをつかんでいることです。つまり労働者が日常業務では完全にパワーレスではない。大きなところの決定は上部がするにしても、仕事の細部においては裁量権があるということです。

 さらにもう1つは、雇用主体が財政的に困難になっていて、自分たちがしっかり働かねば経営体が危ういということ。公務員労働者にはこの3つがそろっているように思います。

 実際、公務の職場では、たとえばキャリア官僚がどれだけ威張っても、毎日の仕事は現場労働者がなかば自治的に遂行していて、彼ら・彼女らでなければわからないところがあるでしょう。よく警察関係のテレビドラマに、キャリアの管理官が実際の捜査においていかに現場の刑事に比べてダメかという場面がよくありますね。同様のことは他の公務職場でも多いのではないでしょうか。民間では一般に管理者は現場の実務にも強いようです。


 公共サービスの貧困を告発し
 人権財としての公共部門の不可欠性を訴える


 ――官製ワーキングプアが増えていることや、公共サービスが切り捨てられていく問題については、どういった対応が考えられるでしょうか?

 大胆に言えば、今や「民営化反対より均等待遇を」という発想が必要でしょう。けれども、そのスタンス表明の前に、公務員労働運動はやはり、何が公共部門からのサービス供給でなければならないか、何が利潤原則で動く民営企業に馴染まないのかということに、しかるべき論陣を張っていただきたいです。そうした研究や提言を行う学者・研究者も登用しなければいけません。その点が、民主党政権になってから案に相違してすっかり曖昧になってしまっています。だいたい自治労なども民主党政権などに頼ってしまっていて、たとえば日本の公共部門はむしろ貧困なのだと主張しなくなっていて残念です。

 福祉、保育、医療、公衆衛生、教育、住宅、交通、環境保全…の少なくとも一定部門は、公共サービスでなければなりません。それは、一定の質を保ち、安い価格で提供されなければ人権に関わるようなサービスです。それを「人権財」といいます。ちなみに組合幹部も、たとえば外国に調査に行く時、政治家や組合のトップリーダーに会うよりも、ある地域で、医療なら医療がどのような経営体で行われているかをよく見た方がいいのです。たとえば、全労働が主張していますが、ハローワークの仕事を民営化すれば人材派遣会社のようなものになりますよね。全労働は民間会社よりもハローワークの方が実績を上げているというパンフレットも出しています。医療についても、生活保護の不正受給といいますが、私は民間医療関係者の責任が大きいと思います。公共部門の医療ならば保護費をあてにして過剰医療をしない、そういった信頼を市民に定着させなければなりません。他にいくらでも例はあります。教育は一番、公教育の意義を発揮できる分野といえましょう。福祉国家には公共サービスが不可欠なのだということを、もっと堂々と主張すべきです。


 繰り返しになりますが、日本は公共部門の比重が小さいのです。財政支出における公共支出の比重は小さいし、労働者のなかの公務員の比率は小さい。民間の方が効率的で、生産性が上がればどんどん価格が安くなってしかも品質も維持される、たとえば電機などの「普通材」は民間で行うべきだというのが歴史の審判ですが、公共部門の供給でなければならない分野は必ずあります。それは何かを公務員は模索し続ける必要があります。

 官製ワーキングプア生み出す民営化を
 強く批判すべき


 その上ではしかし、労働者にとっては、雇用側の経営形態というものは二義的な問題なんだと割り切ることです。労働条件が確保されるか否かが決定的であって、その点からいえば、公務の民営委託企業は、低賃金労働者を搾取することによって効率化やコストダウンを達成することが多いということを強く指摘していくべきです。

 ともあれ、今や、狭義の公務員だけが広義の公共サービスを担う労働者ではないということをきちんと把握することが大切です。労働者にとっては雇い主の経営形態は二義的なものです。これからの広義の公共サービスは、公務員、臨時職員、公務委託請負企業の従業員、ボランティアの共同作業で行われることになるでしょう。ボランティアといっても、高学歴の主婦を動員して無料で働いてもらうのは問題で、スウェーデンなどでは基本的にボランティアの活用は認められていません。その問題はしばらくおくとして、とにかく多様な働き手の共同作業が多くなるのですが、そこでは公務員はやはり専門家として、その共同作業の企画者、組織者、助言者であると位置づけられるでしょう。公務員の介入なく公共部門の業務を公務員でない人々にまかせてしまうのは、とても不安だという感じがします。

 公契約条例・公契約法の獲得は最重要課題

 それとともに、各自治体には公契約条例が不可欠です。公契約条例・公契約法の獲得は、公務員労働運動の現時点での最重要課題だと思います。どこの国でも、リビングウェイジ(生活できる額の賃金)の保障や反貧困運動は公契約条例による均等待遇の達成が契機になっていることが多いのです。ここに進まなければなりません。公務員でない人の賃金低下が公務員バッシングの背景の1つにありますので、ひどい官民格差の状況に切り込んでいく公契約条例なしには、このバッシングの風潮は克服できません。公務員が「社会のため、コミュニティのために働いている」などと言っても、公契約条例・公契約法の問題に取り組まなければ、公務員労働運動はやはり信頼できないと市民は感じるに違いありません。

 アメリカでさえあった委託企業の労働条件守るルール
 ヨーロッパは民営化されても均等待遇


 新自由主義のお膝元のアメリカでさえ、公務委託企業の労働条件を一定水準に保障するルールが少なくともクリントン時代まではあったのです。ブッシュ時代にこれがなくなったのが象徴的です。私たちはアメリカではなんでも企業は自由にふるまえると思いがちですが、リビングウェイジの営みにみられるように、アメリカでは下層の一般労働者と彼らを組織対象とする労働組合の抵抗力はかなり強いですよ。ホワイトカラーの労働運動は一般的に日本の方が盛んかもしれませんが、底辺労働者の労働運動が強いのはアメリカですね。

 また、ヨーロッパ諸国では、ILO勧告に従ってもともと均等待遇に近く、公共部門が民営化されたとしても、同じ仕事をしていればほぼ同じ処遇で、日本のように公務員周辺にワーキングプアが生まれることはありません。

 そのうえ、すでに言いましたように、ヨーロッパではしばしば官民横断でストライキも行われます。たとえば代表的なのは看護師さん。イギリスでは看護師は、国営医療機関の労組にも、公務員組合にも、公務の現業組合にも、一般組合にもおりますが、みんな一緒に看護師の処遇改善を求めてストライキを行いもします。ですから看護師の労働条件の標準というものが意識化されています。日本でも、例えば官民横断で看護師の労働条件を規範化する労働組合機能をイメージすることができればすばらしいと思います。

 先に述べた「自主管理的労働運動」の条件のひとつでもありますが、普通の公務員の場合も、総じて民間労働者以上に、その仕事の社会的意義を実感していることが多いということが関係していると思います。教師が特にそうですね。「公務員になりたい」という人は多いですが、「なりたい」というのは「安定してるから」というだけの理由ではないと思うんですよ。民間労働者は、たとえば1日中500回も電話をかけて、これを売るのがいいことかどうか分からないままに「買いなさい、買いなさい」とくりかえしている労働者がいたりもする。それに比べれば、やはり素朴な意味で公務員はいい仕事なんです。だからたとえば東日本大震災の被災地で公務員が活躍を期待され、彼ら、彼女らがその場で過労死の危険水域にまで働くという気持ちになるのは、私はよく分かる。つまり、「強制された自発性」ではあれ、どちらかといえば自発性の程度が強い。公務員の場合、過労死の背景にはそんなことがある。だからこそ公務員労働組合は、公務員の数を増やさないで過労死するほど働かせるのは不当だと主張するのが大切な任務になってくるのです。

 良質な労働条件がなければ
 良質な公共サービスは提供できない


 良好な労働条件というのは、しかるべき仕事量、無理のない労働時間、ほどほどの賃金。それらがなければ良質の公共サービスは提供できないことは明らかです。それは医療労働者でも教師でも保育士でも、一般事務職の公務員でも同じです。この文脈で、継続的に必要とされる非常に重要な仕事やサービスについて、行政コスト削減のためにひどい低賃金の非正規職員を雇うなんてのは不当なことこのうえありません。

 私はスウェーデンのナース(看護師)の組合員にヒアリングをしたことがあります。ナースユニオンは、大学卒の専門職ナースの組織する、ストライキのできるような強力な労働組合なんです。賃金の査定もすべて組合が介入していて、一人でも苦情を言ってきたらすべてのケースを労使共同で再検討するという組合です。査定はありますが、その運用に組合が介入しているんですね。ちなみにスウェーデンの場合はすべて公務員、県職員です。民間病院は基本的にありませんから、病院によって労働条件が違うなんてことはないのです。ヒアリングのとき、「病院当局が査定の項目に入れるべきだとし、組合が反対する項目は何か?」と聞きましたら、1つはコンピューターの技術だと言うのです。コンピューターの技術はこれからの看護に必要だと病院側は言うけれど、「ナースにコンピューターはいらない」と組合は言う。その次に、興味深いことに「デボーション(devotion)」だとユニオンは言いました。献身です。献身の度合いを査定の項目にすることは不当であると。どういうことかというと、たとえば訪問看護師も同じ組合所属ですが、訪問看護師の勤務終了時間が5時と決まっている場合、何らかの都合で5時に交代のナースが来なかったとき、やむを得ず残業はする。しかしその献身を査定で評価すべきではない、しかるべき人員を配置するのは病院の責務だというのです。

 実際、日本の公務員は非常に少ないですよね。だからヨーロッパに行くなら、病院や行政機関、ハローワークなどにどれだけ職員がいるかを、具体的に調べるべきです。そのような職場別の具体的な人員比較の議論が、どうして日本ではされないのでしょうか?

 産業民主主義の根の浅さが
 公務員バッシングもたらす


 ――ヨーロッパの福祉国家的な社会と違って、日本の自己責任社会の脆弱性が公務員バッシングの根本にあるのでしょうか?

 ヨーロッパ諸国は福祉国家的な社会なのに、日本は自己責任社会だから公務員バッシングがあるというのはちょっと的が外れた議論で、それよりは伝統的な産業民主主義の根の浅さに原因があるのだと思います。それは、国民の迷惑になるから、公務員労働者から労働基本法を奪ってもいいという考えに通じています。

 天皇のもとに万人平等、現実の階級・階層への人びとの帰属は立身出世の競争によって決まる、つまり日本は(生得的ではなく)「結果的階級形成」の国になっていると私は説明しています。その裏面は、農民は農民のままで、労働者は労働者のままで生活と権利を守る、そのために闘うという考え方の断固たる拒否です。それが産業民主主義の根の浅さなんです。それは、労働条件についてもそこで働いている人がまず発言権をもつというのではなく、国民的多数決みたいなもので決めるべきだという考えに流れていく。行きつくところ、公務員の労働条件は悪い方がむしろ国民・納税者には得になるという非情の発想にもなりかねません。

 「国民的」ということは労働組組合運動にとって両義的で、そこは難しいところですね。国民と組織労働者の関係をつきつめて考えることのなかった左翼運動にとって、この問題はとくに難しく、議論の多いところです。けれども、労働条件については、後に他の機関からの調整を受けるとしても、まずはその労働現場で働いている人が発言すべきだという産業民主主義の考え方──日本におけるこの思想の欠如、希薄さが、公務をふくむ現代日本の労働の界隈を暗くしているということを、私は言い募ります。公務員についてはとくに「全体の奉仕者なのだから労働条件はほどほどに我慢すべきだ」ということになるのだと思います。そういえば公務だけではなく、日本では民間ストにも世論は冷たく、スト破りを非難する世論は皆無です。たとえば郵便局はかつて年賀状整理の時期に学生や主婦をアルバイトで雇ったものでしょう。日本では褒められるべき行為になっていますが、ヨーロッパではそれはありません。

 「消防士のストライキは当然」とするイギリス市民

 私がイギリスに滞在していた70年代末、消防士のストライキが行われたとき、それについてテレビ局の記者が市民(女性)に意見を聞いていました。彼女は、「危険な仕事をする消防士の賃金がどれだけであるべきかということに、まず彼らが要求をかかげ行動するのは当然」と発言したものです。

 組織労働者の労働条件の規範を
 未組織労働者に広げることを抜きにしては
 すべては欺瞞的になる


 私は労働運動が本当の意味で国民全体の権利や生活や福祉に寄与するような「社会的労働運動」になることを切望しています。けれどもその道は、運動主体が労働組合である以上、組織労働者が受け取っているような労働条件の規範を未組織労働者に広げるということを抜きにしては、すべては欺瞞的になるという立場を堅持しています。公契約条例とか均等待遇、非正規労働者の組織化をその途上にあるものとして重視するんですね。

▼インタビュー動画を視聴できます

公務労働運動の現在地:熊沢誠インタビュー①
http://youtu.be/oCfyqMtN_DY

公務労働運動とバッシング:熊沢誠インタビュー②
http://youtu.be/Crl3cI1QTAo

公務労働運動と大阪の問題:熊沢誠インタビュー③
http://youtu.be/6TR7UXBuLB8

「公」の意味を問い直せ:熊沢誠インタビュー④
http://youtu.be/oLsqwKj-4X4

個人の受難の時代:熊沢誠インタビュー⑤
http://youtu.be/WzsPRiU-BPU

産業民主主義とノンエリートの自立:熊沢誠インタビュー⑥
http://youtu.be/QjzyWF_ENcM