原発の反倫理性-差別と犠牲の構造・被曝労働の強制・放射能汚染・放射性廃棄物の次世代への押しつけ | すくらむ

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国家公務員一般労働組合(国公一般)の仲間のブログ★国公一般は正規でも非正規でも、ひとりでも入れるユニオンです。

 私が事務局を担当した「第30回国立試験研究機関全国交流集会」(6月21日、国公労連と学研労協の主催)で、総合研究大学院大学の池内了(さとる)教授に「福島原発事故から1年余――科学者・研究機関の社会的責任を考える」というテーマで記念講演を行っていただきました。この講演の中のごく一部分ですが「原発の反倫理性」についてふれたところを以下紹介します。(byノックオン。ツイッターアカウントはanti_poverty)


 原発には問題がたくさんあります。その中のひとつに「原発の反倫理性」という問題があると思っています。


 ドイツ政府は、「原発は倫理に反する」として、10年間で原発を止めることを決めました。これを受けて、日本においての「原発の反倫理性」をいくつか考えると、ひとつは、過疎地への押しつけということです。これは実は沖縄の問題とも共通しています。沖縄に74%の米軍基地を押しつけていますが、これは植民地主義的発想だと思います。差別や犠牲の構造だと思うのです。新しい産業等があまりないところに原発を押しつけ、その実りは私たち都会の人間が味わうというわけです。これは明らかに倫理に反しています。


 そして、こうした差別や犠牲の構造によって立地自治体の苦悩を生み出しています。たとえば、福井県知事は、野田首相がきちんと言明するまでは大飯原発の再稼働は認められないと頑張りました。あれは、もし再稼働して事故が起こったら、他府県は受け入れてくれるだろうかという不安があって、国として面倒をみるという保証が欲しかったのではないかと私は考えています。自治体は苦悩しているわけです。明日の生活のためには原発を動かすことに賛成せざるを得ない。きつい選択を迫られている。これは倫理上の問題です。


 次に放射線被曝の問題です。福島原発事故のような大きな事故が起こらなくても原発は通常運転の中で被曝労働者を生み出しています。


【▼参考 原発の炉心に「飛び込む特攻隊」「被曝要員」として使い捨てられる下請け労働者】
http://ameblo.jp/kokkoippan/entry-10914848557.html


【▼参考 ピンハネ率93%・核燃料プールに潜る外国人労働者-重層的下請構造で使い捨てられる福島原発労働者】
http://ameblo.jp/kokkoippan/entry-10977201393.html


 そして、福島原発事故による放射能汚染は、福島だけでなく世界中に環境汚染を引き起こしています。大気あるいは海を通じて放射能汚染を世界中にばらまいて、何がしかの犠牲者が出るのは確かです。世界に対する責任の問題があります。


 さらに原発は世代間倫理にも反しています。放射性廃棄物を10万年もの間、後の世代に押しつけていくわけです。その上、原発事故が発生してしまえば、放射能汚染で土地を放棄せざるを得なくなります。これは次の世代がもはや土地を利用することができなくなるということです。原発は世代間においても反倫理性を持っているのです。


【▼参考 原発の『100,000年後の安全』?-日本の原発は欧州の2千倍の地震発生で「現在も未来も危険」】
http://ameblo.jp/kokkoippan/entry-10885104887.html


 このような「原発の反倫理性」は、いくつもあり、それを私たちはきちんととらえて明らかにしていく必要があります。科学技術そのものは倫理の問題とは直接関係ないように見えます。しかし、原発の問題をはじめ科学技術がもたらすことに関する事柄は倫理の問題とも大いに関係があるのです。科学者には、「倫理責任」「説明責任」「社会的責任」という3つの責任があると私は考えています。


 『構造の世界――なぜ物体は崩れ落ちないでいられるか』というジェイムス・エドワード・ゴードンの著作があります。建物、建築物の事故をいろいろ調査した後、どこに問題点があったかをまとめた本です。その最後の部分で、「事故というのは罪と過ちと金属疲労によって起こる」と書いています。私はこの言葉が好きでよく使います。「罪」と「過ち」と「金属疲労」です。「過ち」というのは過失、錯誤です。読み違いとか、聞き違いとか、見間違いです。そういう過ちは誰にでもあるということです。「金属疲労」というのは、設備が老朽化している、あるいは不良部品が使われている。われわれの側の責任ではなくて設備そのものの責任です。


 けれども問題は「罪」です。これは「倫理的な罪」のことです。ゴードンは「事故を点検してみたら97%が罪に関わっている」と言っています。「罪」とは何か。「罪」とは、不注意、手抜き、不勉強、縄張り意識、自尊心、慢心、驕り、妬み、貪欲、メンツ、度量の狭さ、意志の弱さ、狭い視野、などです。こうした「罪」が事故の原因になっていることが実はほとんどであると彼は言っています。


 「過ち」の背景にもこの「罪」の側面がある。「過ち」を起こしたときに自尊心が傷ついて相手の忠告をきちんと聞かなかった。それで操作の間違いを起こした。これはたんに操作の間違いではないのです。その背後には自尊心があったということになります。だから「罪」をもっと意識しなさいと彼は言っているのです。これは科学者・技術者に対して重要な忠告ではないかと思います。


 科学者の社会的責任というのは、専門家としての知識や経験を社会に生かしていくということです。科学者でなければわからないことを公正に伝えるということです。


 いろんな伝え方があります。マスコミで伝える役割もあるし、NPOとか、NGOとか、地域とか、労働組合とか、原発をなくすための運動とか、九条の会とか、いろいろな運動があるわけです。いろいろな運動の中で伝えていくのは、科学者の社会的責任として重要な側面ではないかと思います。「想像力」と「現実の直視」と「真実に忠実」であること、この3つを基礎にして科学を実践する者として何が可能であるかを考えていくことが必要なのではないかと思っています。


 『科学技術白書』にあるように、いま科学者に対する信頼が落ちています。確かに今度の東日本大震災と福島原発事故の後、科学は人間を本当に幸福にしたのかと疑問を持つ人が多くなりました。しかし、科学から離れて生きることは現代の社会においてはできないことです。とすると科学は少なくとも人間の幸福のために使われていくべきだということ、あるいは幸福のために使われる条件を科学のあり方が満たしているかということをきちんと考えていく。つまり、「社会のために生きる科学」になっているのかということを私たちは常に検証し続ける必要があるのです。


 「原子力ムラ」の中での科学者の有り様などをはじめ、「科学と人間の不協和音」がもたらされています。科学と人間の間に不協和音が鳴る原因はいろいろな要素がありますが、科学が一部の人間の欲望に奉仕するものになってしまっていることなどが問題であり、私たちは本当に人々の幸福につながる科学のあり方に心を砕いて仕事をしているのか? 運動をしているのか? 常に問い直していくことが必要になっているのです。