「上から目線」の自己責任論が、自分を責め抜き疲れ切っている弱者を黙らせさらに痛めつける | すくらむ

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国家公務員一般労働組合(国公一般)の仲間のブログ★国公一般は正規でも非正規でも、ひとりでも入れるユニオンです。

 みどりさんのブログ「労働組合ってなにするところ?」 で知ったのですが、「東京新聞」(8/19朝刊)に以下の記事が掲載されています。


 怠けている連中に税金払う気なし 厚労相、「派遣村」で言及


 舛添要一厚生労働相は18日午後、横浜市内の街頭演説で、昨年末から今年1月にかけて東京・日比谷公園に設けられた「年越し派遣村」に関し、「(当時)4千人分の求人票を持っていったが誰も応募しない。自民党が他の無責任な野党と違うのは、大事な税金を、働く能力があるのに怠けている連中に払う気はないところだ」と述べた。


 これに対し、派遣村実行委員だった関根秀一郎・派遣ユニオン書記長は本紙の取材に「求人として紹介されたのは確かだが、誰も応募しなかったというのは全くのでたらめ。たくさんの人が応募したが、断られたのがほとんどだ。舛添氏の発言は現場の実態が全く分かっておらず、あきれてものが言えない」と批判した。(※東京新聞からの引用はここまで)


 同じ日の「日経新聞」では、「非正規雇用者、最大の減少幅 4~6月労働力調査、47万人減」と見出しが打たれ、「総務省が18日発表した4~6月期の労働力調査の詳細集計(速報)によると、アルバイトや派遣などの非正規雇用者数は1,685万人と、前年同期比で47万人減った。比較可能な2003年以降で最大の減少幅。正規雇用者数(同29万人減)よりも下落幅が大きく、非正規労働者が雇用の調整弁にされている実態が浮き彫りになった」と報道されています。


 NHKでは、ドキュメンタリー「働きたいんや~大阪・雇用促進住宅の200日」が8月12日に放送されました。「派遣切り」などで仕事と住まいを失った非正規雇用労働者100人が暮らす大阪の雇用促進住宅に焦点をあて、仕事を必死で見つけようと奮闘している人々のドキュメントでしたが、日を追って悪化する雇用環境に、正社員はおろかチラシ配布のアルバイトなども断られ、まったく仕事ができないまま、間もなく迫る雇用保険の期限を前に、絶望の日々をおくらざるを得ない姿が映し出されていました。


 「派遣村」については、このブログでも「年越し派遣村の真実 - 「どんな仕事でも良いので働いて収入を得たい」とのまじめな求職者が多かった」 との全労働のレポートを紹介しています。NHKドキュメンタリー「働きたいんや」もそうですが、働きたくても働けないというのが、雇用に関わっての今一番大きな問題でしょう。舛添厚生労働相のように、「働く能力があるのに怠けている」と今批判して見せることに一体何の意味があるというのでしょうか?


 「怠けている」どころか、日本の現実は「職を失う」と同時に「自分を失う」ような状況に置かれていることの方が大きな問題であるということを、年越し派遣村で村長をつとめた湯浅誠さん(反貧困ネットワーク事務局長)が次のように指摘しています。(※以下、雑誌『経済セミナー』〈09年6-7月号〉の湯浅誠さんと東大教授・玄田有史さんの対談「労働問題の本質とは」から)


 日本社会は働くことが人々のアンデンティティーになり過ぎていると思うので、今より切り離したほうがいいと思っています。失業したときの喪失感がみんな異様に深いんです。「もう自分はダメな人間になってしまった」と思ってしまうのです。今まで仕事をすることでしか評価されなかったから、仕事を失うと自分を失ったようになってしまう。そのため、失業して相談に来る人は、自分で自分を責め抜いて疲れ切ってしまっています。生きる力が奪われて、働く場所がなくなっても生きていていいということが、スッと通らなくなっている。


 働くことは生活の一部のはずですが、日本の場合、「働くことの中に生活がある」といった雰囲気があり、この肥大化した働くことのイデオロギーを払拭するために、「働くってなに」というよりも、「生活するってどういうこと」という問いにしていきたい。働く以外に生活する生き方があっていいとか、そういう人が存在するという認識を広げないといけないと考えています。


 社会保障の話になりますが、無業者が許容されるのは、「働けない」限り、という条件付きなんです。つまり、障害者や高齢者や子どもなどで、「この人たちは働けない人たちだから、働かないことによる生存を認めましょう」ということになる。しかし、働けるのに働いていない人に対する社会の許容度は恐ろしく狭く、自己責任論が急に跳ね上がる。ワーキングプアと呼ばれる、働いているけれど生きていけない人とか、引きこもりやニートの人は、そうなった途端に「なぜなのか」と過剰に意味を探られ、分析され続ける存在になってしまう。


 仕事がなかなか決まらない人が、「面接で落ちるたびに、『お前なんかいらない』と言われているような気になる」と言います。社会的に存在を必要とされていないと感じ、落ちるたびにどんどん自信を失っていく。「仕事がないということであって、あなたが否定されたわけではない」という話は、すんなりとはわからない。しかし、ケン・ローチ監督なんかのヨーロッパ映画を観ていると、失業して失業給付をもらっている人がサッカーチームの監督をやったりして、失業することによる鬱屈が映らないわけです。もちろん鬱屈がまったくなくはないでしょうけれど、それがメインテーマにはならない。日本は、そういう意味で、ワーク・ライフ・バランスのような話が全然ピンとこない状況になってしまっていると思うのです。(※雑誌『経済セミナー』からの引用はここまで)


 それから、湯浅誠さんは、『どんとこい、貧困!』(理論社)という中学生に向けた著書の中で、「自己責任論は上から目線 - そんな社会で、まだ暮らしたい?」と見出しを打ったところで次のように書いています。


 テレビをつければ、コメンテーターと称するタレントや大学の先生が、自分の“溜め”をまったく自覚しないまま「運も実力のうち」、「自分の力でつかみとらなきゃいけない」、「甘えなければ仕事はあるはず」と説教している。本人の生活再建にはなんの役にも立たない説教を、ただ「自分だって苦労してきたんだ」ということを、言っている自分が気持ちよくなるためだけに、たれ流していたりする。


 「上から目線」という言葉がある。人を見下したような、自分が相手より上に立っていることを前提にしたような考え方・発言という意味だが、自己責任論をふりかざす人たちに共通しているのが、その「上から目線」だ。というか、自己責任論は必ず「上から目線」になる。「上から目線」のないところに、自己責任論は生じない。


 なぜなら、自己責任論とは、そもそも仕事がうまくいかなかったり、生活が立ちゆかなくなったりした人たちに対して、うまくいっている人たちが投げつけるものだから。


 自分で「がんばろう」と思う気持ち、それは大切なものだし、自分がそれだけの“溜め”をもっていることの証(あかし)でもある。しかし自己責任論は、“溜め”がなく、がんばれなくなってしまった人たちを、さらに痛めつけるために使われる。「努力しないのが悪いんじゃないの?」、「甘やかすのは、本人のためにならないんじゃないの?」、「死ぬ気になればなんでもできるんじゃないの?」--すべて、弱ってしまった人たちに向けられている。


 努力したかどうか知らないが、とりあえず現状でうまくいっている人、甘やかされなかったかどうか知らないが、さしあたり生活に問題がない人、死ぬ気になっているかどうか知らないが、とにかくできている人たちに対しては、そもそもそんな問いは投げかけられない。うまくいかなくなったとたんに、「努力してるのか?」、「甘えてないか?」、「死ぬ気になってるか?」と問われはじめる。


 もうひとつの共通点は、これらの自己責任論的問いにはいずれも答えようがない、ということだ。努力が足りないんじゃないかと言われれば、そうかもしれないとしか答えようがない。甘えてるんじゃないかと言われたときも、死ぬ気になってないだろうと言われたときも、同じ。それらはいずれも底なしでキリがなく、「自分が足りないのだろうか?」と思いはじめたら、どこまでいっても問題を自分に投げ返しつづける。


 自己責任論は、そうやって問いが社会に投げかけられるのを防ぐ。出てこないように蓋(ふた)をする。そして本人の中に「なにかおかしいんじゃないか? 自分が不当な扱いを受けているんじゃないか?」という問いを閉じ込める。自分で自分を痛めつけるように、その疑問が外に、社会に出てこないように封じこめる。結局は「文句言うな。黙れ」と言っているのと変わらない。


 自己責任論の一番の目的、最大の効果は、相手を黙らせることだ。


 弱っている相手を黙らせること。これは弱い者イジメだ。(※引用はここまで)


 弱っている人たちをさらに痛めつける「上から目線の自己責任社会」を変えていかなければ、1日に100人近くが自殺に追い込まれ続ける先進国最悪の日本社会を、いつまでたっても改善することはできないのではないでしょうか。


(byノックオン)