ももへの手紙&旅の贈りもの・関連地回遊(3) | 次世代に遺したい自然や史跡

次世代に遺したい自然や史跡

毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

≪「ちょろちょろ」とおいらん坂を上る≫

まち歩き絵図案内板があった寺本家住宅の地も昔は、おちょろ(娼妓のことで通称「沖芸者」)の置屋だった。この案内板の箇所は「旅の贈りもの」の最初の方だったと思うが、櫻井淳子(だったと思う)がイラつきながら、西に入る道を急ぎ足で歩いていた。

その道へ入れば、すぐT字路に突き当たるが、その突き当たったH川宅と小径を挟んだ北の空き家の地はかつて、ちょろ押し小屋だった。自然、戦跡、ときどき龍馬-歴史の見える丘公園に続く遊歩道


「ちょろ押し」とはおちょろの乗る「おちょろ舟」の漕ぎ手で、停泊船の客と金銭の交渉も行っていた。その交渉、つまり、おちょろ舟を出すのは輪番制で、その日の順番に従って漕ぎ出すのである。但し、特に馴染みの客の場合は、この限りではなかった。



T字路は南へ折れるが、すぐまた三叉路に突き当たる。ここをそのまま真っ直ぐ、目の前の山に上がる小道に入る。ほどなく石段になり、山腹の道路を横断し、更に石段を上り詰めると、御手洗地区の展望台「歴史の見える丘公園」に着く。御手洗地区が一望できるからこの名称が付いたのである。


私が登ったのは13日の午前9時頃だったと思うが、すぐ後からまち歩き観光客が上がって来ており、人気のスポットであることが分かる。



トイレは北西に下った所にあるが、公園からは北に石段を下って行く。道中、御自然、戦跡、ときどき龍馬-歴史の見える丘公園からの展望 手洗の町並みや中の瀬戸、岡村島、小島等が眼下に広がっている。中腹の道路に再び出ると、「おいらん坂」標柱が建っている。「旅の贈りもの」では、その標柱が「風待ちの丘記念碑」に変わっており、そこで櫻井淳子と細川俊之が会話していた。


おいらん坂とは、その北下から続く細長い尾根上に付けられたコンクリート歩道と、それから続く石段のこと。コンクリート歩道部分は、「旅のおくりもの」で、不満気に坂を下りる黒坂真美を大滝秀治が案内するシーンや、太平シローが歩くシーンが撮影された。



坂の名称は’00年代初頭、西方の急傾斜災害防止工事中、100基余りの遊女や童子等の墓が出土したことに由来し自然、戦跡、ときどき龍馬-おいらん坂 ているのだろう。その後、島内外から募金を集め、墓石を立て直し、「おいらん公園」として整備したのである。

道路から石段を下りた所においらん公園の道標があるが、欠損している。公園はそこから西のみかん畑方向に行くとすぐある。



公園一角には「火の車の塔」と呼ばれる石塔もある。宝暦年間の823日の夜、御手洗屈指の遊郭、若胡屋と富田屋の主人を始め、御手洗の人々が月待ちとして、酒を酌み交わしていた。すると、突然、真っ赤に燃え盛る火車が現れた。よく見ると、火車の中では髪結い業を行っている和助がもがき苦しんでいる。

両主人は、これは和助の身に何かあったのではないかと思い、坂を下りて和助の元へ行ってみると、櫛を持ったまま頓死していた。自然、戦跡、ときどき龍馬-火の車の塔と遊女墓群



和助は盗品の転売等、様々、阿漕なことを行っていたため、その報いであろうと囁かれた。但し、両主人も和助に髪を結ってもらったこともあるため、経文を一石に一字ずつ彫って埋め、その上に石塔を建て、和助を回向したのだった。



おいらん坂の石段を下りきった所は御手洗小学校跡だが、運動場跡に降り立つ手前に地元出身の勤王志士、星野文平碑がある。高杉晋作とも交流していた文平は自然、戦跡、ときどき龍馬-城壁のごとき満舟寺石垣 、新谷道太郎関連書物では、慶応3年、新谷邸で坂本龍馬らと密会したことになっているが、以前解説したように、文平は文久3年、勝海舟に会いに行く途次、切腹未遂の傷が悪化して亡くなっている。



御手洗小学校跡は現在「ふるさと学園」となっており、素泊まりの宿泊所としても利用できる。

学園南の古い木造家屋は鍵の閉まっている教育資料館だが、元は御手洗小学校の校長の宿舎。


東の道路に出て、北に折れて行った突き当たり左の満舟寺の石垣前が、「旅のおくりもの」で多岐川華子が葬式の列とすれ違うシーンや、靴擦れを起こした櫻井淳子の足を初対面の徳永英明が勝手に触る等のシーンの撮影地であり、「ももへの手紙」で、ももが妖怪たちに追いかけられて倒れ、陽太に声をかけられるシーンの地である。



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