≪遊郭跡で見えない「何か」に襲われる?≫
満舟寺については他に「旅の贈りもの」で、下から二段目の石段に徳永英明が立って、櫻井淳子に「案内してあげようか」と声をかけていた。
寺の石垣はこの島には似つかわしくない、何メートルもの高さの城壁を彷彿させるもので、郷土書等では、豊臣秀吉の四国平定時、毛利軍が前線基地として城を築いたとする説を挙げている。
しかし実際、そのような記録はなく、正徳から享保年間(1711~35年)に描かれた「芸備諸郡駅所市町絵図」にも石垣はしるされていない。「満舟寺」と称するようになり、各伽藍が整った寛延4年(1751)に築かれたとみるのが妥当であろう。昔はすぐ下が海であり、高潮や高波除けに、高い石垣を築いたのではないかと推察される。
満舟寺北東角の三叉路はそのまま北西に
直進する。三軒過ぎると、かつての御手洗のメイン・ストリート(昔は海岸沿いに道はなかった)に出る。斜向かいには新光時計店があるが、この店先は「ももへの手紙」でももが妖怪に追いかけられて駆け抜けた通りであり、「旅の贈りもの」でも、店の時計型看板(約70年前の精巧社の懐中時計を模したもの)がアップで映されていたように記憶している。
その新光時計店は日本最古の時計店と言
われているが、文献によっては、安政5年創業とするものと、明治4年創業とするものがある。現在の店主は四代目だから前者説が正しいのかも知れない。店内には日本製の大正時代のデジタル時計があるというから驚く。
メインストリートは西に向かう。時計店の二軒西に御手洗郵便局がある。両方の映画では局自体は映されてなかったと思うが、「もも・・・」では郵便屋の幸市の勤務先であり、「旅の・・・」では、大滝秀治がここの郵便局長だった。
但し、ポスト(ヒラノ理容と一緒に写っている写真)は「旅の贈りもの」に登場する。太平シローが妻宛てに自殺の決意を書いた手紙を投函するシーン。
その西は三叉路になっており、道路を挟んだ西に、大正か昭和初期頃の建物と思しき、「ヒラノ理容」がある。
映画に登場したかどうか記憶にないが、「もも・・・」のロケ班はこの建物を写真に撮っている。
その二軒西には昔から続く北川醤油が営業しており、その南向かいは前回触れた、御手洗屈指の遊郭、若胡子屋跡がある。ももが妖怪に追いかけられて逃げるシーンに登場したほか、「旅の・・・」では、櫻井淳子ほか、島を旅する全ての者が島民に歓待を受けるシーンが撮影され、床に座布団が敷かれた。また、縁側でも撮影シーンがあった。
北川醤油の西隣に坂本龍馬その他の志士
の滞在所があるので、龍馬らも若胡子屋を訪れた可能性が高い。今でいう、スナック感覚である。
若胡子屋は享保9年(1724)、広島藩から「茶屋」免許を取得して営業を開始した。最盛期には100人以上の遊女を抱え、繁盛していた。
裏座敷の天井板や障子の腰板等に、当時、薩摩藩が輸出を禁止していた屋久杉が使用されている。これは御手洗に薩摩藩の船宿があり、懇意にしていたためでもあるが、藩政時代後期、広島藩は軍資金調達のため、薩摩藩と密貿易を行っていたことから、特別に融通されたのだろう。
現在、この一階は郷土資料館的になっているが、二階は立入禁止となっている。が、私はいつものように「立入禁止」表示がないことを理由に堂々と上がった。すると、二階に上がった途端、息苦しさを覚えた。その二階では藩政期、忌まわしいことが起こっていたのである。それは・・・・次回へ続く。
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