真実のよさこい伝説紀行(9・完・前編)純信の第二の人生 | 次世代に遺したい自然や史跡

次世代に遺したい自然や史跡

毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

坂本龍馬の師が純信の恋文を隠蔽

二度に亘って国外追放された純信は、土佐北街道の終点から讃岐街道を歩いて、四国中央市川之江町塩谷へ至った。そして地区の世話役(記録には「顔役」とある)娚岩こと、川村亀吉を頼った。亀吉は若い頃、大阪で相撲を取っていたが、30歳時、足を怪我して相撲をやめ、帰郷。以後、その人となりで子分も大勢でき、侠客的顔役として知られていた。


 

純信はここで「岡本要」と名乗ってい たが、読み書きもでき、教養も高いことから、娚岩邸の街道を挟んだ斜向かいの庵で寺子屋を開くこととなった。これは評判となり、子弟は五、六十人にも上った(純信が後にお馬宛てに書いた恋文での内容)という。自然、戦跡、ときどき龍馬-川之江・純信堂

 

川之江港近くで廻船業を営んでいた豪商、井川家も家塾に純信を招き、また時には歌会に純信を同席させることもあった。その純信が安政39月に書いた歌の短冊が井川家に伝わっているが、現在でも井川家では塾を自宅で運営している。


 

またその反面、僧籍を剥奪されてからも竹林寺に未練があったのか、「竹林寺」と書いた布施箱を首から吊るし、塩谷の街を戸別に回っていたと、地元の古老が伝えている。


 

そんな純信の川之江での生活も落ち着いてきた安政38月中旬、娚岩の元を一人の土佐の男が訪れる。坂本龍馬の師の一人である河田小龍である。小龍 は父の縁故地である川之江に数週間滞在し、揮毫していたのである。

 

819日、純信は娚岩宅に小龍が来訪していることを知ると、会いに行った。当自然、戦跡、ときどき龍馬-純信邸跡 然、お馬の消息を聞くためである。純信は、お馬が須崎で暮らしていることを聞くと、ある書状をこれから書くから、それを届けてほしい旨、小龍に告げ、庵に戻った。


 

そしてしばらく経って純信は再び小龍の元を訪れると、お馬宛ての書状を渡したのである。小龍は複雑な心境でそれを受け取った。それは明らかに恋文だった。その恋文の全文は後述の純信堂側の看板に掲載されているが、 純信はまだお馬のことを一心に想っていることが窺われる。


 

恋文には「例え何年かかっても必ず連れに行く」とか「須崎より熊野町(伊予新宮のことか)へ来られた際は、是非こちらに来て戴きたい。私は結婚もせずひたすら待っている」というようなことがつらつらと綴られていたのである。自然、戦跡、ときどき龍馬-純信邸跡東の常夜燈

 

これを読んだ小龍は、お馬に渡してしまうと、また双方が禁制を犯して大問題になり兼ねないと思い、手紙は自分の元に仕舞っておくことにした。

その年の1229日、娚岩が亡くなった。 支援者を失った純信はやがて川之江を去り、消息を絶つ。


 

小龍は帰国後、純信の恋文を枕屏風に貼り、来客の話のネタにしていたという。その後、小龍の旅行中、家人が家の中の不要物を始末する際、誤って枕屏風を古物商に売却してしまった。

明治30年、それを購入した者が、来歴を自然、戦跡、ときどき龍馬-純信とサダヨの墓 知り、小龍に由来書を所望した。その後もこの屏風は人から人へと転々と巡り渡っていったが、昭和前期、火災で焼失したという。


 

純信の消息の手がかりとなるものが公表されたのは昭和58年になってのことである。高知新聞の投書欄に、はりまや橋南袂で営業する菓子店「浜幸」の社長の投書が載っていた。浜幸と言えば慶全がかんざしを買い求めた橘屋跡のすぐそばの店だが、昔は菓子店ではなかった。資料が散逸しているので探 せないが。

 

社長は昭和44年、松山への旅行の途次、現在の久万高原町の国道33号で交通事故に遭った。そして町内の病院に入院したのだが、同室の中に純信の子孫だという患者がいた、というもの。これを読んだ純信の生家のある土佐市市野々の歴史研究家が調査し、純信の晩年の住居跡と墓を割り出したのである。


 

純信は川之江から一旦、密かに土佐に入国後、松山街道境野(されの)峠から伊予に入り、土佐国境に近い東川で「中田与吉」と変名し、暮らしていたのである。安政4年か5年、現在のいの町上八川清水出身の女性と結婚し、一男一女を儲け、明治21年、69歳で没していた自然、戦跡、ときどき龍馬-慶全墓

純信の消息を知るきっかけが、橘屋跡側の店の社長だったことや、詳細を調べ上げた歴史研究家が純信の生家のある地区住民だったことからして、これは純信の御魂が導いたことではなかったのだろうか。


 

純信の曾孫の方と私が直接会い、その方が祖父母から聞いた純信のこと等は本シリーズ(0)で解説しているから割愛する。

一方、純信たちを裏切った慶全は、当然、南ノ坊へ帰ることもできず、魂の抜け殻のような状態で、城下近辺をさ迷っていた。それを案じた弟によって慶全は故郷である大月町柏島に連れ戻され、島の禅昌寺住職として迎えられた。

 

以後、慶全は平穏な生活を送り、明治14 年、51歳で世を去った。他界する少し前、慶全は島の古老に、世間でははりまや橋でかんざしを買ったのは純信だと言われているが、本当に買ったのは自分で、純信が憎かったため、陥れたのだと語ったという。

その素行のせいか、慶全の墓は住職であったにも拘らず、一般的な墓石らしいものはない。


 

久万高原町東川、大月町柏島、同じ娘を愛したそれぞれの僧が眠る地には、静かな時がただ、流れている。

 

ps:アメブロの調子が悪いため、「史跡ガイド」はこの後すぐ投稿します。

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