道標(みちしるべ)は今の道路標識のようなもので、各種情報が少なかった藩政期は旅人にとっては重宝されました。
道標の中には、常夜燈や里程標と一体化しているものもありますが、今回は単独の道標及び同種の丁石を取り上げました。
四国内の坂本龍馬の脱藩道の中で、二ヶ所に現存する道標の一つ。風化しており、判読は困難ですが、指印が刻まれています。
これは
元は
横にある延命地蔵は昭和期の建立と思われますが、峠だけに藩政期も地蔵が建っていた可能性はあります。
道標や周辺の脱藩古道については拙著「長州・龍馬脱藩道」を参照。
尚、もう一ヶ所の道標は津野町。
丁石は目的地までの丁数を表示した石標。石柱のみの単独丁石以外に地蔵と一体化した「丁石地蔵」や常夜燈の竿部に刻まれたもの等があります。
その丁石も分岐に建つ場合は道標の一種と見做されます。
三頭越はこれまで何度も解説した、龍馬が文久二年2月半ば過ぎ、讃岐琴平の呑象楼で鎌村熊太を紹介する紹介状を受け取り、熊太邸へと向う際に越えた讃岐と阿波との国境の無名峠近くにある有名な峠。
龍馬は無名峠を阿波側に越えて数分で三頭越への峠道に合流するのですが、その分岐に鳥居の絵が浮き彫りされた、三頭越への丁石が残っているのです。鳥居が彫られているのは、三頭越に「道鳥居」があるため。
この丁石は三頭越まであと一丁の距離であることを示したもの。尚、下方の集落では丁石地蔵となっています。
道標や周辺古道については拙著「大回遊!四国龍馬街道280キロ」を参照。
龍馬の長州内の脱藩道は、その大半が近世の山陽道と重なっていることはこれまで述べてまいりましたが、中世の山陽道は山陽
しかし近世に入ると、そのルートでは埴生から船に乗って九州へ脱藩する者が出てきたため、藩では埴生の海岸からの船出を禁止し、山陽道のルートを内陸部に変更、福田から蓮台寺峠を越え、吉田へと進むようにしたのです。
道標には「右 吉田道」、他面には「左 はぶ道」と刻字されています。吉田は奇兵隊の陣屋跡や高杉晋作の墓所があることで有名。確か「晋作まんじゅう」も売られていたような。
道標と山陽道の詳細は拙著「長州・龍馬脱藩道」を参照。
尚、拙著は東京にある高知県のアンテナ・ショップ「まるごと高知」でも注文できます(ツタヤ高知本部より)。
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