挿し絵の仕事をしていた頃。。。 | Cozo Cobun Official Blog

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公式YouTubeチャンネルとの連動記事が中心にはなりますが、動画では語られなかった内容や裏話等も書いています。本人に代わりスタッフが管理・運営しています。

毎日ホント暑いですね。

竜は、この季節は毎年サマーカットです。

それでも暑くて、ペット用ひんやりシートでグッタリ。。。

そろそろ水遊びもいいかもです。。。

$こどもの瞳

でも、お腹壊しやすい子なので、ハンカチで冷えすぎ対策。。。


さてさて、講演会の記事、そして前々回の暴露記事にも
たくさんのコメントやメッセージありがとうございます。


前々回は絵本コンクールのことを中心にお伝えしました。

今回は、更にその時期どのような葛藤の中、作品を創作していたのかを
掘り下げて詳しくお伝えいたします。。。

なぜなら、次の展覧会は画集「こども」出版からの10年を振り返る展覧会なのですが、
画集出版の前の初個展に辿り着くまでをなんとかこのBlogでお伝えして、
より展覧会を、有意義なモノにしていただければと、思いましたので。。。

(ホントすみませんが、かなり掘り下げた内容なため、今回も超長文です。。。)

20代前半だった私は、毎日ほとんど徹夜で絵を描いていました。(若いってスゴいっ)
保育のお仕事と、お絵かき教室の先生の傍ら、絵本コンクールの作品を描いてたところまで、
お伝えしましたが、実は同時に挿し絵のお仕事もしていました。

$こどもの瞳

保育のお仕事は10時出勤でしたが、学童保育なので、子どもが帰って来るのは午後からです。
午前半休を取ったりしながら、、、(遅刻もしょっちゅうで他の先生に叱られてましたが。。。^^)
様々な出版社に作品を持ち込んでは、断られる日々を繰り返していました。
大きな出版社で、ちゃんと絵を見てくれない所もありました。

約束して、時間通りに行ってもすっぽかされることなんて、日常茶飯事でした。


そんな中、小さな出版社からはたまに、挿し絵やカットを描かせてもらえました。

$こどもの瞳

当時は今ほど、コンピューター社会ではなく、イラストはほとんどが手描きが主流で、
出版社も、記事に合わせて描いてくれるイラストレーターを常にさがしてはいましたが、
画家やイラストレーターを志してる人は、星の数ほどいましたし、
出版社には、毎日たくさんの人達が我先にと作品を持ち込んでました。


待合室では、名前を呼ばれてるのに居眠りしている人や、
トイレを我慢してる人、スケッチしてる人がいつも数人待っていました。


新人の絵描きは皆、いくつものアルバイトをしながら、
小さな仕事を取り合って切磋琢磨していたのです。

$こどもの瞳

たまたま依頼があったとしても、それが続く保証はどこにもありません。

連載が決まれば少なくとも毎月の仕事が確保されるので、
どの絵描きも必死で歯を食いしばって描いていました。

$こどもの瞳

そんな中で、私は二足も三足も草鞋を履きながらも誰の目にも止まらないような
小さな仕事を一所懸命に描きました。

そうすると、一枚が二枚、二枚が三枚と、少しずつ仕事が増えて行き、
なんとか念願の連載へとたどり着いたのです。

$こどもの瞳

当時、やっとの思いで、獲得した最初の連載は、毎月の季節の草花と歳時のイラストです。

$こどもの瞳

それに某出版社からは、間違い探しのコーナーを任せられました。

$こどもの瞳

連載なので、誌面に名前も出ました。

$こどもの瞳

初めて、自分の名前で仕事をした喜びは今でも鮮明に覚えています。

$こどもの瞳

後になって、担当編集者に聞いたところ、編集作業でイラストが必要になった時に
いつも編集室の入り口で「何かカットの仕事でもありませんか~」「仕事が無くて困ってます…」
「どんな小さな仕事でも構いませんので…」って弱々しい私がいたというのです。

$こどもの瞳

連載が決まったのも、政治物や季節物、どんな嫌なネタも文句一つ言わす、
ニコニコしながら締め切りを必ず守って描いて来て、描き直しにもその場で応じ、
何より名前が変わっていて、「お金なくて困ってるので、仕事いただくまで帰りません」
とかなりしつこく、編集室では挿し絵のこうぶん君は有名だったようです。

$こどもの瞳

そうやって、来る仕事、来る仕事、必ず締め切りを守ってこなしていると、
編集者にも横の繋がりがあって「締め切りは絶対に守るし、何でも描いてくれる便利な絵描きがいるよ」と噂が広まって、任せられる仕事も増えていきました。


同時に名前で仕事が来ている責任感も湧いてきて、睡眠時間がどんどん削られていきました。

$こどもの瞳

それでも、描いている時が一番幸せでした。

どんなに絶望的なことも描いてる時だけは忘れることができたから。。。


それに、たまに読者の方から出版社に届く私宛ての応援メッセージは
ホントに何より嬉しかった。。。(今では、Blogの皆さんのコメントを何より嬉しく拝見しています。)



カット集の大きなコーナーを任せられて本屋さんで自分の本を手に
取った時を思い出すと今もドキドキします。


同時に、色の付いた仕事がしたい。もっと大きな仕事がしたい。
もっと認めてもらいたい。という欲が出てきていました。

$こどもの瞳

思いが叶って、パンフレットや小説の表紙の仕事が舞い込んだ時に始めて、
喜びだけではなく、絵に対する責任やプレッシャーを経験しました。



それでも、自分が表紙を飾ったパンフレットのイベントに
学童保育所の子ども達を連れて行く時は、心が躍っていました。


ポスターを指差し、見ず知らずのお客さんに
「あれ、こうせん(こうぶん先生の略)が描いてんでぇ~」なんて言う子もいて。。。


コンクールに落選しても、出版社で嫌なことがあっても子ども達の笑顔を見ると
忘れることができました。



子ども達だけは、コンクールの落選作品も、毎月の間違い探しも、楽しみにしててくれましたし、
毎日のように、お絵かきや読み聞かせをしました。
(私は役になりきって読み聞かせるので、子どもは物語に入り込んでいました。)

$こどもの瞳

その時、もう一つ勉強してたことがあります。


子どもの絵からその子どもの心理を読み解く、児童絵画心理学。


毎日接してる子ども達の、内なる心の声を聞いてみることで、
もっと子どもの内面を、描けるかもしれない。。。
と、いう思いでいろんな本を読みあさっていました。



この種類の本は当時の私にはどれも高額で、ほとんどを図書館のお世話になりましたが、
この一冊だけはなんとかお金を貯めて買いました。

図書館で見て、あまりに衝撃的で絵画児童心理への勉強のきっかけでした。。。

当時の私は、子どもって私達大人には計り知れない何かがあるのでは?
もっと子どもそのものの本質を知りたいと思ったのです。

同時に、私の中のアダルトチルドレン、インナーチャイルドと向き合いたい思いと思いました。

幸いその時の私には、学童保育やお絵描き教室の現場で様々な年齢、
様々な境遇の子ども達が描いた絵が生きた教材になってくれました。

結果、子どもが自由に描いた絵には心の声が描かれていることがわかりました。


子どもがよく描くチューリップや太陽の描き方や塗り方にも
その時の心理が現れていることを学びまし
子どもは、私達大人が思うより様々に思考し、
物事を大人以上に敏感に捉え、それなりに悩んでいるのです。

私が実際、子どもの絵がきっかけで親に働きかけをした例がいくつかあります。



その中の一つに。。。

母子家庭のお子さんの作品が順を追って見るとなぜか、父親ではなく、
母親への愛情要求が強く見られる事に気づいたこと、対応して行くうちに、
お父さんの分まで、しっかりしなきゃって頑張り過ぎてたお母さんが
すっかりお父さん的存在になりすぎてしまったことに対して、
その子もお母さんへの「甘えたい」思いを我慢していたがゆえ本心が絵に現れたのでした。



最初は「ただの子どもの絵に…」って言ってたお母さんも思い当たるところがあったのか、
私の意見を聞き入れて、言葉掛けやスキンシップなどの対応をしてくださいました。

他にも、学校でのいじめ、虐待、性の悩み、等々
誰にも相談できない、または言葉にできない不安までをも、子どもの絵は物語っていることを学び、
誰もが経験してるはずの、子どもという存在の奥深さと重要性を
身を持って体験させていただけたのです。

こうして、周りの若者のように遊ぶことがほとんどなかった20代前半の私ですが、
保育や教室を通して、子どもに接することができたのは、私にとってとても大きく
意味のある5年間だったと思います。(教室は2003年頃まで続けました…)

$こどもの瞳

その時期にもう一つ、高校生の時からずっと続けていた書道も今の作品に生きていると思います。

子どもの繊細な髪の毛を筆だけで表現するのが、目標だった私は、
保育と教室と挿し絵の仕事をしながら、コンクールの絵を描き、児童絵画心理を勉強しながら、
書道も勉強していたのですね。

(前々回の記事のこどもの髪の毛を見ると筆で描けないため、
色鉛筆やパステルでごまかしているのがわかります。)


正に絵描きの修行僧、みたいな時期だったのかもしれませんね。

$こどもの瞳

資格認定から免許に段が上がるまで続け、あまりに没頭してたので、
先生から、「書家になるおつもりか?」と聞かれたのを思い出します。

$こどもの瞳

こうして、様々な方面から、子どもというモチーフを追求し、
あっという間に保育所での5年という月日が流れていきました。

保育の仕事も一区切りをつけた私は、絵本から個展へと目標を変え、
改めてデッサンや美術解剖学などを勉強していたものの、個展への夢はほど遠く、
気の遠くなる思いでした。。。

目標は「自分の個展を」と決めた私はあれだけ、地を這うように手に入れ
順調に増えていた挿し絵の仕事でしたが、両立できるほど生易しい世界ではないことを痛感し、
また、自分が描きたい世界しか描けないことも確信したので、
保育の仕事を辞めたと同時に、挿し絵の仕事にも区切りを付け、
画廊主に見てもらうための作品を一から描きためる作業をしていました。


注文ではなく、自由に描ける喜びの反面、子どもという明確なモチーフがあるにもかかわらず、
そのアプローチに思い悩み、何を描いても虚しく、何枚も駄作を描きました。


お絵描き教室と大阪南港のATCで似顔絵を描きながら、作品を描きためては
いくつものギャラリーや画廊を足に血豆を作りながら廻ったのです。。。



個展という形での作品の発表の場所を求めて。。。







★8月8日は私に子どもを描くきっかけをくださった、いわさきちひろ先生の命日です。
戦争経験者のちひろ先生は、
戦争で何の罪もない幼い命が奪われることに、
とても心を痛めていらっしゃいました。
今の日本の虐待により子どもの命が消される現実を天国から、嘆き悲しんでられると思います。
同じ子どもを描く絵描きとして、
作品を通して、子どもも一人の尊い人間であることを訴えかける作品を創ることができるよう、日々努力して参ります。。。
私もちひろ先生同様、
子どもが幸せじゃなければ世の中全体の幸せはない。
と感じています。。。