ガリレオの相対性の原理は「すべての運動は相対的だ」といいあらわすことができます。

それはつまり、外の座標系に照らさない限り自分が運動しているかどうかはわからないということです。


もし自分が大きな船の甲板の下にある広い船室に閉じこもり、蝶のような飛びまわる小動物を持ち込み、たらいに魚を入れたとします。高いところから瓶を吊り下げ、ビンからしたたりおちる水滴を、下に置いた広い皿の容器に受けるようにします。船がじっとしているときに小動物をよく観察すれば、船室のどちらの方向にも同じ速度で飛ぶのがわかるでしょう。魚もまた、どちらの方向にも同じように動くでように、したたりおちる水滴はまっすぐ下の容器に入るでしょう。両足をそろえて跳べばどちら向きのも同じ距離だけ進むでしょう。


これを踏まえて一定の運度速度であちこち揺れないようにします。

これではほんのわずかな変化も見出さず、船が動いているか静止しているか区別することはできないでしょう。


つまり、一定の速度で直進している限りは、自分の速度を測定するすべはなく、運動しているのかどうかすらもわからないというのです。なぜなら、周囲のものもすべて自分と同じ速度で進み、すべての現象が運動しているか静止しているかによらずまったく同じように起こるからなのです。



アインシュタインはマイケルソンとモーリーによってエーテルの存在が否定されたことを知らないまま、ガリレオの相対性原理を基礎としてエーテルが存在するのか調べ始めたのでした。その方法が「思考実験」だったのです


アインシュタインは1896年まだ16歳の時に一つの思考実験を行いました。それは顔の前に手鏡を持ちながら、光と同じ速度で突き進んだらどうなるだろうと考えたのでした。


特に気がかりだったのは、鏡に映る自分の顔はみえるのだろうかという点だったのでした。

その当時のエーテル理論によれば、エーテルは宇宙全体にしみわたり、完全に静止して動かない物質のはずだったので、光はエーテルを媒質として伝わると考えられていたのです。


つまり光が秒速30万キロメートルで進むのはエーテルに対してだと考えられてきたのです。


アインシュタインの思考実験では彼の身体も、顔も、手に持った鏡も、すべては光の速度でエーテルの中を進んでいるので、光は彼の顔から離れられず、ましてや鏡にたどり着くことはできないのです。

鏡にたどり着けなければ反射して戻れるはずもないため、アインシュタインは鏡に映る自分の顔を見られないことになるのです。


これは衝撃的な結論だったのです。


この結論はガリレオの相対性原理と矛盾してしまうのです。


ガリレオの相対性原理によれば、速度が一定ならば、われわれは自分が大きな速度で動いているのか、逆向きに動いているのか、そもそも動いているのかどうかも判別することはできないのです。

しかし、アインシュタインの思考実験によれば、顔が鏡に映らなくなることから、自分が光の速度で動いていることはわかるはずなのです。



アインシュタインは宇宙はエーテルで満たされているものとして思考実験を行いガリレオの相対性原理と矛盾するおかしな結果を得たのです。そこでもう一度「甲板の下の船室」のシナリオを採用して、アインシュタインの思考実験をやり直すと・・・


船が光の速度で進めば鏡に映るはずの顔がみえなくなってるので船員は船が光の速度で進んでいることに気づくでしょう。しかしガリレオは船員は船が動いているかどうかを知ることはできないと断言したのでした。



結局アインシュタインはこの思考実験がおかしな結果になったのは、エーテルで満たされた宇宙を基礎としたせいであることに気がついたのです。

彼は光はエーテルに対して一定の速度で進むのではなく、エーテルを媒体として伝わるものでもない。そもそもエーテルは存在しないのだ、と。



これはアインシュタインの知らないことではあったのですが、これはまさしくマイケルソンとモーリーによってすでに発見されていたことだったのでした。



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神童とまでいわれたアインシュタインはやはりすごいですね。思考実験だけでエーテルがないということに気がつくなんて。


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私には特別な才能はありません。激しいほどの好奇心があるだけです。





大切なのは、問いを発するのを止めないことです。好奇心にはそれ自体として存在理由があるのです。永遠や、生命や、実在の驚くべき構造のことを考えるとき、人は畏怖(いふ)の念を抱かずにはいられません。日々、そんな不思議をほんの少しでも理解しようとつとめるならば、それで十分なのです。





これはすべてアインシュタインの言葉です。いつまでも好奇心を持ち続けるという、すごいですね。