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心理コンサルタントのしらたきです。
さて、先日、ある宗教家の方と少しお話をする機会がありました。
そして、会話が『永遠の命』に関する話題になったときに、その方は、
「もし人間の命が永遠ならどんなに素晴らしいことだろう」
と言われました。
そこで、私が、
「なぜ、人間の命が永遠なら素晴らしいと思われるのですか?」
と尋ねてみたところ、
「命が永遠なら素晴らしいじゃないですか。美味しいものを永遠に食べ続けることができますし、愛する人や親しい友と永遠に楽しい時間を過ごすこともできるのですから」
と答えられました。
確かに、私も、子どもの頃は、命が永遠に続けばいいということを思ったことがあります。
しかし、果たして永遠の命があるのは、そんなに素晴らしいことでしょうか?
『命が永遠にある』ということは、単純に考えれば、それは『死なない』ということです。
『死なない』ということは、飢えに苦しんだり病気になったりすることはない、ということです。
つまり、何も飲まなくても何も食べなくても死ぬことがない、ということになります。
何も食べなくても死ぬことがないのなら、果たして、何かを食べたいという欲求が生まれるでしょうか?
増してや、それを美味しいと感じる必要性があるでしょうか?
そもそも人が食事を美味しいと感じるのは、食事をしないと飢えてしまうからです。
つまり、食べものを美味しいと感じて、その行為を繰り返し行わせることによって飢えから自分の命を守ろうとしているわけです。
要するに、人の命に限りがあるからこそ、美味しい食事を楽しむことができるのです。
人が、誰かを愛したり、誰かと親しくなるのも同じことなのです。
もし、人の命が永遠なら、子孫を残す必要性はありません。
子孫を残す必要がないのなら、誰かを愛する必要もなくなるわけです。
誰かを愛する必要もなく、子孫を残す必要もないのなら、家族を作る必要性は全くなくなってしまいます。
また、人の命が永遠なら、自分の命を守る必要性がありません。
命を守る必要がないのなら、社会を築く必要もなくなります。
なぜなら、そもそも人が社会を築いたのは、自分の命を外敵から守るためだからです。
そして、社会の中でより良く生きたいと思うがゆえに、他人と協力することを学び、人と親しくなる必要性が生まれたわけです。
つまり、人の命に限りがあるからこそ、人は誰かを愛したり、誰かと親しくなったりするのです。
そして、その人たちと一緒にいる時間を愛おしく感じ、その人たちと楽しい時間を過ごせるのも、私たちの命に限りがあるからなのです。
もし人の命が永遠なら、私たちは、今を精一杯生きる必要はありません。
なぜなら、今すべきことを今する必要がなくなるからです。
それは、明日やっても明後日やっても、一年後、いや十年後に、あるいは、何百年後にやってもいいからです。
つまり、本当に人の命が永遠だとすれば、私たちは、恐らく何もせずにただボーっとしていることでしょう。
なぜなら、時間は永遠にあるからです。
私たちは、時間に限りがあるからこそ、今という一瞬一瞬を大切にする必要があるのです。
自分の命に限りがあるからこそ、今を精一杯生きる意味があるのです。
私たちが、食事を美味しいと感じたり、人を愛したり、ものごとを楽しんだり、悲しんだり、苦しんだり、悩んだりするのは、今を精一杯生きるために必要だからです。
そして、命に限りがあるからこそ、愛する人や親しい人と一緒にいる時間を大切にする必要があるのです。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
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