休みをとりたいのだが、芸術者に休みはないようだ。嫌な記憶を思い出した。危険な主題を書く。イエスが、人を審判する神のやり方として、ひとまず成長するだけさせておいて、その結果生じた実によって判別し、良い麦を天の蔵へ、〈毒麦〉を火にくべることを言っている。結果によって、人間の全歴史を審判し、肯定するか否定するかするということだ。キリスト教入信者はこの話の呪縛から、入信自体によって、逃れられまい。私はそうではない。自分の感覚で吟味し判断する。私の判断は、とんでもない話だということである。結果によって良い麦と毒麦の判別をする、これは〈世間の眼〉の観点だ。外部からの観点である。こう言うと、「およそ内にあるもので外にあらわれないものはない」という同じイエスの言葉が引き合いにだされるだろう。これには、「行為によってではなく信仰によって義とされる」という、確かに誰かが言っていた言葉を対置させることができる。つまり、外的結果主義と内面主義とが聖書信仰の内部でも対立しているのである。「私が来たのは義人を招くためではなく罪人を招くためである」。イエスは知っているのである、旧約の神と自分の理念とする神とが齟齬するということを。私は、肉親さえ、この旧約の神の外的観点に加担する者であることを知っている。結果が大事なのであって、本人にしか解らない本人の歴史と魂の重みなど、本音では問題としないのである。忖度の気持は無い、これが無教養の恐ろしさである。旧約の神は無教養の神、すなわち肉の神であり、これに加担する者が多い。世間そのものがこの意識で出来ている。だから、肉の思いによる戦争は絶対止まない。これにたいし、「私が来たのは、親子兄弟を仲違いさせるためである」というイエスの言葉は、先ず、この〈二つの神〉の齟齬をこそ示している。私の嫌な記憶と言ったことをここで言ってもよいが、本質はこのことである。最後のイエスの言葉は、肉同士の戦争そのものに対する〈魂の戦争〉の宣言であって、われわれは皆この〈二重の〉熾烈な矛盾を抱えているのである。命の大事を主張することは、命の本質である魂の歴史をうち捨てることに反対することである。命の大事さは命そのものからは出て来ない。魂をうち捨てる旧約の神が依然として実在の神(創造主)である。人間はこの存在に抗して「普遍」をめざす者である。この存在を超克する志向はじつは命の本質そのものなのである。だから、朝に咲き夕に散る花もあのように「神の愛」の象徴たりえているのである。花の命そのものが、創造主の意図とは関わり無く、「普遍の理念としての永遠の神」へと祈っているからである。私は、花の持つ教養というものがあると思っている。でなければ花があのように美しく、「文人」の主題となるはずはない。少なくともそのように花を観じることが、われわれ人間の本質である。命の本質は自由であり、この自由を生んだことは、実在存在の最大の、しかし多分必然的な自己矛盾である。この自由によって、「われわれは遠い神の祖先である」(リルケ)。
休日を「神」のために使ったのだから宜しとしよう。