生き方や思想の多様性を認め合うことが、これからの社会で重要だという主張が、いま、世でしきりに唱えられているようだが、もちろん、誰も、「多様性」そのものを目指しているわけではない。あくまで、自分の納得する自分の在り方を見いだそうとしているのみである。各自がそれを探求することが多いほど、結果として、人間の在り方の「多様性」が生じる。その実体は、各自の「歴史性」である。各自の、実存的に生きる真摯さを前提としてのみ、「歴史性」は在り、その結果としての「多様性」のみが、意味をもつのである。だから、実際には、各々異なった生き方と主張をもつ者どうしは、相対主義的に併存しているのではなく、独立しているほど緊張関係に、つまり可能的闘争関係にある。人間としての真理を求める途上に、人間が在る、とは、そういうことである。そこでは先ず自分に責任と自覚と絶えざる自省がもとめられる。「多様性」の承認とは、これだけの前提を必要とするのである。これだけの前提を自分の内で煮詰めた上で、覚悟をもって、自分の必然的信条を打ち出すとき、相手はなおそれを尊重しないこともあるかもしれないが、そのような相手の言を尊重する必要は更にない。どうも、いまの「多様性」の議論を聞いていると、「多様性」という観念ばかりが浮いて、「多様性」を承認する一方で、相変わらず、相手の主張を自分の理屈だけで批判し審判しようとする態度が時々見え、「多様性」の背後にある相手の「歴史性」の実体と向き合い、その重さを忖度する態度に、欠けることがあるのに気づく。それでは、イデオロギーや観念論の克服にはなっておらず、「多様性」を正しく論じる資格もないのである。「多様性」の根底に在る「歴史性」の意識をこそ、その具体的現実性において自分のものとする態度が必要である。