祇園祭のルーツを探る-1
昨年は、夏休みを利用して日本の大魔王、崇徳上皇の足跡をたどりました。
今年は、京都祇園祭のルーツを探って、中国地方を歩いてみました。
2回シリーズで紹介したいと思います。
まず、祇園祭については、以前[1.八坂神社] [2.御霊会] [3.祇園祭の正体]
という記事でその謎に挑みました。
京都の祇園祭の主祭神は、
牛頭天王と同一視されたスサノオノミコトですが、
このスサノオノミコトは播磨の広峯神社から
勧請(神霊を運び込むこと)されたものと言われています。
また、その広峯神社のスサノオノミコトももともとは、
備後の素盞嗚神社から勧請されたと言われています。
この記事では、まず姫路の広峯神社と神戸の祇園神社について
紹介したいと思います。
祇園神社
神戸市兵庫区平野の見晴らしの良い高台に
祇園神社という神社があります。
この神社は、スサノオを播磨の広峯社から京都に勧請する際に
この地で一泊したことに起源を発しているといわれています。
由緒書きも京都の祇園祭のコンセプトと完全に一致しています。
もちろん、祭神はスサノオと妻のクシイナダヒメです。
↓こちらが本殿です。
正面にはスサノオとクシイナダヒメ、右にはスサノオの姉のアマテラス、
左側には天岩戸事件や天孫降臨時に活躍したアメノコヤネが
祀られています。
スサノオの娘の市杵嶋姫や子孫の稲荷が同時に祀られていますが、
とても見晴らしがよく、次に紹介する広峰神社のミニチュアのような様相です。
姫路の山の上の見晴らしの良い場所にあります。
祭神は、スサノオとイソタケルを主祭神として、
クシイナダヒメ、アシナヅチ・テナヅチ、宗像三女神などの
いわゆるスサノオ・ファミリーです。
本社は主として神明造の本殿と拝殿から構成されています。
拝殿の前には、8角形の柵があります。
もちろん、大将軍神社にあるような方角と深い意味を持つツールと思われ、
さすがは陰陽道の世界でも活躍するスサノオの面目躍如
といえるかと思います。
ちなみに、↓前面にはこのような説明書きがありました。
本殿の屋根の上の千木の端は縦に切られていて、
男神が主祭神であることがわかります。
この本殿の裏手には「九つの穴」があります。
この穴に対して、この説明書き↓(クリック拡大)のプロシージャーに従って
参拝するわけです。
個々の穴は↓こんなふうになっています。
さて、広峯神社の摂社・末社は↓こちらの通りです。
いずれも江戸時代に創建されたものですが、
そのコンセプトは創建当時からあったものと思われます。
↓こちらは祇園祭のキーパーソンである蘇民将来を祀る地養社です。
そして↓こちらはスサノオの出生に深く関係する蛭子を祀った蛭子社です。
他の各社は本殿の裏手に祀られています。
さて、人里離れた山奥にある広峰神社ですが、
そのさらに奥に登った白幣山にある奥の院は、
広峯神社のオリジナルの場所と言われていて重要な二社があります。
まず、手前にあるのが荒神社です。
こちらにはおそらくスサノオの荒魂が祀られていて、
祭のときに本殿にあるスサノオの和魂と合体するものと思われます。
京都の祇園祭で荒魂と和魂が合体するのと同じですね。
次に↓こちらが吉備神社です。
実はこの広峯神社は、この地に神威を感じた吉備真備が
備後の素盞嗚神社からスサノオを勧請したと言われています。
つまり、この神社の起源は奈良時代で
神社発祥の功労者が吉備地方出身の吉備真備というわけです。
さて、この吉備神社と荒神社の間には、
磐座と思われる石が存在していました。
たぶん凝灰角礫岩ではないかと思いますが、
ベースの岩盤と完全に一体化しているため、
磐座であることは間違いなさそうです。
ということは、おそらく吉備真備は、
この岩盤に神威を感じてスサノオをこの地に勧請したものと思われます。
なお、広峯神社の横には天祖父神社という名の神社があり、
スサノオの両親のイザナギ、イザナミと姉のアマテラスが祀られています。
広峯は、姫路の街全体を一望できる素晴らしいロケーションです。
奈良時代初頭に勧請された広峯神社のスサノオが
京都に勧請されたのは、その約150年後ということになります。
次の記事では、備後の素盞嗚神社について紹介してから
そのルーツについて考察してみたいと思います。