日本の大魔王 崇徳上皇-3 | 西陣に住んでます

日本の大魔王 崇徳上皇-3

西陣に住んでます-白峯神宮



[日本の大魔王 崇徳上皇-1]
[日本の大魔王 崇徳上皇-2]
[日本の大魔王 崇徳上皇-3]



日本の大魔王になると宣言して亡くなった崇徳上皇ですが、

その後、不吉な出来事がめちゃくちゃ起こりました。


以下、800年にわたる崇徳上皇の鎮魂の歴史を

時系列に沿って紹介して行きたいと思います。




1西行


歌を通して崇徳上皇と親しい交友があった僧侶の西行は、

友人として崇徳上皇の霊を慰めた人物です。


もともと、西行は崇徳上皇の母の待賢門院に憧れていたという説があります。

西行は崇徳上皇よりも一つ歳が上なだけなので、

年齢的なシチュエーションは、友達のお母さんと結婚してしまった

野球のペタジーニさんと同じです(笑)。

もちろん、西行の恋は実りませんでしたが・・・


西行は、保元の乱に敗れて仁和寺に拘束されていた崇徳上皇に

身の危険もかえりみずに唯一会いに行った人物でもあります。

やっぱり持つべきものは友達ですね。


崇徳上皇が亡くなって4年後、

西行は崇徳上皇を供養するために建てられた寺の頓証寺を訪れます。


頓証寺は、崇徳天皇が眠る白峯御陵のすぐ横にある

白峰寺の境内の中にあります。

もともとこの頓証寺が発展して白峰寺になったという説があります。

(白峰寺によると、平安時代初期に空海が創建したということです。)


西陣に住んでます-白峰寺

西陣に住んでます-白峰寺

(クリック拡大)


↓こちらが頓証寺の勅額門です。


西陣に住んでます-頓証寺

西陣に住んでます-頓証寺


↑説明板を読むと、後小松天皇が門の字を書いて奉納したようです。

後小松天皇は、あともう一歩で

足利義満に天皇家を乗っ取られそうになった天皇です。

崇徳天皇の「天皇を民とし、民を天皇とする」という言葉の恐さを

最もよく知っている天皇の一人と言えます。


↓こちらが頓証寺殿です。こちらにも左近の桜右近の橘があります。


西陣に住んでます-頓証寺


こちらには日本八大天狗に数えられている相模坊がいます。


西陣に住んでます-頓証寺

西陣に住んでます-頓証寺


説明板では崇徳上皇の守護人としていますが、

崇徳上皇自体が、自らを大魔縁、つまり天狗と宣言していたので

この天狗が崇徳上皇自身として信仰されていた可能性もあると思います。


ところで、崇徳上皇は、百人一首にも句が選定されている有名な歌人です。

讃岐国でも都への思いを歌った句をたくさん残しています。


西陣に住んでます-頓証寺

西陣に住んでます-頓証寺


さて、この白峯を訪れた西行は、いくつかの伝承を残しています。


西陣に住んでます-西行

西陣に住んでます-西行

西陣に住んでます-西行


そして崇徳上皇の残した歌への有名な返歌が↓こちらです。


西陣に住んでます-西行


なお、崇徳上皇が最初に訪れた直島にある崇徳天皇宮にも

西行像がありました。



西陣に住んでます-直島


江戸時代に書かれた雨月物語では、崇徳上皇の怨霊と西行との

ディスカッションの様子が描かれています。

崇徳上皇の心情を推察したかなり興味深いやりとりです。



2後白河上皇


崇徳上皇が讃岐に流された後から、都の周辺では

不吉な出来事が頻繁に起こりました。


このあたりの時代の簡単な歴史を年表にすると次の通りです。


西陣に住んでます-崇徳上皇関連年表


簡単に経過を説明しますと、

崇徳上皇が大魔王宣言をすると、平治の乱が起こって

崇徳上皇の写経を都に置くことを拒否した藤原信西が殺害され、

また、保元の乱で崇徳側を破った藤原信頼源義朝も殺害されます。


また、後白河法皇はガバナンスを失い、平清盛が武家政権を樹立します。

まさに「天皇を民とし、民を天皇にする」の始まりです。

以降、700年もの間、実質的に武家政権が続くことになります。


その後、崇徳上皇の13回忌を迎える頃には、

天皇が若くして崩御するという事態が異常に続きます。

西陣に住んでます-歴代天皇の崩御時の年齢

後白河法皇は別にして、

二条天皇から安徳天皇までホントに若くして亡くなっています。


そして、大極殿藤原氏の邸宅が密集する上京エリアを灰にした大火災、

安元の大火が起こります。


大極殿は、天皇の即位式のためにある最高にオフィシャル奈建築物です。

この構造物が燃えてしまったため、

それまでのように厳格な天皇の即位式ができなくなってしまいました。


まさに崇徳上皇が宣言したような

「天下滅亡」に向かっているような状況です。


後白河法皇を中心とする朝廷は、

崇徳上皇の怨霊がその不吉な出来事を起こしていると思い

このころから崇徳上皇の霊の鎮魂を始めます。


まず、最初に行った対策は、崇徳上皇に諡号(おくりな)を贈ったことです。

諡号というのは、亡くなった天皇につけられる名前です。


ちょっとややこしくなりますが、崇徳上皇の場合の諡号は「崇徳」です。

この記事では、便宜上「崇徳上皇」で通して説明してきましたが、

天皇を退位後には「新院」

讃岐に流されて以降は「讃岐院」と呼ばれていました。

そしてこの諡号を贈られた後にはじめて「崇徳」と呼ばれたわけです。


ここで諡号を与えられたということは、

天皇として正式に歴史に残るということを意味します。

ちなみに天皇に即位したとしても「廃帝」として扱われることもありました。


この諡号というのは、生前の事績への評価をもとにつけられますが、

「崇徳」という諡号はかなり恐ろしい諡号であるといえます。


まず、「崇」(たたり)という字がつけられた天皇を見てみると

・神の崇りに悩まされた第10代崇神天皇

・蘇我馬子に暗殺された第32代崇峻天皇

・淡路に配流される途中で自殺した早良親王に贈られた崇道天皇

・南北朝時代に極めて軽んじられた北朝の崇光天皇

といったように非常に不幸な事態を経験しています。


一方、井沢元彦氏の有名な説があるように

「徳」という字がつけられた天皇も、

孝徳天皇称徳天皇文徳天皇安徳天皇顕徳天皇順徳天皇

といったように非常に不幸な事態を経験しています。


このような観点から見てみると、「崇徳」という諡号が

極めて恐ろしい諡号であることがわかるかと思います。


さて、諡号を贈ったにもかかわらず、不吉な出来事は続きました。

翌年には、治承の大火が起こって、下京を焼きます。
そして後白河法皇はなんと平清盛に幽閉されてしまいます。

そんな中、源頼朝が挙兵して平清盛が病死します。

ちなみに平清盛は64歳と、当時としては長生きしました。

ここでちょっと意外なのですが、

平清盛は保元の乱では崇徳上皇とは逆の後白河天皇側でした。

当然、崇徳上皇の怨霊に悩まされたのではと思ってしまいます。


ところが意外や意外、平清盛は迷信を信じなかったようです(笑)。

いくら崇徳上皇が呪いをかけたとしても、

呪いをかけられた側が何にも感じなければ、

精神的にやむこともなく何ともないわけです(笑)。


さて、この後に養和の大飢饉が発生しますが、

京都では源義仲が平氏を破り、平氏を京都から追い払います。

後白河法皇が安心するのもつかの間、

今度は源義仲が後白河法皇を幽閉します。

後白河法皇としてはもう泣きっ面に蜂です。


この一連の不幸を崇徳の怨霊の仕業と考えた後白河法皇は、

たまらなく、崇徳天皇廟として粟田宮を創建しました。


粟田宮は今は存在しませんが、

保元の乱の戦場となった白河北殿のあたり、

今の京大病院のあたりにあったようです。西陣に住んでます-京大病院


この粟田院は残念ながら応仁の乱で焼失してしまいます。

なお、粟田院にあった崇徳天皇御廟は、現在祇園にあります。


西陣に住んでます-崇徳天皇御廟

西陣に住んでます-崇徳天皇御廟

西陣に住んでます-崇徳天皇御廟


また、この御廟の近くには崇徳上皇を祭神とする安井金毘羅宮があります。


西陣に住んでます-安井金毘羅宮

西陣に住んでます-安井金毘羅宮


この神社、縁切りを祈願する神社です。

↓こちらは、崇徳上皇にちなんだ縁切りの碑です。


西陣に住んでます-安井金毘羅宮

西陣に住んでます-安井金毘羅宮


ところで、平清盛が病死したのは崇徳上皇の崇りのため

と考えた当時の京都市民は、崇徳院地蔵を作りました。


これは現在では聖護院の横にある塔頭寺院の積善院にあります。


西陣に住んでます-聖護院


↓こちらが積善院です。


西陣に住んでます-崇徳院地蔵


崇徳院地蔵はその片隅にあります。


西陣に住んでます-崇徳院地蔵


「すとくいんじぞう(崇徳院地蔵)」が変化して「ひとくいじぞう(人食い地蔵)」

と呼ばれるようになってしまったそうです。


西陣に住んでます-崇徳院地蔵

西陣に住んでます-崇徳院地蔵


粟田宮を創建してまもなくすると、源平の戦いで平氏が滅亡します。

この戦いでは、後白河法皇と平清盛を祖父に持つ

わずか9歳の安徳天皇が入水して崩御しますが、

このときに天皇が天皇であることを証明する三種の神器のうち、

草薙の剣をいっしょに海底に沈めてしまいます。

後白河上皇は

これも天皇継承を邪魔する崇徳上皇の仕業と見たかもしれません。

そして平氏が滅んでもガバナンスは天皇家には戻ってきませんでした。

平氏政権の代わりに今度は源頼朝鎌倉幕府を開きました。

後白河法皇は頼朝から「日本国一の大天狗」と呼ばれ、翌年崩御しました。




3源頼朝

源義朝の子の源頼朝は、当然崇徳上皇の怨霊を恐れたはずです。

讃岐の頓証寺に石燈篭十三重塔を寄進したと言われます。


西陣に住んでます-頓証寺

西陣に住んでます-頓証寺


源頼朝は、弟の源義経源範頼を殺害します。

源頼朝の子の頼家北条氏に暗殺され、

同じく子の実朝は頼家の子の公暁に暗殺され、将軍家は滅びます。

ここに崇徳上皇の宿敵の源義朝の直系も滅びたわけです。


当時の人がこの状況を見たら崇徳上皇の祟りだと思ったことでしょう。



4後鳥羽上皇


源氏の将軍家は滅びましたが、ガバナンスは相変わらず

天皇家には戻らずに、北条政権が確立しました。

後鳥羽上皇承久の変を起こしますが、見事に失敗して

武士の北条義時に流されてしまいます。


このことは大きな意味を持ちます。

なんと上皇が民間人に流されてしまったわけです。


まさに「天皇を民とし、民を天皇とする」が実現しました。


その後、後鳥羽上皇は生霊になったとされます。

承久の変の後、天皇家の寿命も極めて短くなりました。

西陣に住んでます-歴代天皇の崩御時の年齢


5後醍醐天皇


後醍醐天皇建武の中興も長続きしませんでした。

時代は南北朝時代に突入し、足利尊氏足利幕府を開きました。

まんまと足利尊氏にとって代わられた後醍醐天皇は

怨霊になったと言われています。


太平記巻二十七「雲景未来記事」に興味深い記事があります。


京都の愛宕山白雲寺で、名高い怨霊の
崇徳上皇淳仁天皇井上皇后後醍醐天皇筑紫八郎為朝
と仏教の高僧達が集まって、天下を乱すミーティングをしたというのです。

このときの崇徳上皇は明らかに怨霊のリーダーで、

まさに日本の大魔王の面目躍如です(笑)。


ちなみに、足利尊氏が後醍醐天皇の霊を鎮魂するために建立したのが、

嵐山天龍寺と言われています。


武士の時代は江戸時代まで続いていきます。



6孝明天皇と明治天皇


幕末、天皇家にガバナンスが戻るチャンスが到来しました。

時は、元治元年、崇徳上皇の死から700年が経過しようとしていました。


孝明天皇は京都に崇徳上皇の霊を呼び戻そうと、

西陣の地に白峯宮を創建することを決定しました。

このプロジェクトは、

孝明天皇のブレインの中川宮朝彦親王が推進したようです。

また、「元治」という年号は「保元」と「平治」を連想させるということで

すぐに改元されたと言われています。


慶応2年には白峯宮の造営がはじまります。

ところがここで孝明天皇が急死してしまいます。

後を継いだのは14歳の明治天皇で、

慶応3年に王政復古の大号令を出します。


ここで、明治維新に向けてドラマチックな状況が生まれます。


まず、慶応4年8月17日、

明治天皇は8月27日に即位する(天皇就任を宣言する)ことを発表します。

そして、その翌日、白峯宮を創建したことを発表します。

この後、古式に従って

伊勢神宮天皇陵に即位することを報告する使いを送るのですが、

注目すべきは8月26日です。

8月26日は、崇徳天皇の式年祭の日で、

明治天皇はこの祭に合わせて讃岐の白峯に勅使を送り

崇徳天皇の御陵の前で祝詞を読み上げさせたのです。


祝詞の内容はまったく祝詞ではなく、明らかに謝罪文です。

その要旨は次の通りです。


保元年間に起きた一連の忌々しい事は、本当に哀しみの極みでした。

孝明天皇の遺志を継ぎ、京都御所の近くに新しい宮を造りましたので

どうぞ都にお戻りいただき、天皇と朝廷を末永くお守りください。


そしてこの祝詞が読み上げられた翌日の8月27日、

明治天皇は京都御所で即位しました。

つまり、明治天皇と中川宮は、何よりも崇徳天皇の式年祭に合わせて

即位の礼のスケジュールを決めたわけです。

700年も待ち続けた真の王政復古を実現するためには、

どうしても崇徳上皇と和解しておかなければならなかったのでしょう。


崇徳上皇の神霊は9月6日に京都の白峯宮に到着しました。

おそらく9月7日に明治天皇はこの到着を確認されたと思われます。

というのも、9月8日になんと年号が明治に改元されたからです。


西陣に住んでます-崇徳上皇関連年表


このように明治維新の陰には、

このような途方もなく長期間のドラマがありました。


↓こちらが白峯神宮です。


西陣に住んでます-白峯神宮


境内には、もちろん左近の桜右近の橘があります。


西陣に住んでます-白峯神宮


社殿の中には崇徳上皇の自画像が祀られてます(現在は複製だそうです)。

↓こちらは欽仰碑です。


西陣に住んでます-白峯神宮


境内には、保元の乱をともに戦った源為義為朝親子を祀った

伴緒社もあります。


西陣に住んでます-白峯神宮



7昭和天皇


昭和15年8月1日、白峯宮は白峯神宮となります。
ちなみに天皇が認める神宮は全国に25社しかありません。
京都では、平安神宮白峯神宮新日吉神宮の3つだけです。

実はこの1週間ほど前の昭和15年7月26日には

大東亜共栄圏の建設が閣議決定されたのですが、

昭和天皇は、この実現を崇徳上皇の神霊に祈られたのではと推察します。


そして、崇徳天皇800年式年祭の1964年9月21日には

昭和天皇が白峯御陵に勅使を送られました。

翌月の東京オリンピックが無事に開催されたのは疑いもない事実です。



以上、またまた長くなっちゃいましたけど、

崇徳上皇が長期間にわたって

多くの歴史の主人公のマインド面に少なからず影響を与えていることが

わかるかと思います。


西陣にいらしたら、ぜひ白峯神宮を訪れてみてくださ~い!