日本の大魔王 崇徳上皇-1 | 西陣に住んでます

日本の大魔王 崇徳上皇-1

西陣に住んでます-崇徳上皇




京都の朝廷は、身内の死、天変地異、大火事などの不吉な事が起きると、
政争のプロセスで非業の死を遂げた皇族貴族怨霊となって
そのような凶事を引き起こしていると信じていました。


これまでに、井上内親王早良親王菅原道真など

多くの怨霊の存在が信じられてきましたが、
そんな怨霊の中で、最高のパワーを持っていたとされるのが、
「日本の大魔王」といわれる崇徳上皇です。


崇徳上皇ゆかりの地は、パワースポットのブームの中、
どこも一級のパワースポットとして人気があるようです。


ところで私、


この夏に幸運にも(笑)崇徳上皇ゆかりの地を旅する機会に恵まれました。


そこで、これから3回にわたって、
崇徳上皇ゆかりの地を、その数奇な歴史を交えて紹介したいと思います。


[日本の大魔王 崇徳上皇-1]
[日本の大魔王 崇徳上皇-2]
[日本の大魔王 崇徳上皇-3]


まず、第1回目は保元の乱と崇徳上皇です。


崇徳上皇は、平安時代後期の1119年に、
鳥羽天皇藤原璋子(待賢門院)との間の第一皇子として生まれました。


当時は院政の時代でした。


天皇はパワーがある間に皇位をリタイアして太上天皇上皇)となり、
自分の思う通りの皇子を天皇に即位させて
治天の君(最高権力者)として完全に権力を握っちゃうものです。


これは白河天皇があみだしたシステムで、
藤原氏が天皇のおじいちゃまとして行った摂関政治の代わりに、
元天皇が天皇のパパまたはおじいちゃまとして
藤原氏に邪魔されずに政治を行うというわけです。


具体的には次の系図を見て下さい。


西陣に住んでます-院政期天皇家系図


白河天皇は白河上皇となって、
堀河天皇・鳥羽天皇の上に立って政治を行いました。
同じように、鳥羽天皇は鳥羽上皇となって、
崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の上に立って政治を行いました。


さて、崇徳は鳥羽の第一皇子ということになっていますが、
これは表向きのことで、実際には白河と藤原璋子の間に生まれたいう話が
「古事談」とよばれる鎌倉初期のスキャンダル専門のエピソード集(笑)

に書かれています。


西陣に住んでます-院政期天皇家系図


この場合、鳥羽にとって崇徳は息子ではなく叔父になり、
鳥羽は崇徳のことを「叔父子(おじご)」と呼んで嫌ったと言われています。


鳥羽と崇徳の中の悪さを考えれば、私はこの話はあり得ると思います。


崇徳は鳥羽上皇の院政のもとで5歳で天皇となりました。
居住したのは、里内裏(臨時の内裏)の土御門殿ということです。


西陣に住んでます-土御門内裏

西陣に住んでます-土御門内裏

崇徳が20歳を過ぎると、鳥羽は、崇徳に天皇をリタイアし
崇徳の腹違いの弟(母:藤原得子)で崇徳が養子にした

近衛(2歳)を天皇にして、崇徳は上皇になるよう提案を持ちかけました。
このことは、天皇の父である崇徳上皇が
鳥羽上皇に代わって治天の君となって院政を行うことを意味します。


そして、崇徳はこの提案に乗って天皇をリタイアしました。


ところがここで衝撃が走ります。


鳥羽はオフィシャルな文書で

「皇太弟」の近衛が天皇に即位すると宣言したんです。
これは崇徳の子(養子)の近衛が天皇になるのではなく、
崇徳の弟の近衛が天皇になるということを意味します。
ということは、院政を行うのは近衛の兄の崇徳ではなく、
近衛の父の鳥羽ということを意味します。


一方、崇徳上皇の母の藤原璋子は、

近衛天皇の母の藤原得子を呪わせたという嫌疑を受けました。

璋子は出家して待賢門院となり、↓法金剛院で暮らします。

西陣に住んでます-法金剛院


さて、鳥羽上皇にまんまとダマされてしまった崇徳上皇ですが、
その後に近衛が若くして亡くなったため、またチャンスが回ってきます。
今度は、自分の息子の重仁親王を天皇に即位させて
院政を行うチャンスが得られたわけです。


そんな中、鳥羽が天皇に即位させたのは、
新し物好きで遊びに明け暮れていた崇徳の弟の後白河です。
一見、おかしな人事ではありますが、
鳥羽にとって崇徳が本当の息子ではなく、後白河が本物の息子だとすれば
極めてリーズナブルな判断といえます。


そして崇徳はブチ切れました。


まもなくして鳥羽が死去すると、

崇徳と後白河は対立を深めて保元の乱へと進んでいきます。


このころ藤原氏にも世継問題でトラブルがあり、
崇徳には藤原氏メインストリームの藤原頼長
後白河には頼長の弟の藤原忠通がそれぞれ味方になりました。


西陣に住んでます-藤原氏系図


そして、両陣営は武士を雇います。
崇徳側は平忠正源為義源為朝親子を
後白河側は平清盛(忠正の甥)と源義朝(為義の息子)を
それぞれ味方につけました。


西陣に住んでます-源平系図


なお、平清盛は実は白河天皇の息子という説があります。

かな~りややこしくなりますが(笑)、
平清盛が仕えたのは兄かもしれない崇徳ではなく、
甥かもしれない後白河ということになります。
いずれにしても白河天皇はさすがです(笑)。


そして保元元年の7月、保元の乱が起こりました。

崇徳側の本陣は白河北殿、後白河側の本陣は里内裏の東三条殿です。
後白河は高松殿にいました。


西陣に住んでます-保元の乱関連京都地図


7月10日未明に源義朝は白河北殿を急襲しました。


れっきとした天皇経験者が直接軍隊に攻められたのは、

おそらく古墳時代以来の出来事ではないでしょうか・・・

(壬申の乱の大友皇子のケースはビミョ~ですが)


崇徳はまさか相手が攻めてくるとは思っていなかったようです。


戦いの様子は↓こちらのスクリーンに描かれています。

昔のこういった絵には、雲が描かれていて見にくくなってますが、

建物が白河北殿、真中の川が鴨川、奥の山が大文字山です。


西陣に住んでます-保元の乱


白河北殿跡は今、京都大学の学生寮の熊野寮になってます。

↓ちなみに2文字が行方不明のようです(笑)。


西陣に住んでます-白河北殿跡


ハシッコにひっそりと石碑があります。


西陣に住んでます-白河北殿跡


↓こちらは藤原氏のメインストリームの本拠地があった東三条殿跡です。


西陣に住んでます-東三条殿跡

西陣に住んでます-東三条殿跡


後白河天皇は↓高松殿で戦況を見守ってました。


西陣に住んでます-高松殿跡

西陣に住んでます-高松殿跡


7月10日未明に始まった戦いは、なんと朝には勝負がついてしまいました。


白河北殿が炎上し、崇徳上皇は敗走を始めました。

まず東山の如意山に逃れてから、紫野を通って

弟が住職を務める↓仁和寺に逃れました。


西陣に住んでます-仁和寺


ただ、まもなく7月13日には後白河に拘束されてしまいます。


後白河は崇徳を讃岐へ流すことを決定しました。


そして10日後の7月23日には仁和寺から崇徳の護送が始まりました。

天皇経験者が流されるのは、淳仁天皇以来400年ぶり2度目です。


迎えに来た粗末な車を見て上皇の奥様方はめちゃくちゃ泣いたそうです。

鳥羽上皇の墓への挨拶も許されず、

鴨川桂川の合流点から屋形舟に乗せられ、

外から鍵を掛けられちゃったようです。



・・・というわけで、

天皇経験者が軍隊の攻撃を直接受け、

捕えられて流されてしまうという事態は、まさに異例なことでした!


この後、舞台は讃岐国に移り、日本の大魔王が誕生することになります。

続きは来週です。