誰かを、何かを「信じる」と言う時。
その対象のあらゆることをすべて丸ごと100%に達していないと、「信じる」とは認識されないんだろうか。
私には、そういう規定が無いので。
信じている部分と、全く信じていない部分…というものが、同一の対象に対して普通に共存しているので。
不可知の領域がある。
それは、己のことでも、存在する。
ましてや、それが他人であったり、もっと大きなものだったら…不可知の領域がどれほどあるのか…ということすら想像の埒外になる。
なのに、その埒外なことまで含めなければ信じる…と言えない。
そんな規定をしたら最後、私には、永久にナニモノをも「信じる」などは、存在しなくなる。
丸ごと100%っていうのは、そういうことだろ?
それとも、その想定が、そもそも違っているのか??
自然に、勝手に、ここまでは大丈夫だ…と切り分けているんじゃないのか?
それを意識している(しようと試みたことがある…程度でも十分)か、無意識か…というだけの話なんじゃないのだろうか。
その相手を信じる…という感覚が確かにある。
同時に、次の瞬間には、想定外のその相手の側面を見る可能性もあり、その時それを「よし、そこもOK」と思えるかどうか…っていうのは、その時になってみなきゃわからない。
そして、「いや、この部分は私にはNG」となった時に、相手への信頼感にどの程度影響が出るか…というのも。
その時にならないと、わからない。
信頼感に影響…というのも。
そんなカンタンではなく。
その相手を信頼したら、その事実…その時のその「糸」は、切れることはない。
後から、その人の側面の中に自分にとってNGである、という面を見たとしても。
だから、ある意味「損なう」ことなど、無い…とも言える。
しかし、現実には、その側面と「共に行動する」ことが自分には無理になる…ということは、起こりえる。
相手への信頼が損なわれたのではなく、行動規範にズレが生じた…と…いう感じ。
そのズレが大きくなれば、「つきあえないな…」ということも、起こる。
ただし、そうなっても、その人への信頼が損なわれたわけではない。
まして、失ったわけでもない。
第一の基準は、自分の中にある。
OKの領域と、NGの領域。
その境界は曖昧ではあるが、皮膚感覚としてはかなりハッキリしたものがある。
私は…だけど。
OK領域の中にあれば、仮にそれがどんなにきわどくギリギリのところであっても、「大丈夫」と言える。
そのズレは違和感になったり、もやもや感になったり…として、感じられるけれども。
だからと言って、そのことで相手との交友を断とうとは思わない。
しかし、ズレがNG領域に及んだ時は…。
その時は、相手への「信頼」よりも、「好意」が、その後の自分の判断を分ける。
…時も、ある…というべきかも。
見えない世界に対する見方も、これと同じだ。
「確固として信じている」と「全く信じていない」は、同居する。
見えない世界は存在する。
しかし、そのあり方を「こうだよ」と伝えてくれる他人の伝聞は、ほとんど信じてない。
自分の感覚も。
何かを感知しているということは、間違いないのだけども。
それが何か、ということは、本当に、実は全然、信じていない。
表現手法として、後ろの誰かさんという設定を「設定している」…と、いうことだ。
まあ、周りに居てくれる「見えてる」「感知できてる」その精度が高いなと、私にも感じられる…という人達は、おおむね、そういう私の「設定している設定」を共有してくれたり、裏打ちしてくれたり…してくれる。
で?
私の「設定している設定」が、私の中でだけ成立するものである、として。
でも、絵には、どうやら、何らかの一定の「エネルギー」が確かに定着してる…らしい。
そのように、思えるし。
周囲の人も、そのように思えている様子がわかる。
もちろん、全然そんなの無い、デタラメにも程ががある!
と思う人もいらっしゃるだろう。
それは、想定の範囲だ。
だって、私にも、失礼ながら他の方の言動を「はぁ?そんなん、ナイナイwww」と鼻で笑っちゃうようなことが、あるのだから。
自分もそう感じられることは、そりゃあ、あるだろう。
それこそ「相性」ってものだろうし。
第一、私は、「何か定着しているように思える」ということが「希望的希望」だということも、十分に承知しているし。
対象への疑問
それが存在することと、不信とは、同じではない。
疑問はあるけど不信ではない。
相手を信じる、ということを、疑問を持ったらダメ、と、考えてないだろうか。
そういう規定があると、信じるのは非常に難しいものになるような気が…私には、そう思える。
疑問を持たない、なんてことは。
私には、およそ、不可能に近い。
信じることも、不可能になってしまう。
それはちょっと…つまらないね。
疑問とは、単純に、「わからないこと」であって。
わからない、ということに、負の感情をくっつける必要はない。
長い期間わからないままが続いたとしても、それは、それ。
だからもう信じない!…となってしまう意味が、私には、よくわからない。
対象の性質…人なら、その人の根本的、本質的な部分について信頼でき、好感も持てるなら。
あちこちの側面に、理解できないことや違和感や、疑問があったとしても、別にかまわない。
行動規範は、ズレがNG領域に達していないなら、そのまま、一緒に行動する時は行動する。
NG領域にズレこんだ部分が自分にとって「無理」な部分に及んでいれば…行動は、一緒にはできなくなる可能性はある。
けれど、その場合でも、別に相手に対して不信だらけになるとか…それはまた、別問題だ。
一冊の本を読んで、その中に出てくる登場人物には、非常に好きな者もいれば、とっとと出番がなくなればいいのにと思うような自分にとって嫌な者もいるだろう。
一人の人間の中にあるたくさんの面も、それに似てる。
物語の本質を好きならば、嫌な登場人物がいたって、全体を好きであることに変わりはないはず。
私にとっては、信じることも、そういう感じで、いろんな面に対してそれぞれのケースが適用される…というにすぎない。
見えない世界のことも、そういう感じ。
こういのって、そんなに、わかりにくい感覚かなあ????