残虐!! 成都の「死ね死ね団」伝説─張献忠と「七殺碑」


  清末のジャーナリスト傅崇矩著『成都通覧』(1910年の著)は、外地の人向けの成都生活案内書で、森羅万象すべてを記した成都百科事典です。「成都之怪談」の条は、民間信仰に関わるとても奇妙な「べからず集」で、これも生活指南の一部だから面白いです。



写真:
張献忠家廟内の張献忠像(四川省北部綿陽市梓潼県七曲山大廟後聖宮傍風洞楼内)(出典:HP『相動百科』「張献忠家廟-位置簡介」)
http://www.baike.com/wiki/张献忠
家庙

 


  その中に「成都県の張献忠の書くところの〈七殺碑〉は拓本をとるべからず」との、奇妙な一条があります。

  張献忠(ちょうけんちゅう・1606-1646)は、明末清初に大西(だいせい)を号した流賊です。陝西延安衛の出身。反乱軍の首領の高迎祥(こうげいしょう)の下に投じ、李自成(りじせい)とともに反乱軍を率いました。

  しかし、李自成が1644年北京を占領して大順(だいじゅん)を国号とすると、天下統一の名目を失って、武漢・成都と、本拠地を移し、清朝との対峙と陝西への帰還をもくろみます。最終的には清軍に敗れて射殺されます。

  

  張献忠は、四川統治の期間、内部引き締めで多くの臣下を粛清し,やがて自分の物は自分で壊すという奇妙な決意をして、四川の領民を虐殺して流血の無人の野とした人物です。

  民心を失った人物ですが、それ以上に民衆が逃散してしまうという、四川で破れかぶれの大虐殺をつづけた人物として知られます。魯迅も取り上げて「殺人のための殺人」と揶揄する人物です(「晨涼漫記」『准風月談』『魯迅選集』第10巻)。


  臣下も良民も麻を断つかのごとく殺しまくる張献忠と、彼の率いる大西軍が世にまれに見る「死ね死ね団」と化していたのです。


  中国史にまれに見るその暴虐ぶりは、清初の彭遵泗著『蜀碧』(平凡社の東洋文庫にあり)に記されていますが、うわさや伝聞も含んでいます。その後の張献忠の残暴ぶりが喧伝される背景には、清代に清軍の四川占領のあとの虐殺も張献忠の所為にした部分もあるでしょう。その経緯は、浅見雅一氏の論文「教会史料を通してみた張献忠の支配」がもっとも正確な研究と見解ですので一読お薦めします(『史学』第五十九巻第二・三合併号、1990年)。


  松枝茂夫先生の訳で少しその暴虐ぶりを引用してみましょう。気分が悪くなりますよ。

  「また偽って武科挙を実施した。このとき、民間で馬を養うことは禁止されていたが、集まった武生を馬場に集合させると、もっとも兇猛な軍馬ばかり千余頭を引き出して騎乗させた。そして武生たちが馬にまたがるや、兵士たちがどっとはやしたて、大砲を打ち、銅鑼太鼓を打ち鳴らしたので、馬は狂奔して、乗手を振り落したうえ、泥となるまで踏みにじった。これを見て賊は手を打って大笑するのであった」。

  「太医院に古くから伝わる銅人(針灸の基本となる経穴の小孔をうがったブロンズ製の基準人体模型)があったが、賊は紙をかぶせて穴を隠し、医師たちを集めて針術の試験をした。そして一針でも刺し違えた時はその場で殺したので、医者はたちまち死に絶えてしまった」。

  話を戻して「七殺碑」とはなにかというと、この名は、魯迅も書き記す「殺殺殺殺殺殺殺」の七つの「殺」(殺せ)文字を記した殺人起請文のようなものだと、民間では考えています。つまり一種の「死ね死ね団」伝説で、七殺碑だから縁起が悪いので、拓本を採っては血塗られると考えられているわけです。



  じつはこれは大西皇帝の張献忠の発布した民を教化するための聖諭(せいゆ・皇帝の勅諭)で、「人無一物与天、鬼神明明、自思自量」(人は一物として天に与るはなく、鬼神は明明として、自い思い自ら量るべし)を石碑にして官署(かんしょ)に石碑を立てたものです。



  1934年に、イギリス宣教師が四川の成都東北方の広漢でこの碑文を発見していますから、元はれっきとした民衆教化の碑文であったことは確かです(著者未記載「張献忠“屠蜀”的真実真相:七殺碑背後的争議」
2007年2月6日HP『歴史的天空』原載、China.com転載テクス)。


  しかし民間ではこれを虐殺の忌まわしい記憶と結びつけて伝説化しています。



   伝説化した文面は以下の通りです。


   「天生万物與人、人無一物与天、殺殺殺殺殺殺殺」
(天は万物と人を生み、人は一物として天に与るはなく、殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ)

  これは張献忠の殺人正当化のイデオロギーとして理解されていて、「創造主の天が万物と人に恩恵を与えているのに、被創造物の人間は無駄に天に対して貢献しないから、殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ・・・」というスローガンとして訳することができます。

  七字の「殺」字を連ねた部分は、中国対句の対聯の形式で、上の句「天生万物与人」、下の句「人無一物与天」として、その題記である「横披」を「殺殺殺殺殺殺殺」としたのだという風聞もあって、そう考えると体裁は納得できます。

  当時の成都の宣教師は、大西軍が領民を殺し尽くして屍体に溢れ、無人の野になったことを報告しています。(イエズス会宣教師ガブリエル・デ・マガリャンイス(Gabriel de Magalhāes、漢名:安文思)がローマに書き送った1647年5月18日付の報告書)。

  大西皇帝の張献忠と、大西軍が中国にまれに見る「死ね死ね団」で、内部崩壊必然の殺戮をしたらしいことは事実のようです。

  「四川の人間はまだ死に尽くしておらぬのか。おれが手にいれたのだから、おれが滅ぼしてしまうのだ。ただのひとりでも他人のために残しておきはせぬぞ」(『蜀碧』松枝茂夫訳)というゆがんだ心性がもたらし、誰も制止する者がいない、組織内とその統治下での内向した殺人の連続は、事の性格は違いますが、日本でも連合赤軍の内向きな粛清事件がありますが、そうした心性のありかたともどこか通じるかも知れないですね。

  ちなみに人々が殺されるか逃散して、無人の野と化した四川を復興すべく、清朝は四川への移民を奨励します。ですから、四川は清代以降の新しいフロンティアであった面もあります。

  四川方言が新しい移民の共通語としての性格をもつのはそのためです。

  このとき、長江南部の江西省などの内陸部から移民してきた人たちで、江西人や客家人が四川各地に多いのはそのためです。鄧小平主席や朱徳元帥の先祖もそうした移民です。

参考文献 

傅崇矩(著)『成都通覧』成都・成都時代出版社、2006年

彭遵泗・王秀楚・朱子素(著)・松枝茂夫(訳)1965年『蜀碧・嘉定屠城紀略・揚州十日記』平凡社

魯迅(著)・増田渉・松枝 茂夫・竹内 好(編集・翻訳)1956年『魯迅選集』全13巻、岩波書店 

浅見雅一(著)1990年『教会史料を通してみた張献忠の支配』『史学』第五十九巻第二・三合併号http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php?file_id=59260

Archivum Romanum Societatis Iesu,Jap.Sin.127,ff.1-35.Relação da perda e destruição da Provincia e Christandade de Sù chuēn,e do que os Padres Lus Bulhio,e Gabriel de Magalhães passarão em seu captivero. (上記浅見雅一氏が引用する原文)

著者未記載「張献忠“屠蜀”的真実真相:七殺碑背後的争議」
2007年2月6日HP『歴史的天空』原載、China.com転載テクス
http://culture.china.com/zh_cn/history/yeshi/11036692/20070206/13923933.html