天使の降り立つ島
─金門島の洋館上の「双天使」像
・(中国的天使のカタチを眺める・その1)
(台湾金門県金沙鎮王金城邸・金城鎮黄輝煌邸)



  教会の「天使」像(東方正教では「神使」)のほかに、世間でみる天使像の1つに、洋館装飾での天使像があります。アジアで見ることができる西洋建築での人物塑像は、この他、たとえばフランスで多用される女性頭像があり、これはヴェトナムでのコロニアル建築にも窺えます。この種の優美な女性像は、ホーチミン人民委員会庁舎や、ドンコイ通りのオペラハウスなどで見ることができます。


図1.王金城邸双天使像(向かって左)


  天使像は、しかし東南アジア華人社会の邸宅やショップハウスには、意外に少ないのです。ところが、帰郷華人の島である金門島は、邸宅の天使像が随所にみられます。
   ミルクバター色の柔肌の天使たちが息づき、平安を運ぶ洋館は、金門島の建築物の西洋趣味を雄弁に語り出し、故郷に錦を飾る自慢のシンボルともなっている観があります。
  金沙鎮后宅村の王金城(おうきんじょう)邸(浦山里后宅2号)は、帰郷華人の建てた典型的な洋館です。王金城はインドネシアで財を築き、帰郷して1932年この洋館を建てました。中華民国暦で、民国二十一年です。

図2.王金城邸双天使像(向かって右)

図3.后宅村王金城邸

   ここには、インドのシク教徒兵士の「狛シーク」とインド人「狛用人」の他に、左右に「双天使」さまがいらっしゃいます。
 
   無彩色ですが、柱頭上に器用に載る天使さま、品が宜しい朗らかさです。

   ところで、金門島で、天使像がもっとも集中しているのは、金門島西部の金城鎮水頭村です。

   王金城邸宅の双天使像によく似た、漆喰造り・無塗色の双天使さまが、防衛用の望楼である得月楼(とくげつろう)の隣にある黄輝煌(こうきこう)邸の中央ペディメントの両脇におられます。黄輝煌は、インドネシアで財を成した華人です。1931年(民国二十)の建築で、棟梁は福建省南安県の工匠の、陳南安と、近くの古崗村(ここうむら)の大工の手になるものです。

図4.黄輝煌邸双天使像(向かって左)

図5.黄輝煌邸双天使像(向かって右)

図6.黄輝煌邸中央ペディメント

   ペディメントの意匠は、次のような構成です。
時計=勤勉を表す
書巻=西洋風書巻装飾
果物=葡萄・パインナップル
植物=薔薇
動物レリーフ=双獅
メダリオン=鮑形徽章紋+建築年代表記(民国二十年)(メダリオン上に年
代表記を刻むことは、華人邸宅で時折見られる)
両脇の望柱上の装飾=トロフィー
双龍=「双龍奪珠」の意匠
柱頭=コリント式
  黄輝煌邸と隣接する洋館「紫雲衍派」(しえんえんは・黄姓の堂号)でも、中央両柱頭の上部にも、双天使さまはおられてます。こちらは彩色されて、ふっくらとした顔立ちで、眉目秀麗です。



図7.「紫雲衍派」邸双天使像(向かって右)

図8.「紫雲衍派」邸双天使像(向かって左)

図9.「紫雲衍派」邸
  得月楼前の金水小学校の正面ペディメントも、双天使像があります。こちらは元の私立小学校で、金門県第二区金水小学校で、水頭村の黄姓の宗族(そうぞく=男系血族集団)子弟のための学校です。ひまわりのような、子供たちの希望に満ちた花咲く中央のメダリオン、それを羽ばたいて支えるお二人の愛らしい天使。なんと学校に相応しい、と教員である私は、思わず胸を打たれるものがあるのです。

図10.金水小学校の正面ペディメントとメダリオン・双天使像


   天使さまが降り立ち、翔び回る金門島、その美しい洋館の街並みは、激しい砲撃戦を伴った金門島と対岸との軍事的緊張(1958年から1979年の米中国交樹立まで、中国人民解放軍による砲撃はつづく)にもかかわらず、今でも美しく保たれています。それはこの島に降り立ったたくさんの天使さまの加護があったかに見え、奇蹟そのものにも見えるのです。

図11.金水小学校正面立面(コメント欄)

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「羽根つき童子」だった中華天使 
 ─
台湾竹塘老街の街屋上の天使像
(中国的天使のカタチを眺める・その2)
(彰化県竹塘郷竹塘街詹姓街屋)




     台湾の日本統治期の民間の街屋にも、「天使」像(東方正教では「神使」)はあります。ただし、私の知る事例は少ないので、一例のみの紹介です。

   台湾中部の彰化県にある竹塘老街(彰化県竹塘郷)の、竹塘街・和平街が出会う交差点にある、詹(漢語:チャン・せん)姓の街屋(竹塘街58・60号)は、ペディメント(山頭)中央に「詹」字を円形図案化した紋様を置きます。詹姓は竹塘の代表的な姓です。戦前の昭和期の街屋と思われます。

  それを左右で支える天使像は、中国化されたデザインです。これは一見天使というより、紅頭紅身の中国童子に見えます。しかしながら、背中には明確に白い羽根が生えているのです。


図1.中華天使像

    竹塘郷は蘆竹(アシ)が生い茂った低湿地であったため、近隣の内蘆とともに内蘆竹塘という地名となり、大正九年(1920)に竹塘郷となっています。清代 雍正年間に入植したのは、広東東部潮州府饒州県の人たちでした。従って広東系住民(台湾では客家系と呼ばれる)が多数を占める土地です。


図2.中華天使像のある竹塘街詹宅

  住民の奉じる醒霊宮(関聖帝君を主神とし、孔子も祭祀)には、反古紙を処分する焼却炉「惜字炉」(せきじろ)があり、その点北部の桃竹苗地区や南部六堆地区での台湾南部・北部の広東系住民居住地区に共通する特徴もみられます。


図4.竹塘老街和平街の街景


   日本統治期には、林本源製糖によるサトウキビ生産が盛んとなり、林本源鉄道の製糖鉄道が敷かれ、駅も置かれています。これにより、駅前から市街化が始まり、南北に現在の竹塘街が形成され、商業店舗が集中し、東西に現在の和平街である竹塘庄役場と公学校に至る市街が出来、住宅や東端の二つの池塘近くにある太岳病院などが出来ています。


図4.斗六鎮太平老街華翠商行の童子像

  なお、竹塘郷の詹姓は潮州饒平県出身で、苗栗県の山地部の卓蘭鎮の詹姓と出身地を同じくしています。「狛ブタイヌ」のおわす継述堂の詹氏宗祠の宗族と、家系図上一致しています。



     彰化県の南隣の雲林県にある斗六(漢語:トウリュウ・とろく)鎮の太平老街(雲林県斗六鎮太平路)では、中国童子を擁した類似のペディメントをもつ街屋があります。年代としてはこちらが古く、大正期の街屋と思われます。

     華翠商行(太平路91号)は、明治四十一年(1908)築という斗六太平街最古の現存街屋の源興号と隣接します。倣バロック式2階建て、3開間の統一した立面をもつショップ・ハウスです。ペディメント(漢語:山頭)の三角枠内は頂部に白鷹が翼を拡げる「展翔宏図」(てんしょうこうと)の様式です。


図5.斗六鎮太平老街華翠商行=向かって左から2番目・向かって左端は、最古の明治末期の源興号

本統治期の「官煙売捌所」の文字がそのままに遺ります。ペディメントに2人の童子が魔除けに円鏡を持つ姿は、微笑ましいほど中華的図案で、この図案に目を止めない者はいないというくらい効果的です。竹塘老街の天地像は、この童子像の影響を受けているかもしれません。華翠商行の脇、左右棟のペディメントも太極八卦図案としていて、引き立ち効果があります。




  それでこちらの童子をみますと、腰の着衣のカタチ、帯のカタチ、そして頭上に支える時計の円形、そこから下がる紐のかたち、すべてが似ています。



  ですから、こちらがオリジナルで,大正年間のこの街屋のデザインを、昭和年間の竹塘の街屋上の天使像が模倣したことは、ほぼ間違いないと思います。  


   しかし、困ったことに、
こちらの大正期のオリジナルの方に、時計の上に鳩がいるのですが、こちらは羽根か生えていないから、天使ではないのではと思います。しかし、鳩をこうやって落として表現するのは、精霊の鳩みたいです。鳩時計だからという雰囲気でもないです。童子の上に鳩が座すポジションは、たしかにカトリック的で、もともとの図像がもう一ひねりして、カトリックから来ていたら、これは興味深いのです。

   
 図6.斗六鎮太平老街の街並

   斗六の太平老街は、私が台湾でもっとも好きな街並の1つです。斗六門のロータリーから郵便局横の永福寺まで、太平路の600mの老街は長さもさることながら、その密度でも台湾随一といってよい充実した老街です。しかも大都市斗六市の中心街が、かくも貴重な倣バロック式騎楼街であることが凄いことだと思うのです。

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   斗六の街は不思議な魅力があります。市街にもかかわらず、媽祖宮の古い祭祀を遺し、大正期前後の倣バロック式の街並・昭和期のモルタル騎楼街の街並があり、3段に区切って楽しめる歴史的街並のパノラマを堪能することができます。


   東洋人の天使、とりあえず二人は発見です。しかしそれにしても、人数少なすぎます。これじゃあバランスとれません。

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「狛南蛮」の系譜


1.孔子廟石柱に彫られた「朱儒」としての西欧人
(広東省佛山市禅城区祖廟博物館)

   19世紀中葉のアヘン戦争(1840-1842)は、中国人にとっては大いに屈辱でありました。その後もアロー戦争(1856-1860)・清仏戦争(1884-1885)などの戦争も続き、西欧列強が中国で蚕食(さんしょく)や、朝貢国への宗主国の権限の喪失が続くと、中国でも西欧人を描いた石彫が出てきます。

図1.台座を持ち上げる朱儒洋兵像─持ち上げ力士像の系統の1つといえるでしょう 

   この種の外国人像は、じつは、中国北方の石獅では、獅子の上に西域系の胡人(こじん)が騎る「胡人騎獅」(こじんきし)タイプの石獅があります。


    明代以降に中国北方で流行し、陝西省では家門の左右に立てる馬を繋ぎ止める拴馬桩(せんばしょう)に、胡人騎獅像タイプがよくみられます。

    また、皇帝陵の外国人使節団の彫像も、中国での外国人彫像の1つの系譜といえます。

    そして、今回の台座を支える朱儒力士像は、インドから中国を経由して、日本にまでつながる彫像です。


    FB『狛犬さがし隊』で、増田隆さんから、奈良の薬師寺の国宝薬師三尊の台座(白鳳文化期)の浮彫の力神は蕃人と呼ばれているとの御教示があり(2014年11月5日藤田智久さん投稿記事のコメント)、また、奈良県は桜井市の高龗神社の狛は力士支えであるとの御教示がありました。



    また、この種の朱儒力士は、現在スリランカにも多数遺ることが藤田智久の投稿で示されています(2014年11月5日投稿)。



   ですから、朱儒力士は、インド経由で、中国に来ています中国では、南宋乾道元年(元年1165年)以前建造とされる福建省北部莆田市城厢区広化寺の釈迦文仏塔や、福建省東部の閩侯県青口鎮蓮峰村の宋代建立の蓮峰石塔にも、台座を支える朱儒力士がいます。山西省南部の陽城県潤城鎮の屯城村東嶽廟の基部は、7位もの朱儒力士の支えがあります。これも南宋と対峙した金代(1115-1234)の泰和戊辰年(1208年)ものです。

 


図2.このように3座の柱石があります

    胡人像は漢代にはあり、彩色陶器の唐三彩(とうさんざい)の胡人騎馬像などもあり、とくにシルクロードの往来が盛んだった唐代に流行する胡人像の流れを汲むものといえそうです。


図3.コウモリとともに踊る洋兵



図4.朱儒的南蛮力士です。
   そのような流れを踏まえた上で、アヘン戦争以降の中国近代の幕開けとともに出現した西洋人像と、西欧植民地下の華人以外の人物(インド人など)を、以下見ていきたいと思います。これが魔除けの番兵として、門の左右にあるものを、「狛南蛮」(こまなんばん)と呼ぶことにいたしましょう。



図5.コウモリとともに踊る洋兵

   広東省佛山市の古廟である祖廟(漢語:ズーミャオ・そびょう)は、玄天上帝(げんてんじょうてい)を祭祀するとともに、博物館施設として、様々な文物を廟堂の境内に展示しています。

図6.サーベル抜いている将校さん


   ここには19世紀後半の文廟(ぶんびょう・孔子廟)の大成殿(たいせいでん・孔聖殿)の柱石が展示されていますが、西欧人を描いています。

図7.こちらも洋兵さん



   これは、孔子廟の伝える「偉大」な中国の歴史伝統の中で、西欧人を矮小化し、「朱儒」(しゅじゅ・背がたいへん低い人)として描いたのであるかも知れません。展示された3つの柱石のうち、中央の柱石に彫られた、台座を踏ん張って両手で支える西洋人の姿は、朱儒そのものという印象を与えます。つまり、創作の世界での、一種の「精神勝利法」(魯迅『阿Q正伝』の言葉)であるような感覚を感じます。


図8.ご婦人、可愛いです。


   異人像は、台座を持ち上げるカタチで両手を挙げ、両足を踏ん張っています。ですから、力士のイメージです。この持ち上げる小さな力士像、スリランカの上座部仏教寺院で、たくさん寺院建築の基部や柱台にも、見られます(FB「狛犬さがし隊」藤田智久しさん2014年11月5日投稿記事)。仏教圏でも見られるカタチのようです。


   小さな力士の異人さんです。じつはこの台座もちあげの力士としての異人像、現代台湾でのインド人のシク教徒像にまで続きます。おとろくべき持続力です。


   異人さんたちの間に、龍を浮き彫りにし、異人さんを押さえているかに見ます。
両脇の柱石の異人像は、間に大きなコウモリも描かれて蝙蝠=福の縁起を担いでおりますね。
    しかし、それはそれで、これらの柱石は、製作そのものを楽しんで彫っているようにもみえ、楽しそうです。広州の「出島」みたいな島、外国人居留地、沙面(漢語:シャーミィエン・さめん・ただし外国人の出入りに制約はありません)の西欧人軍人・淑女を描いていて、それはそれで、物珍しさから彫ったともいえます。明治の錦絵での外国人などの描き方とも通じるのでしょう。

   堅苦しく考えずに、楽しんで見るのも、一興です。

 

  こうもりとともにいる南蛮さん、なんかみんなジェンカ踊っているようにみえるんですよね。

2.タイ・マレーシアの狛洋兵と狛シーク
(タイ王国ワット・アルン・マレーシアペナン島華人博物館)
  
   FB「狛犬さがし隊」に最初に投稿したのが、マレーシアのペナン島の邱公司(クーコンシー)の本殿上にいるシーク教徒の形象でした。この本殿は20世紀初頭に再建されたものです。福建系の邱一族の祖霊を祭祀します。   

図版9.ペナン邱公司の「狛シーク」(向かって右)


   現代にみる門を守る外国人兵士像は、ペナンの邱公司のインド人衛兵(シク教徒)とか、タイのバンコクはトンブリー地区ワット・アルンの狛洋兵とがありますが、アジアで門番としてときどき彫られる異人兵士像も、門を守る「狛胡人」(こまえびす)の系譜に連なるエトランゼとしてみることもできると思います。

図版10.ペナン邱公司の「狛シーク」(向かって左)


   イギリス植民地で、兵士となったインド人兵士、祠堂の台上左右を守るのは、インド人で、「狛天竺」(こまてんじく)の衛兵です。

図版11.ペナン、プラナカン・マンションの狛鉄騎兵(向かって右)




   ターバンを巻いているのは、シク教徒で、「狛錫克」(こまシーク)ともいうべきです。シク教徒は、ムガール帝国以来勇猛果敢で知られます。






   英国植民地でも兵隊となっているので、実績を買われて邱公司の私兵に採用されました。
   お二人ともパンジャーブ地方がご先祖さまの出身地ですが、現地で誕生しているので、二世と三世です。左手の衛兵はひげを生やしてサーベルを持ち、ほくろまであります。右手の衛兵はひげがない若い兵士で、左右違う像です。




   シク教は他宗派を改宗させて布教するので、じつは邱一族を儒教から改宗させようと心の中ではいつも考えているのです。


   ペナンでは,もう1ヶ所、ペナン・プラナカン・マンションという代表的な(マラッカ)海峡華人の19世紀末豪邸の豪邸があり、こちらの正門には、左右に鉄騎兵のような西欧装甲兵が門番となっています(ただし現在では正門の裏に一対で置き、表ではないです)。これなど、西欧から輸入していますが、富豪が高笑いで、「どんなもんだい、ヘヘン」という感じで狛南蛮を設置しているかのような余裕を感じます。

図版12.ペナン、プラナカン・マンションの狛鉄騎兵(向かって左)


図版13.ペナン、プラナカン・マンションの狛鉄騎兵の全景






   マレーシアから、タイ王国に目先を転じて見ましょう。ワット・アルンは、三島由紀夫の小説でも有名な「曉の寺」です(意味が「曉の寺」)。現在も続くチャクリー朝(ラッタナーコーシン朝・1782-現在に至る)の前の、一代限りのトンブリー朝(1767-1782)の国王タクシン(1734-1782)を祭祀しており、ワット・アルンは、じつはタクシン王の創建になります。

図版14.タイ、バンコク、ワット・アルンの狛南蛮(向かって右)

   チャオブラヤ川対岸のトンブリー地区にあります。目印は日本で建造された海防戦艦トンブリー(1938年に川崎重工神戸造船所にて竣工。1941年、フランス海軍との海戦で擱座する主砲と砲塔は、空母赤城か加賀の撤去砲塔を流用)の大砲とマストの隣です。

図版15.タイ、バンコク、ワット・アルンの狛南蛮(向かって左)



   バンコクでいちばん仏塔が美しいお寺だと思います。

図版16.タイ、バンコク、ワット・アルンの土地祠脇の洋兵像



   タクシン国王は、中国名を鄭昭(漢語:チョンチャオ・ていしょう)といい、潮人系華人です。アユタヤ王朝(1351-1767)滅亡後のタイの失地回復に努め、ビルマのコンバウン朝(1752-1886)の侵攻からタイを守った王です。タクシン王の祭壇前では、タクシン王の太刀を持ち上げて、タクシン王に祈る人々が見られ、また華人の奉納した大提灯も掛けられています。

図版17.ワット・アルンの仏塔



   独立は守ったけれど、フランスからラオスの宗主国の地位を奪われたり、英領ビルマも警戒しないといけなかった、チャクリー朝の立場もありますが、エトランゼとして、洋兵を立てるワット・アルン、これは興味深いです。

図版18.タクシン王の祭壇で、太刀を捧げもち祈願する人

  これは脇の庭園のゲートを守る洋兵さんです。イギリス兵にみえます。このほかに、華人系の土地祠を守る洋兵さんがいます。タイの狛南蛮さんは、表情が明るいですね。向かって左のウイルソン(仮名)は男前だし、向かって右のジョン(仮名)なぜだかどうして、楽しそうにじつに朗らかな青年です。





3.僑郷金門島の洋館の上の「狛シーク」・「狛印警」・「狛用人」
(台湾金門県金沙鎮后宅村王金城邸・碧山村睿友学校)



   東南アジアの華人社会でも、日本の神戸や横浜などの華人社会でも、金門島出身の華人は、数は多くはなく、金門島出身者だけの会館もあまり知りません。
   しかし金門島出身者は、華人社会の有力者には比較的多く、神戸華人社会でも金門島出身者の活躍は目立ちます。金沙鎮山后村下堡の王氏の伝統民家群を造り上げた王国珍と、息子の王敬祥親子は、代表的な神戸在留華人です。王敬祥は、孫文の日本行でも接待しています。

図19.モダンな自転車レリーフ



   金沙鎮后宅村の王金城邸(浦山里后宅2号)は、帰郷華人の建てた典型的な洋館です。王金城はインドネシアで財を築き、帰郷して1932年この洋館を建てました。中華民国暦で、民国二十一年です。

図20.狛シーク(向かって右)


   突出した凸型平面のこの邸宅は、最頂部を円窓でくりぬいたペディメントの基部には「中華民国」と、その下に「廿一年」(21年)と建造年代を誇らしげに大書しています。もちろん同時期の建築では、日本の統治下にあった台湾島では見られないものです。

図21.狛シーク(向かって左)

   
   そして、自転車を颯爽と漕ぐ人物を描くレリーフは、海外のモダンな流行を示して、王金城さんのハイカラぶりを、自慢しているのです。

図22.狛用人(向かって右)

   左右人物像は、ターバンを巻いた「狛シーク」が銃を担ぎ、シク教徒のインド人を番兵にしているのも、ハイカラぶりの優越感に見えます。そして召使いたる「狛用人」たちも、インド人、頭にフルーツを載せています。富豪の王金城さん、インド人、「雇っちゃってんだぞ」とやはり自慢げです。

図23.狛用人(向かって左)



   他の洋館でもこのようなインド人用人は見られるらしく、金城鎮水頭村の得月楼僑郷文化展示館の展示レプリカにも、頭に桃らしき果物を載せたインド人少年の像がありました。インド人が、中国式の寿桃を載せてくるとしたら、やはり奇抜です。



図24.王金城邸




図25.水頭村得月楼僑郷文化展示館のインド人用人レプリカ像



   金沙鎮碧山村の睿友学校(えいゆうがっこう)(金沙鎮三山里碧山1号)は、1936年(民国二十五)の竣工で、南洋で冨を得た陳睿友の名を冠して後人が出資した学校です。

図26.楽しそうな狛「体育小僧」たち


   典型的な倣バロック式洋館です。しかし学校建築らしく、2階壁面と大小3個の窓を組みこんでせり上がるオランダ式のような大型三角ペディメント最上部には、小学生の狛「体育小僧」が、地球儀を中心に、「ハーイ!」とポーズをとっています。明るいひょろなが生徒さん、組で手を振っています。



図27.狛印警(インド人警官)(向かって右)



   生徒さんの直下には、巨大な国民党国旗である「青天白日」旗が交差します。華人が資金から兵士まで高い代価を払って苦難の道のりで成功させた革命は、中華民国への愛と思い入れで染め上げられていたのでしょう。


図28.狛印警(インド人警官)(向かって左)


図29.睿友学校正面立面



   ペディメント両端は、なんと左右に英国植民地統治の治安維持に雇われたインド人警察官が笛とラッパを「ピーヒョロ」「プップク」吹いておりまして、音が対になっているという、とても楽しい学校です。海を越えた世界を知っている、開放的な帰郷華人の精神の息吹を感じるのです。こんな学校で学びたいと、教員の私ですら、ついつい思ってしまうのでした。

図30.睿友学校ペディメント


4.台湾の狛南蛮─スペイン人・オランダ人・シーク力士
(台湾台南市安平区文朱殿・苗栗県竹南鎮中港城慈裕宮)


   竹南鎮の古い城壁都市「中港城」の面影を街路構成に遺す民生路・迎薫路界隈は、モルタル商店街の昭和の香りとともに、古刹の媽祖廟である慈裕宮(民生路7号)があります。初建は南明永暦十五・1661〈鄭氏政権の元号に合わせる)、清末の道光十八年(1838)に現地に再建しています。廟前広場(「廟埕」・漢語:ミャオチョン)左右に和灯籠・石橋も和風です。廟の門殿左右の柱頭上には、西洋人の彫像があります。
 


図31.竹南鎮慈裕宮のスペイン人像(向かって左)



   これはスペイン人とオランダ人で、台湾島を北部を占領したスペイン人(1626-1642・台湾北部淡水のサン・ドミンゴ要塞を本拠地とする)と、台湾南部を占拠したオランダ人(1624-1662・安平のゼーランジャ城と台南のプロビンシャ城を本拠とする)を描いています。台湾の歴史的回顧を意図した洋人の形象です。なお、日本統治期の日本の名残りは、殿内石柱の菊花紋様の彫刻にみられます。

図32.竹南鎮慈裕宮のオランダ人像(向かって右)

   この彫刻は、西洋人を前に出し、内部を家塾での礼や、堂内での礼を描いた中国な礼の世界を描いています。そして、とってつけたような鼻の西洋人は、そっぽを向いています。



   この構図について、FB「狛犬さがし隊」での投稿で、Yukiko Takeharaさんがいうには、「西洋人にはわからないYO!」と、後ろの中国人が歌っているんだ、と解釈されていました。

   礼の世界と、礼とは無縁の西洋世界を書いていると考えると、これは風刺しているのでしょう。

  たしかにそういう趣きで、礼の世界と無縁の西洋人を、風刺を込めて描いていて、けっして西洋人に対して、リスペクトして彫られた彫像ではないという気がします。

  やはり西洋人に心底敬意をもったりしないというプライドを、中国系の人たちはもっているのだと思いました。



  また、「当時お会いしてたらどんな感じだったでしょう」(Yukiko Takeharaさん)ということですが、これは、オランダ占領時代だったら、東インド会社だから、こんな麗しい女性は、そうとう上級の人のおくさんしかいませんから、明らかに時代には合わない表現じゃあないかなとおもいます。紳士の恰好も同様です。スペイン人も、そういう事情は同様で、こんな紳士の恰好はしていないと思います。
 

  漢人の移住民を酷使するだけ酷使するのは、バタビアと同じで、どうもオランダ人の統治は、地元に無関心で優しくない感じがします。1652年には、漢人郭懐一らの反乱、というのもありました。


  
  なお、松本邦裕さんの、同投稿のコメントで、台北龍山寺の大香炉も、西洋人が力士として支える場面ということで、この種の南蛮力士像は台湾にもいろいあります。
  



図33.竹南鎮慈裕宮



    鄭成功の根拠地であった台南市の安平区の安平老街では、媽祖さまを祀る天后宮近くの文朱殿(ぶんしゅでん)は、李大王・朱千歳(りせんざい)・孔大帝が主神です。近隣のコミュニティー海頭社(社=伝統的コミュニティー)の廟です。清代初期、この地の信者が神のお告げを受け、海から流れてきた香木をまつり、李大王を祀ったという縁起があります。

図34.台南市安平区文朱殿狛シーク(向かって左)


    近年新しく再建されているのですが、不思議なことに、左右側壁柱上部に、シク教徒像があります。台湾は華人社会でもなく、しかも現代のことですから、何故にシク教徒像があるのか、本当に不思議です。台座を軽々と持ち上げるインド人、どうも台座を手で支える中国のヘラクレスである力士をインド人に置き換えたという意図のようです。余裕の彫刻といった感じです。
 

図35.台南市安平区文朱殿狛シーク(向かって右)



  かくて狛南蛮の系譜は、最初にご紹介した広東省佛山市祖廟で展示される孔子廟の西洋人の朱儒力士像とも通じるカタチに戻って、ひとまず終わるのです。
  

図36.台南市安平区文朱殿狛シーク(向かって左)




 しかし洋物の狛人の系譜は、これのみには止まりません。なぜならば、柔よく剛を制するからであります。そこで出てくるのが狛天使です。平安をもたらすこのバタ-の柔肌をもつ天使たち、金門島に多数降臨しておりますが、台湾島では、中華様式に変貌してしまうのであります。これについては追々またご紹介したいところです。

図37.台南市安平区文朱殿狛シーク(向かって右)


図38.安平文朱殿前殿




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中国現代様式のカトリック教会と「中華聖母」さまのご縁起
─中華聖母主教座堂朝聖地
(台湾台南市中西区開山路195号





   日本にも和風伝統建築様式の教会建築がありますが、中国でも、私の居所の雲南大理古城の天主教教会(天主教=カトリック)などは、純中国伝統様式の楼閣建築です。わずかに入り口のソロモン式門柱(ねじり飴のような門柱)のみ、西洋風の意匠です。

図1.慈母園の中華聖母像(上半身)

   ご紹介する台湾台南市のカトリック教会は、「中華聖母主教座堂朝聖地」といい、英語名をOur Lady Queen of China Cathedralといいます。「朝聖地」は聖母巡礼地のことです。なお、日本語の「司教」は、漢語では、「主教」となります。カトリック台南教区(澎湖県含む。信徒数:約8900名)に属し、教区統括の司教座ですので、「主教座堂」との名称となっています。



図2.教会正面立面






   場所は、鄭成功(ていせいこう・1624-1662)を祀る延平郡王祠(えんぺいぐんおうし)の斜め向かいにあります。



図3.慈母園の中華聖母像(全身)







   「中華聖母」さまは、由来があり、マリアさまのご称号の1つです。私は中国現代様式の教会建築としての興味から、この教会に興味をもちましたが、こちらの聖母像は、ローマ教皇庁の認定を受けた聖母像としての由来があり、たいへん興味深いです。

図4.教会内の中華聖母像(トリミングして拡大したもの)





   マリアさまの像やイエズスさまの像が、現地の民族に合わせた形態となることは、大理古城でも、中国人に似たイエズスさまの像があったり、アフリカなどでアフリカ人に合わせた像があるなど、よく見られることでありましょう。こちらの教会では、脇の慈母園にある聖母像は、服装も表情も中国人的なマリアさまとして立てられています。


図5.河北省東閭中華聖母堂の中華聖母像(百度図片より)





   中華聖母さまは、ローマ教皇庁公認聖母像の1つであることが、意義としては重要でしょう。中華聖母さまは、本来の像は、清末の西太后の服装を参考ににて、マリアさまの服装を、天上の元后さまに相応しいように、描いたものとされています。ただし、お顔は,マリアさまとイエズスさまともに、中国風(漢人)のそれではありません。





   中華聖母さまのご縁起は、次のような由来です。




   元々の中華聖母さまの聖母堂は、河北省東閭(とうりょ)村(保定市郊外)にあり、東閭中華聖母堂(とうりょちゅうかせいぼどう)といいます。上海市松江区の佘山扶助者聖母大殿(しゃざんふじょしゃせいぼたいでん・教皇ビオ12世が1942年認定した西洋側からみた極東地域初の二級バシリカ〈basilica=上位指定教会〉)とともに、中国でローマ教皇の認可を受けた2ヶ所の聖母巡礼地の1つです。現在でもゴチック式双塔をもつ、荘重なカテドラルがあります。





   河北省でもっともカトリック信徒の割合が高い村の1つである東閭村は、人口約9000人の内約7000人がカトリック信徒でした。




   1900年の義和団事件で、キリスト教教会や関連者、信徒も義和団の攻撃目標となり、各地の信徒は自衛組織を作ります。




   東閭村の信徒も自衛組織を組織し、義和団の攻撃から村を防禦します。その際、上空に出現したマリアさまが信徒を守ったとの話が広まります。北境使徒座代理区では、北京西什庫天主堂とともに、たった2ヶ所のみ、義和団の被害から免れた教会であり、そのこと自体も、奇蹟的な出来事といえるかもしれません。




   義和団からの被害を最小限に防いだ東閭村のカトリック信徒は、マリアさまの庇護に感謝して、聖母堂を建てるに至りました。その直後、フランス人のP. Flament神父(以下敬称略)が、フランス人画家に、時の西太后の宮廷内の服装をもとに、天上の元后たるマリアさまに相応しい服装の像を絵描かせ、マリアさまが、イエズスさまを抱く像を1908年に完成させました。




   1924年、上海で挙行された第一回中国司教団会議の際、教皇庁の中国駐在代表のCelso Benigno Luigi Cardinal Costantini枢機卿(1876-1958・中国でのカトリック組織の改革者として知られる)が、東閭の中華聖母堂の聖母像を、中華聖母の代表の図像に定め、この場所を巡礼地として公認する計画を進めました。1937年後任の在華代表Mario Zanin神父(1890-1958)により、時の教皇ピウス11世(1857-1939)の認可を受けました。




   台南での中華聖母主教座堂のご縁起は、1963年台南教区の初代司教(教区長)の羅光司教(1911-2004・湖南省の人・後に輔仁大学学長・著作多数)が、みずから場所を選定し、設計案を考え、1964年に竣工。教皇庁の在華公使であるGiuseppe Caprio総司教(1914–2005)によって祝聖されます。1974年に、中華聖母50周年を祝う際、こちらの教会は巡礼地に定められました。




   カテドラル内の聖母像は、ドイツ人修道士のモザイク作品で、河北省東閭の聖母堂の聖母像を元にしています。



   教会脇の慈母園には、中国風のマリアさまの石像があります。1976年、台南の成功大学の馬電飛教授の作品です。こちらが完全に中国風となったマリアさまとなっています。慈愛の表情でおられますね。


図6.教会内部の楼閣下空間

   カテドラルの建築様式は、現代建築の鉄筋コンクリート構造の中国様式で、平面が六角形の中国宮殿様式である上、相似した六角平面の二重楼閣をもち、瓦屋根を多用します。この楼閣内部の六角形の開口部(「藻井」)が、明瞭な光線を祭壇のある堂内中央部に投げかけています。



図7.教会正面エントランス

図8.天主堂匾額(匾額押さえが木刻獅子)


   エントランスは紅色木柱で、「天主堂」の文字を刻んだ匾額(へんがく)と、入り口の「粛静」の木牌などは完全に中国の伝統様式です。「粛静」の木牌は、中国伝統式の廟堂に置かれる立て札に由来します。横梁の彩色は、「双龍朝陽」(そうりゅうちょうよう)の中華風紋様です。しかし葡萄と蔓の紋様を描くものもあります。



図9.「粛静」木牌


図10.「主内合一」と漢語で書かれた司教さまの紋章





   特筆すべき装飾としては、イエズスさまの「十字架の道行き」の最後の復活の場面を除く14の場面(漢語:「十四苦路」)の石彫レリーフがあります。






   祖先の牌位壇(牌位=日本の位牌)があるのは、儒教的な伝統でしょう。告解室の門は中国伝統様式の円形の「月門」(漢語:ユエメン)でした。





   この種の中国現代様式の大型建築は、台湾や朝鮮・満州など、日本統治期や満州国時代のいわゆる「興亜式」(こうあしき)と呼ばれる和風屋根をもつビルディングの数々(台湾では高雄駅駅舎など・日本建築全体では「帝冠様式」〈ていかんようしき〉と呼ばれます)の影響も受けているかも知れません。



   しかしながら、興亜式建築や、フランスのインドシナ植民地の東洋風屋根瓦の構成のインドシナ様式とは違って、上からの政治的意図による様式ではなく、自発的な民族風様式といったものです。ですから、台湾では、道教の廟堂や、仏教寺院にも、同様の現代中華様式の宗教建築が多いです。台湾の人々の好みに合うのでしょう。なお、中国伝統様式の教会は、カトリック台南教区では塩水区(えんすいく)の塩水天主聖神堂があります。




   台南のこの聖母堂は、教会建築としては、慈母園の中華的聖母像も含めて見ると、中華的であるとともに、福建・台湾的であるような現地様式化を徹底して推し進めているといえますが、中国の空の上に降臨したマリアさまを記念した元々の東閭中華聖母堂のご縁起を考えると、あり得る方向性ではなかろうかと思いました。





   台南のこの聖母堂では、「中華聖母」さまは、このご称号とともに、「天上聖母」さまとも呼ばれますが、こちらの呼称は媽祖(漢語:マーズウ・まそ)さまのご神号と同じものです。だだし、媽祖さまとはもちろん宗教的には関連づけれられてはいません。





   しかしいったん民間信仰の世界に立ち戻って考えますと、台湾や東南アジア華人社会を含む福建系の人々の民間信仰世界では、いちばん重要な神さまは、やはり媽祖さまや、南海観音さまなどの女神さまです。これは広東系の人々も同様です。




   平安を与える慈愛溢れる女神さまを希求してきた福建系の人々の想いを考えると、中国人のお顔立ちと服装をされた慈母園の中華聖母さまは、福建系の人々の世界でもっとも望まれてきた伝統的な慈母の女神イメージが投影されているともいえ、台湾のカトリックの信徒さんが、このような女神イメージを、カトリックのなかで巡礼の対象となるマリアさまに見いだすことは、むしろ当然ともいえるのではないかと思いました。



ハロウィン特集・奇妙な狛ブタイヌがいる台日折衷様式の祠堂
卓蘭鎮継述堂の狛ブタイヌ
(台湾苗栗県卓蘭鎮新栄里16号継述堂)            





    昨日はハロウィンでした。FB「狛犬捜し隊」には、こちらの記事を載せればよかったと思いましたが、一日遅れで投稿します。謎の狛ブタイヌです。狛ブタイヌというのも、ハロウィンらしいのですが、向かって左側の狛ブタイヌさまは、カボチャらしき置物が、脇に置いてあるので、ハロウィンなのです。向かって右側の狛ブタイヌさまは、リンゴが置いてあって、西欧のこぶたの丸焼きみたいです。



台湾中部苗栗県の山間部にある卓蘭鎮、木造騎楼街が魅力的です。住民は広東客属系住民が多い街です(台湾での広東系住民は、いわゆる「客家」「客属」を指します)。豊原駅から、バスで1時間半の山間部にあります。



    この狛ブタは、継述堂(けいじゅつどう)という詹(漢語:チャン・せん)氏の祠堂の門柱におります。



   詹氏は卓蘭最大の姓氏で、潮州府饒平県(ぎょうへいけん)を祖籍とします。





    

    正直申しまして、よく分かりません。ブタは入っているのはたしかです。


諸星大二郎氏のマンガに出てくる「犬土」


諸星大二郎のマンガに出てくる「犬土」(げんど)によく似ていて、ブタイヌの姿勢です(諸星大二郎1989『異界録・諸怪志異(一)』双葉社収録「犬土」)。不気味ではありますが、もちろんよい意味で置かれているはずです。

この他に、金獅もおり、お母さん獅子と仔獅がともに見上げる微笑ましい姿勢です。


台日折衷様式の本堂


本堂左右にも台湾・福建南部タイプの石獅がおられます。



こういうの「瓜桶」といいます。擡梁を繋ぐ大型部材です。

継述堂は、光緒11年(1885)の創建で、3回ほどすでに改築されていますが、至今已有約120年歷史の歴史があります。昭和10(1935)年4月の台湾中部大地震で、門楼が崩壊するなどの被害があり、そのときに「志を継ぎ、業を述べる」の意味で、継述堂という堂号がつけられています。




建築の特徴としては、日本の寺社建築同様の入母屋和瓦屋根に、台湾様式の廟堂建築の堂屋との折衷様式であるところに最大の特徴があります。卓蘭鎮を代表する台湾客属系建築といえます。


智和医院


参考文献:台湾文化資産局HP

http://www.boch.gov.tw/boch/frontsite/cultureassets/caseBasicInfoAction.do?method=doViewCaseBasicInfo&caseId=KA09905000013&version=1&assetsClassifyId=1.2

図版説明:図1.図2.図3.図4.図5.図6.図7.図8.図9.図10.図11.図12.






[追記:卓蘭鎮の沿革]



  卓蘭鎮の土地は、大安渓の上流にあり、山地と丘陵に囲まれながら平原をもつ。もとタイヤル族の土地であるが、現在は漢族の族群の内、広東系族群(いわゆる「客家」)が多い。1960年代の人口構成では、広東系訳77%、閩南系約21%の人口構成である。



  清代の雍正元年(1723)の彰化県と淡水庁の設置で淡水庁の管轄地となるが、この年彰化の張万振がタイヤル族の首領と契約して大甲渓上流部の開墾を進めた。卓蘭では大安渓の支流老庄渓両岸に平地原住民の移住があり、従来のタイヤル族に替わっている。平地原住民パサイ族(巴宰族)族(バゼッヘ族〈巴則海族〉ともいう)あるいは平地原住民バハス族(巴哈斯族)の巴登社(Paden)の居住地といわれ、「達蘭」(Tarlen)と呼ばれていたのが、漢人入植後、「達連青」と音訳され、雍正年間には契約文書に「搭連」と記され、広東系住民の発音では「打蘭」(ダーラン)といい、漳州・泉州系の住民が「打蘭」を「罩蘭」(タンラン)の二字を当ててよみ、「罩蘭」を雅名化して「卓蘭」とした。



  乾隆三十七年(1772)には広東系の劉啓東が大甲渓上流で開墾を進めているが、卓蘭でも、嘉慶年間(1796-1820)に広東系の江福龍(江復隆とも、読音は同じ)が、現在の東勢(旧名東勢角)から入植している。卓蘭東北部のタイヤル族との紛糾が絶えず、後に廖似寧に土地を譲り、廖似寧はタイヤル族との共存を図り、講和の上「上新庄」を交易地として交易を進めて開墾の基礎を築いている。なお、鎮内の老庄里が最初の開墾地で、乾隆四十年(1775)が現在に続く入植の最初とされている。当時は台中県の属地であったが、光緒四年(1878)に、淡水庁が淡水県と新竹県に分けられて、新竹県の属地になる。



  しかし当時も原住民の間に紛糾が絶えず、光緒十年(1884)には、大きな衝突が両者との間に発生し、翌年には林朝棟(霧峰林家出身)率いる一万人の清軍(湖南軍)が台湾巡撫の劉銘伝によって派遣され、3年後に原住民側が鎮圧されている。1956年に清軍の戦死者は鎮市街東郊の軍民廟に祭祀され、廟背後に十数基の墓碑が集められている。
 


   清末には台湾府台湾県に属し、日本統治期には明治三十四年(1901)以来苗栗庁に属した。明治四十三年(1910)に苗栗庁の撤廃とともに新設された苗栗支庁下に罩蘭区を置いている。大正九年(1920)以降は罩蘭庄となる。大戦末期の昭和十九年(1944)末に現在の鎮市街北部郊外に内陸の秘密飛行場として卓蘭飛行場が造成されている(沿革については卓蘭鎮公所HPを参照した)。http://www.miaoli.gov.tw/jhuolan_township/normalSingle.pHP?forewordTypeID=0&frontTitleMenuID=2050