弁慶の足跡の仁王像 三木市
![$『Talking with Angels』西洋墓地の天使像と『笑とる仏』 : 写真家 岩谷薫-弁慶の足跡](https://stat.ameba.jp/user_images/20120204/13/kaoruangels/0f/a3/p/t02200146_0425028311773722089.png?caw=800)
さらに、その石仏に気付いた人でさえも、それを地蔵様と紹介してしまい、これも間違い。笑。今でも、ネットや出版物で地蔵と紹介しているケースをよく見かけますが、これは間違った市の案内板のせいでしょう…。
本当は、この石像は仁王さんなんです。
どうしてそう断言できるかというと、当時の古地図を発見したから。
この場所は昔、天歴十年(956年)開基の常蓮寺というお寺がありました。日本史好きの人は、すぐにピンとくると思いますが、三木といえばあの秀吉の兵糧攻めで、有名です。
常蓮寺は三木の統治者、別所氏の菩提寺ということで、三木合戦の折りに焼かれてしまいました。
ファミリーツリーで言うと、墓は根であると、よく言われますが、正に、「根絶やし」の発想ですね。
最近では、ビン・ラーディンさんや、カダフィーさんの死体の場所も解らなくしてるでしょ。あれもちょっと共通するものがありますね。
で、その古地図には、立派な伽藍が描いてあって、その中に、この石像の仁王さんが描かれてあるんですよ。 しかも写真では上半身だけですが、古地図では全身像なんです。戦や近くを流れる美濃川の氾濫などで、半分になってしまったんでしょう。本当なら2メートル以上ありそうな巨像でした。
室町時代の常蓮寺再興のことや、彫りの様子からも、室町時代の仁王さんでしょう。
取材して気付きましたが、播磨には石作りの仁王さんって、ほとんど無いんですよ… 私が知っているのは、北条石仏だけ。年代的に言うと、絶対、「弁慶の足跡の仁王」さんの方が古いので、とっても珍しいものだと思うのですが…
その存在すら、あまり知られていない、悲しい仁王さんです…笑。
(ちなみに、九州地方に仁王の石像は多いみたいですね。)
![$『Talking with Angels』西洋墓地の天使像と『笑とる仏』 : 写真家 岩谷薫-弁慶の足跡](https://stat.ameba.jp/user_images/20120204/13/kaoruangels/af/48/p/t02200146_0425028311773722088.png?caw=800)
で、これが、何故、弁慶の足跡かというと、この石仏の後ろに、自然の足跡のような窪みがあるから…足跡と言うにはエラク、かかとが細いですが… この「弁慶の足跡」という名称も、実は昭和の初期に郷土史家が勝手に付けた愛称………エエエ…!
全国にもよくありますよね、弘法大師のナンタラとか、行基のナンタラとか、弁慶のナンタラとか……。まぁ、それだけ人気があったってことなんでしょうが…笑。
愛称が独り歩きしちゃったんですね…。しかも昭和って、新しいじゃん…。間違った市の案内板もそっちをメインに紹介しちゃってるところが、ちょっと悲しい…。こんな下らない石の窪みよりも、仁王さんの方が絶対貴重なのに…本末転倒…。
![$『Talking with Angels』西洋墓地の天使像と『笑とる仏』 : 写真家 岩谷薫-弁慶の足跡](https://stat.ameba.jp/user_images/20120204/13/kaoruangels/a6/03/p/t02200146_0709047211773722090.png?caw=800)
「跡部」っていう地名も禍いしているのでしょう…でも「跡部」っていう地名も弁慶よりも前についていたんだよ。だから弁慶とは一切関係ナシ…。
この仁王さんは、冬枯れたシーンが似合います。写真の奥の森になったような所が、常蓮寺の本堂があった場所です。奥に行くと、後年建てられた小さな薬師堂と、「常蓮」というように、昔は蓮池だったろう池が3つほどあります。
なんだかこの風情は「強者どもが夢の跡」って感じがしていいです。三木合戦の折りは、ここは猛火に包まれていたんでしょうね…。 この仁王さんもその炎に照らされたことでしょう。
仁王さんの詳細なお顔は写真集で見てね。
![$『Talking with Angels』西洋墓地の天使像と『笑とる仏』 : 写真家 岩谷薫-弁慶の足跡](https://stat.ameba.jp/user_images/20120204/13/kaoruangels/b5/20/p/t01890283_0189028311773722087.png?caw=800)
この仏には飯田とう隠(「とう」という漢字がフォントに無いので。写真集にはちゃんと漢字表記したよ)さんのこの言葉を添えました。
●『只今をみよ。久遠が今となって来ているのじゃ。尽未来を知らんとせば今を見よ。今が伸びて行ったものが未来である。
五十六億七千万歳の弥勒も今のわれらが別名じゃ。』
『槐安国語堤唱録』
飯田とう隠さんは、カッチョイイ。東大医学部を次席で卒業しながらも、当時のコレラでの大量死を見て、医学だけでは根本的に人を救えないとして、医師として開業しながらも禅の道に進んだ人。
『笑とる仏』の最後のシーンなので、初めの布袋さんの歌と呼応するようにしました。
ちなみに市の案内板にある三草の戦いって、このリンクの上三草の近辺だと思う。
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