過去の文芸誌を整理していたら、海外の作家はよく、自作を自分で読む朗読会を催している、という記述を見つけた。新作が出たらプロモーションの一環としてやったりするんだそうだ。
前に見たときは、ふうん、としか思わなかった。でも今は、ああそれ、わたし、いつか(近いうちに)するんだろうな、と思った。そう考えたとたん、目の前がすっと開けた気がした。今とつながっている未来が見えた気がした。
文章講座で最後に受講生のみなさんに自分の作品を読んでもらったときに、びっくりしたことがあった。紙の上に書かれているエッセイは標準語の文章なのに、読み始めたとたんに、関西のことばに変容したのだ。単語ひとつとってもイントネーションが全然違う。日頃聞きなれているはずなのに、こんなにも驚いてしまったのは、わたしはその作品を脳内で標準語で再生していたからだった。
同じ文章でも読む人によって再生のされ方が違う。だから作家が朗読する意味があるんだと、そのとき思った。