朗読ユニットTREES vol.2 公演用の台本が仕上がったので、本番に向けて本格的に始動なのです。ものすごーく大好きな作品になりました。もう早く上演したい。三次元化したい。今回は何の作品かといいますと。
太宰治「斜陽」なんです。
太宰ね。ダメなお人だなあとか、文もゆるいなあとか、子供みたいなこと言ってるなあとか、いろいろ呆れながらも、やっぱわたし太宰好きなんですなあ。太宰の世界が。朗読劇として成立するように構成しなおすのは難しかったけれど、書いている間はとても楽しかった。
稽古もとっても楽しいだろうなあ。うっとり。太宰の文は発音するととても面白い。不思議な言葉だ。平たく言うと、アニメみたいな。独特の世界観がある。
わたしのやりたい朗読劇は、ラジオドラマのようなものではない。生身の人間が目の前で、登場人物のひとりになって言葉をしゃべるから。でも、演劇ではない。三次元小説とでもいいましょうか。登場人物同士の会話もあるけれど、ひとりで朗々と語るシーンも必ず入れる。そのシーンは小説の文章を楽しんでもらうパート。なので、メンバーは「役者」ではなく「ナレーター」。まあ、役者もできるマルチなナレーターさんなんですけど、アイデンティティの問題ですな。わたしも劇作家ではなく「小説家」としてメンバーにいる。
前も書いたけれどオペラに近い。オペラには劇の進行をつかさどるパートと歌を聴かせる部分がある。(だから昼ドラ的というかメロドラマ的というか萌えがあるというか、ゆるさがあるというか、そういう話が合うのかもしれない。最初は芥川龍之介の「藪の中」をやろうとしてたんだけど、どうしても、やりたいイメージができなくて変えてしまった。)
原作は文豪の小説を使う。本当は自分で書ければいいんだけど、わたしはまだ、読みあげに耐えうる文章を書けない。文豪の手ほどきがいる。それにやっぱり小説のよさがつまっている名作を伝えたい。残したい。
以上がすべて、小説の面白さを普段あまり読まない人にも伝えたい、というコンセプトに対する解なんです。
そんな思い入れがつまった作品なので、超力作。自信作。お楽しみに。
で、今日、ひとりで自分のパート読んでみたら、ものすごく難しくて、出番多くて、焦りました。まだ日にちあるし。がんばります。本業ちゃうやろってまたあきれられるけれども。
公演は2014年12月14日の午後くらい。京都の元立誠小学校特設シアターです。映画館ですが、映像ではなく生身で演ります。わたしは台本だけでなく、出演します。かず子さん演ります。よろしくお願いします。
------------------
と、この件は一緒にやってくれるお仲間がいるおかげで、うろうろ迷いながらも引っ張ってもらって導いてもらってつついてもらって前に進める。
でもいま、わたし、小説と人生の迷子だなあ。わたしには太宰みたいなの書けないし。というか、まあ太宰みたいな生活破綻者とはほど遠いし。人の裏とか見ないし。すぐに人を信じて疑わないし。なんかまっすぐすくすく育ってきてしまったし(おかげさまで)。あんまり苦労してないし。人には好かれるけれど、そもそも小説家が人に好かれてていいんでしょうか。
わたし小説家向いてないんかな。
それともわたしに向いた小説のタイプを探さなくてはいけないのか。
本を読みまくったらいいのか。いろんな経験をしたらいいのか。あちこちいろんなことをやらないで、部屋にこもって小説を書きまくればいいのか。
でもたぶん違う。
性質っていうのはなかなか変わらない。命がなくなったかと思うほどショッキングな悲劇が振りかからない限り。
本を読んでいたらこんな言葉が出てきた。
「あなたがいまいる場所で、もっているもので、できることをしなさい」
セオドア・ルーズベルトの言葉。
いまわたしがやっていることに、何の意味があるのか、よく分からない。やってて楽しくて、一緒にやってくれる人がいて、見に来てくれる人がいる、という現状だけ分かっている。
わたしが憧れている文学者や小説家に、いまのままでは届かないことも分かっている。
いまいる場所で、もっているもので、できることをすればいいのだったら、わたしの味方は、「時」だ。
もしかしたら、わたしの書きたかった小説は10年後なら書けるかもしれない。いくらぼさっとしててもあと10年も生きてるうちにいろんなことがあるだろうし、老けて、若いときみたいにちやほやされなくなって、見えてくるものもあるだろうし、10年間してきたことが何らかの形で花開くかもしれない。
時だけが味方だ。小説家はアイドルみたいに年齢制限とかないので、そこはよいですな。迷ってもいいのかも。10年迷い続けたら今よりはどうにかなっているんじゃないか。
なんて情けないこと言ってないで、小説も書かなくてはね。途方に暮れて、目の前の仕事を片付けながら、ぐらぐらしている。そんなとき、朗読で声を出すのは、とてもいい。体があることを思い出させてくれるから。