続;第18回 古今亭寿輔 ひとり会 (+第12回 「九雀・一知の落語道楽」) | 落語・ミステリー(もしくは落語ミステリー)・映画・プロレス・野球・草バンド活動のよもやま話、やってます。好きな人だけ寄ってって。

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鎌田善和です。売れてない分時間はありますので、遅まきながらブログ始めました。記事は落語やミステリーが中心ですが、映画・野球・プロレス・草バンド活動(野球でいう草野球の事)もリストアップしておきます。気になる、興味がある、と思う人にだけ伝われば。

 さて今日は、寿輔師匠の『釣りの酒』から書く予定だったのですが、その前に、お恥ずかしい限りではありますが、昨日僕が書いた、浅学ゆえの軽はずみな内容について訂正をせねばなりません。それは、圓満師匠の『骨皮』についてのくだりです。
 僕が昨日書いた『骨皮』についての要旨は、①この噺をやる落語協会の噺家さんはいないのではないか?②何故この噺から通しで『金明竹』をやってくれないのか(その方が『金明竹』が活きるし、きっと面白いはず)?というものでした。それを大声で言い張っている(もっともブログ上のことですからね、大声かどうかは分からないと思いますが、でもあの書きっぷりなら、そうと察しが付きますよね)んですから、始末に悪い。実は昨晩、僕の、浅学の裏付けしかなかった知識だけが詰まったスカスカの頭の上から、きっちりと冷水を浴びせかけられたんです(と言っても”例のアピール”ではありませんからね、次の3人の指名はしませんけれど)。
 昨晩、僕の準フランチャイズとも言うべき道楽亭で、ほぼ4か月ぶりに”九雀・一知の落語道楽”の12回目が開催されました(余談になりますが、次回は来年の1月5日との事です。今年に入ってから、急激に開催頻度が下がっているんです。もちろん、師匠の本場所である繁昌亭のスケジュールや、他に色々企画されている会でお忙しいのは分かっていますし、そういう師匠の成功は喜ぶべきなのでしょうが、正直に言わせて貰えれば、せめて2か月に1回くらいは師匠の落語を生で聴きたい~打ち上げ付きで~というのが我儘な本音です)。久しぶりなんで、僕はイソイソ出かけました。この会は、会場に入った時点で、あらかじめこの日の演目を書いたチラシが戴けるシステムになっています。昨晩はそのチラシに、1席目に前田一知さんが『金明竹』をおやりになると書かれていました。なんという奇遇でしょう。自分がブログに書いたその日の夜に、その演目が聴けるなんて!昨晩は打ち上げにも参加することにしていましたんでね。ちょうど良いタイミングなので、さっき書いた要旨2点を打ち上げの席でお2人にぶつけてみようと思いながら、開口1番の『金明竹』を聴き始めました。マクラから本編に入るや否や冷や汗が出ましたね。だって、演目に『金明竹』と書かれたその噺が『骨皮』から始まったんですから(この日の高座についてはまた改めて詳しく扱くつもりですので、今日のところは『金明竹』にだけ触れることにします)。もっともこの噺の小僧さんが”少し抜けている”のを分かり易く表現するのに「お店の前(オモテ)の掃除をする際には土埃が立たないように水を撒きなさいと注意されたのを、2階を掃除する時に生かす」という演出をするというのは充分にあり得ることですからね、そういう演出かもと思っていたらトンデモナイ、完璧な『骨皮~金明竹』という通しになっていました。やっぱりこれ、そうすると相乗効果でより面白い(特に、この小僧さんの”人となり”がはっきりしていますからね、ことづけに現れた上方者との遣り取りもそうなるのは自明の理です。いきなり留守を任された”おかみさん”だって、こういう小僧さんを預かっちゃって平然としていられる大らかさをお持ちなんですから、いきなり上方弁で捲し立てられても分かる筈はないし、よく分からないことづけを何度も言わせるしたたかさもお持ちの人だというのも分かる。第1、旦那さんがこの2人に留守を預けて外出せねばならない事情というのが実に自然です。噺が何の澱みもなく流れていきます。だから、僕が思った事は当たっていたんですが、それ以前のお恥ずかしいことに、おそらくこの流れで僕は、『金明竹』を聴いているんです。というのは、前田一知さんの師匠は九雀師匠でして、その九雀師匠が昨年の8月に第8回の”九雀・一知の落語道楽”で『金明竹』をおやりになっているんです。一知さんが『骨皮~金明竹』の流れでおやりになった以上、九雀師匠も同じ流れでおやりになったに違いないんです。その時にそれを聴いた僕は、とにかくあの”上方弁の早口な言い立て”の部分に感じ入ってしまっていて、それ以外にはあまり頓着していなかったんでしょう。もしくは、噺があまりに自然に流れたんで、構成に気付きもしなかったのかもしれません。それが、たまたま圓満師匠の高座で単独の『骨皮』を聴いてしまったが故に、逆にそれを意識するあまり、昨日のブログのような発言になってしまったんでしょう。これは”落語”に対しても失礼ですし、九雀師匠にも失礼な話でした。本当に申し訳ありませんでした。ちなみに、打ち上げで九雀師匠にお伺いしたところ、上方では繋げておやりになるのがごく普通(途中で時間が無くなって『骨皮』になってしまうということはあっても)だそうです。こうなると、ますますこの噺についての僕の記憶は当てになりません。落語協会でもおやりになる噺家さんはいらっしゃるのでしょうし、東京でも噺家さんが繋げておやりになったこれを僕が聴いている可能性は充分にありますね、そういう意識をしなかっただけで。
 いや~、あまりに恥ずかしい思いをしてしまったので、今日は言い訳に終始したブログになってしまいました。こんな状態のまま寿輔師匠の高座を、したり顔をして語る訳には行きませんので、今日のところは、反省しつつこれで終えたいと思います。寿輔師匠の高座については、次のブログで。