両親のところで「題名のない音楽会 」を見た話を書いて後回しになってしまったですが、

風雨で大荒れだった日曜日は両親宅から池袋の東京芸術劇場へと廻ったのでありました。


読響 の演奏会だったのでして、プログラムの冊子を見ると2月の頭ころには

辻井君がソロを弾くベートーヴェン のピアノ協奏曲第1番が組まれている演奏会があったようで、

「題名のない音楽会」で「エンペラー」抜粋を聴いた直後だけに「聴き逃した…」感強し。


とはいえ、聴きに行った当日のプログラムも捨てがたいものであったわけで、

なにしろモーツァルト のセレナード第13番K.525とマーラー の交響曲第7番でありましたから。


読売日本交響楽団 第184回東京芸術劇場マチネーシリーズ


ここでわざとらしくモーツァルトのセレナード第13番K.525などと書きましたですが、

これはもっぱら「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」という名で知られている曲。


そしてマーラーの7番シンフォニーは全5楽章のうち、

第2楽章、第4楽章に「ナハトムジーク」という言葉が添えられていることから

全体を「夜の歌」てな呼び方をすることがあるわけですね。


要するにこの2曲には「Nachtmusik」(夜の音楽)という関連性があるというプログラミング。

ではありますが、モーツァルト奏でるところ、マーラー描き出すところの「夜の音楽 」は

実に対照的ではありませんか。


「アイネ・クライネ」を聴いて思い浮かべるのは、宮廷の夜会のような雰囲気でしょうか。

特にこの時は第2楽章が普通に聞かれるよりも早めのテンポであったことが尚のことというか。


ゆっくり演奏されるのも「品がある」ように思うところながら、

うっかりすると聴いていてこっくりしてしまう…てなことになりがち。


お偉いさんがたくさん集って、雅な見かけの裏側で権謀術策うごめいているやもしれぬときに

居眠りしてたら、後にどんな謗りが投げつけられるか分かったものではありません。

ですので、少しきびっとするのには早めのテンポがぴったりくるなと思ったものです。


と、モーツァルトの方はこんな「いかにも」な情景を思い浮かべて聴いていたですが、

マーラーはといえば、同じ夜会でもアルトゥール・シュニッツラーの「夢小説」の世界のような。

(映画「アイズ・ワイド・シャット」と言えば分かりやすくなりましょうか)


ただ、これは雰囲気の点であって、この長い曲のイメージを辿るには

アレクサンドル・ソクーロフの「エルミタージュ幻想」に結び付けてもいいかもです。

(夜の情景ではないですが、もっぱらエルミタージュ美術館内で陽光の下でないものですから)


作品全体をワンカットで撮るというテクニカルなこだわりで、美術館内を滑るように移動していく。

どの展示室も同じように煌びやかで変化がないようでいながら、個々の装飾の違い、

そしてもちろん展示された美術作品の違いは見落としようがないという、

同じなような違っているような世界が延々と続くわけです。


これがマーラーの、おちつくようでおちつかないままに

メロディーがどんどん遷移していくさまと結びつくなと感じたのでありまして。

まあ、「夜の音楽」といってもいろいろでありますね。


それにしても、マーラーの7番、演奏する側にとっても聴く側にとっても難しい曲でありますなあ。

確かに読響の演奏も力の籠もった快演であったと思いますけれど、

マーラーの含みを演奏によって描写する力、そしてそれを聴き取り読解する力、

いずれにもそれがも少しあったらなと思うのでありました。


そうそう、今回7番を聴いたことで生で聴いたことのないマーラーの交響曲は8番のみ。

「千人の交響曲」とも呼ばれる巨大編成のこの曲、聴ける日がくるでありましょうか…。


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