ちょっと早いかなぁと思いつつも、第九演奏会を聴いてきたのでありますよ。

これから何公演か続く読響の第九、幕開けとなる公演の年間会員ですので致し方なしですが。


読売日本交響楽団 第182回東京芸術劇場マチネーシリーズ


年末に第九を聴くことに何の思い入れもありませんで、

「またか」の印象さえあるものの(…と毎年末に同じことを言っておりますなあ)、

読響で12月分の演奏会はおよそ決まって第九だものですから、

毎回変わる指揮者によって披露されるところの聴き比べくらいに思っておりますよ。


で、2015年の第九は上岡敏之の指揮によるもの。

以前、同じ読響の演奏会で上岡ブラームス に接したことがありますけれど、

毎度「何かしでかす」と予測される上岡タクトから紡ぎ出されたブラームスには

「ほお!」と思ったものがありました。


ということからしても、当然に「第九やいかに?」となるわけですが、プログラムノートには

これまでの演奏でのテンポの速さが紹介され、また本人が語っていわく

「僕が一番嫌いなのは、『定番』と言われるような演奏です」とあることからして

聴く方としてもいささか身構えるわけですな。


予想通りに第一楽章のっけから速めのテンポですいすい進み、

しかもオーケストラが(多少すかすかなの?と思えるくらいに)見通しのよい響きであると共に、

楽器ごとのフレーズの浮き立たせ方が独特だものですから、

ときに「第九ってこんな曲?」と思えてくることも。


傾向は最終楽章に至っても大きく変わることなく、何より「え?」と思いましたのは

「かくももったいぶらない演奏ってあったっけ?」ということなんでして。

例えばですが、歓喜の合唱がひと頻りの盛り上がりを見せて、

調も拍子も変わって行進曲になるところでしょうか。


ここんところの合唱の盛り上がりは、聴く側を「感無量」の淵に浸りこませるため?

溜めというか、引き延ばしというか、そうした演出効果がなされる場面ながら、

これをぶちっと切って間髪入れずにマーチが始まる。


いやあ、歌舞伎で言えばお決まりの掛け声タイムを待ち構えていたところが

あまりにすっと場面転換されて肩透かしをくったような感覚ともいえようかと。

ですが、これはこれであまりのもったいぶらなさをむしろ潔いとも思えるような。


こんなことから翻って「第九」演奏の「定番」的なところを考えてみますと、

どうやら伝統的に「第九」は「かくあるべし」といった思いが入りこんでいたのではなかろうかと。

ベートーヴェンという、交響曲の世界に次々金字塔を打ち立ててきた作曲家の、

その最後の交響曲ともなれば当然にして重厚長大、荘厳にして感動的であらねばならん的な。


となれば、いかなる演出を施せば、聴き手に対してより荘厳に思えるか、

より感動を与えられるか、そんな観点から演奏が磨き込まれてきていたのやもしれませんですね。


で、ここには「最後の作品だから」という思い入れが働くところながら、これも考えてみれば、

結果的にベートーヴェンはその生涯で第九までしか交響曲を残さなかっただけであって、

ともすればさらに交響曲を書いていたかもしれないということなんですね。

そうなると、「ベートーヴェン最後の」という特別意識は次の曲に譲られて、

現在「第九」が纏っている特別な存在感は多少なりとも減じていたかもしれない。


だからといって「第九」の価値そのものが減ずるわけではないですけれど、

もしかたら「第九」の演出史も違ったものになっていたとも考えられますし、

そうであれば今回のような「もったいぶらなさ」も自然な一形態であったのかも…。


てなことを思いつつ、残りわずかになってきた2015年を振り返ったりするのでありました。


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