新橋の、というか汐留の旧新橋停車場歴史展示室 で開催中の
企画展「温泉と文芸と鉄道」を覗いてきたのでありまして。


「温泉と文芸と鉄道」展@旧新橋停車場歴史展示室

弘法大師 が発見したとの謂われを持つ温泉は全国にたくさんあり、
またそこまで古くなくとも山梨 には「信玄 の隠し湯」なんつうのがあちこちにあり、
要するに効能の言い伝えとともに温泉の存在は相当に古くからあったのでしょうね。


日本に限らず、例の「テルマエ・ロマエ 」に描き出されるローマ帝国の温浴施設は
ハドリアヌス帝(76-138)の時代ですから、人と温泉の付き合いは相当に長い。


ですが、こと日本においてその効能の科学的分析という点では明治になってから、
お雇い外国人に負うものがあったというべきでありましょうか。


1876年(明治9年)、東京医学校(現・東京大学医学部)の教授として

招聘されたドイツ人医師ベルツは教鞭を執る傍らで、

脚気の研究や温泉療法でも多大な功績を挙げたそうなんですが、
1880年(明治13年)に発表した「日本鉱泉論」では、
温泉医学や温泉施設に関する指導の観点から

伊香保 、熱海にモデル設備の設置を提唱したといいます。
 
これを受けてか岩倉具視の発意もあり、
1885年(明治18年)に日本初の医学的温泉施設「噏滊館」が熱海に誕生しますけれど、
吸気場(「噏滊」は「きゅうき」と読むようですが「吸気」のことか…)や
精神衛生のための散歩コースとしての梅園も同時に造成されたのだとか。


少し前のTBS「世界遺産」 ではザルツカンマーグート地方の温泉地バート・イシュルを紹介する際に、
温泉を気化してそのミネラル成分を体内に取り込む吸気場に触れていましたので、
ドイツ(バート・イシュルはオーストリアですが)での温泉利用として吸気法があるのも
歴史的なことなのでしょう。


とまれ、医学的な効能を意識した施設が熱海にできたわけですが、これが一大ブレイクを果たすのは

1897年(明治30年)に連載の開始された尾崎紅葉「金色夜叉」の影響とか。
展示にあった1904年(明治37年)当時のの熱海市街図には

温泉旅館がびっしり描かれておりましたですよ。


以前、川端康成 の小説が観光振興にひと役買っていたてなことを聞き及んだことがありまして、
例えば「伊豆の踊子 」による天城のあたり、そして「雪国 」による越後湯沢とか。
こうしたことは川端の遥か以前からあったわけですね。


「金色夜叉」が呼んだ人気は、小説の舞台となった温泉人気に一役にも通ずることになり、
「続・金色夜叉」では塩原 ・箒川渓谷が舞台となって、こちらも大いに盛り上がったようす。


一方、1912年(明治45年・大正元年)の伊香保も当時の市街図を見れば、温泉旅館がびっしりと。
こちらはこちらで徳富蘆花 「不如帰」の人気が反映しているのでありましょう。


そうした温泉旅館の全てにまで医学的な見識が及んでいたかは不明ながら、
例えば萩原朔太郎の父親は医師で、伊香保浴医局長を務め、温泉療法を指導していたそうな。


温泉に行くと温泉の成分やら効能を表示した表が脱衣場で必ずに目にとまりますけれど、
そうしたことはベルツによる紹介以来、そして尾崎紅葉による温泉旅行のブームもあって、
浸透していったのでしょうなあ。


と、ここまで温泉と文芸の関わりには触れてきたものの、では鉄道は?となりますが、
父親が伊香保浴医局長だった萩原朔太郎が「深い密林の中で白亜の洋館を見る時のやうな感じ」と
その印象を語っているのが、伊香保に停車場のある風景なのでありますね。


今ではJR上越線の渋川駅(あるいは高崎駅)からバスで行くのが一般的な伊香保温泉には、
かつて伊香保電気鉄道という路面電車が通じていたのでありまして、
山の中の温泉場にある電車の停車場は朔太郎が「白亜の洋館」と感じたハイカラさがあったのでしょう。


まあ、人が集まるところに鉄道を設けようとは考えそうなことですが、
鉄道が敷かれることによってさらに人が集まるということもあったろうかと。


宮沢賢治 には銀河鉄道に見えたかもしれない岩手軽便鉄道、
その反対側の花巻温泉へと伸びる路線が1925年(大正14年)に開通しますけれど、
展示されていた1927年(昭和2年)の新聞には「夢のような理想郷 花巻温泉に遊ぶ」との記事が。
温泉自体の人気もさることながら、交通手段があってこそ大衆化するのではなかろうかと。


てなことを書いているこの季節、
いつの間にやら温泉のぬくもりが恋しい時季になりましたなあ…。

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