Sun090208「法学部か文学部か医学部か」進学先についての父親との対立 浪人するな(1/4) | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sun090208「法学部か文学部か医学部か」進学先についての父親との対立 浪人するな(1/4)

 「嵐を呼ぶ男」ということになれば(昨日の続きです)、本日が命日の我が父・今井三千雄も石原裕次郎に決して負けてはいない。彼については既に相当詳しく書いたことがあるから(Sun 080824Mon 080825Tue 080826)興味のある方は(あまりいないだろうという確信はあるが)、すでに半年前になる上記ブログ記事を参照していただきたい。電車の列に割り込もうとした中学生男子5名を右手1本で一気に突き飛ばしたり、中間管理職として部下たちの不満を生のまま上司にぶちまけたり、板挟みになって左遷された時にも見送りに来た上司に一言も言わず顔もあげずに立ち去ったり、まあ激しさという点では「マドロス」や「拳闘選手」に一歩もヒケをとらない。十分に嵐を呼んで、風速40米の中を堂々と去っていった男である。テレビの漫才を見ていて、「突然心臓が止まってしまった」というのも、大いに豪快であり、大いに爽快である。


 国鉄職員のお葬式は(殉職の場合は必ずそうするのだが、殉職でなくても)最後に遺体を電車に乗せて、職場の仲間で低く葬送の歌を歌いながら見送ることになっている。浅田次郎の小説「鉄道員」でも描かれているし、映画化されたときも同じように、主人公が見守り続けた北海道の一両編成の気動車に遺体を載せて、皆の歌で見送るシーンがクライマックスだった。父がテレビの漫才を見ながらガハガハ笑いながら亡くなったのが15年前。映画を観たのが10年前の3月。汽車に遺体を載せて、汽車が動き出して、すっかり老いた職場の仲間たちの歌声が高まって、汽笛が鳴って、電車の速度が少しずつ上がって、やがて雪の中に消えていく。そういうシーンを見て、思わず号泣して、映画館の周囲の観客に気味悪がられてから、既に10年も経過する。あのころから、私はずっと丸刈りなのである。

 

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(墓参りの途中、鶴見駅で見つけた「チョコボール」の看板)


 こうして墓の前に立ってみると(昨日の続きです)、よくもまあ父親の期待にことごとく背いてきたものだと実感する。父の期待は「東大法学部を出て、国鉄に入社して、国鉄で出世する」という単純きわまりないもの。今のJRではもちろんそんなことはないのだろうが、大昔の国鉄では「東京大学を出て上級職で入社した者は、初年度からすでに本社勤務のエリート。万が一地方の工場や鉄道管理局(現在の地方支社)に配属された場合は『お客様』としての特別待遇」だったのだ。よく刑事ドラマに登場する「本庁のエリートと所轄刑事」みたいな図式である。地方タタキ上げの中間管理職だった父としては「中学校では常に学年1位の自慢の息子」が当然のこととして東大文Ⅰから法学部(昔は「法科」と呼んだ)に進み、やがて国鉄に入って、あっという間に自分の地位を追い抜いていく姿を見たかったのである。


 ところが、中2の段階から私はすでに「法学部」を拒絶。行きたいのは文学部か医学部。理由はカッコいいから。法律みたいなものをいじくり回して「安定した職業に就きたい」などと言っている人間に、中学生や高校生が憧れることは多くはないだろう。そういういかにも子供らしい発想は、高校生になっても全くかわらない。まあ、成長が遅かったのだと思うが、法学部とか経済学部とか、安定とか公務員とか社会的地位とか、そういうものに全く魅力を感じない。高2になっても高3になっても、医学部と文学部の間で振り子のような動きを続けるばかりで、とにかく法学部だけはイヤ。「東大文Ⅰがイヤなら東北大学法学部でもいい」と言って、それで大きな譲歩をしたつもりになっている父に対して、こちらは「もちろんそれはもっとイヤ」である。まあ、18歳の男子に「4年間過ごすのに、東京と仙台とどっちがいい?」と聞いたら、余程しっかりした深い考えでももっていない限り「そりゃ東京にきまってるだろ」である。


 鼻の病気にかかったのがこの頃。一気に集中力をなくし、数学と物理&化学がどういうわけか全く出来なくなって、医学部進学クラスに在籍しているのに、成績がいいのは国語と英語と社会科科目ばかりという、目も当てられない状況になった。父との対立はさらに深刻化。というか、父親から見れば、この息子の状態は「スキあり」であって、「ほら見ろ、数学も物理も目も当てられない有り様だ。医学部は諦めて、法学部にしろ」「文学部に行くと言っても、高校の成績さえマトモにとれない程度の才能で、文学部なんかに行っても何にも出来ないぞ」と好き放題のケチを付けるのには格好の状況だったのである。


 ところが、そういうケチを毎晩言い続けるのは、「言い負かすこと」と「説得すること」とを混同した作戦ミスである。相手のスキにつけ込んで、遠慮なく言いたいことを言って完膚なきまでに言い負かしたとしても、それは説得ではなくて、口喧嘩に勝ったというだけのことである。説得に成功するためには、むしろ口喧嘩にわざと負けて、自分の負けを手段に使ってでも、自分の思う方向に相手を誘導しなければならない。父は口下手で頑固な男だったから、戦略戦術を駆使して説得するなどという高度なテクニックを弄することは出来ないタイプ。結果として、息子は完全に法学部を拒絶する。東大でも京大でも東北大でも、とにかく「法学部」と名前がついただけで全て拒絶の毎日。いま考えれば、ただの子供のケンカの日々だったのだ。

 

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(理性の目覚めは突如として訪れる)


 というわけで、苦虫を噛み潰したような顔で職場に向かう父を見送った後、3月3日の東大1次受験に向かったのである。受験のときには父は国鉄大宮工場の客貨車職場長で、家族で大宮市桜木町の国鉄官舎に住んでいたし、確か東大1次試験は理系が午前から、文系は午後からで、家を10時頃に出れば十分なのだった(このあたりの記憶は珍しく曖昧、あのころの鼻の病気のせいかもしれない)。丸々2年も顔を合わせるたびに一触即発の睨み合いが続いた後、最後のカタキをとるような気持ちで、「合格してみせるから、待ってろよ」という感じで出かけたのだ。「がんばれよ」もなければ「どうだった」もなし。結果として、息子が生まれた瞬間から父親がいだいた夢は無惨に踏みつけられてしまったのである。


 父が東大法学部にこだわった理由は今では余りにもハッキリ解りすぎるほど解るのであるが、自分が何故あれほど文学部にこだわったのかはよく解らない。よく「医学部で精神医学をやりたい」と言って医学部を目指していた高校生が、成績が伸びずに医学部を諦めそうになった時に、「心理学でも似たようなことが出来るのではないか」と考え、その錯覚を周囲にいる大人が誰も指摘してくれないせいで、心理学科志望にかえることがあるが、私の文学部志望にそういう錯覚は全くなかった。心理学をやりたかったのでもないし、今の東大1年生がよく口にする「国際関係論をやるなら、駒場の方がいい」などという高尚な発想など、ほぼ皆無。あえていえば、「ケンカ続きだったニックキ父親が悔しがらせたかったから」かもしれない。それほどに、口喧嘩と説得の結果は正反対になるのである。


 で、浪人するハメになったのであるが(その年の東大入試については、Sat 090117Sun 090118参照)、浪人したあの1年こそ、最も激しく父親の期待という期待をすべて裏切り続けた1年だったかもしれない。その翌年の春には、現役でも合格していた早稲田の政経学部政治学科に進学することになり、しばらく父親は口をきけないほどに落ち込んでしまったのである。その浪人生活については、明日続きを書こうと思う。もし受験生の立場でこれを呼んでいる人がいたら、「安易に浪人してはならない」「安易にした浪人は、周囲をも果てしなくガッカリさせることになりかねない」「だから安易に『浪人覚悟』などと口に出すことなく、明日の試験にも明後日の試験にも、とにかく全力を尽くしたまえ」というアドバイスとして読んでいただきたいのである。

1E(Cd) Coombs & Munro:MENDELSSOHN/THE CONCERTOS FOR 2 PIANOS
2E(Cd) Barenboim:MENDELSSOHN/LIEDER OHNE WORTE 1/2
3E(Cd) Barenboim:MENDELSSOHN/LIEDER OHNE WORTE 2/2
4E(Cd) Barenboim & Chicago:SCHUMANN/4 SYMPHONIEN 1/2
5E(Cd) Barenboim & Chicago:SCHUMANN/4 SYMPHONIEN 2/2
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