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2016年12月06日(火)

Sat 161112 追良瀬を渡る/鯵ヶ沢からは岩木山の旅/木造/繭子ひとり/帰ってこいよ

テーマ:ブログ
 日本海沿いに北上する列車が追良瀬川を渡って鯵ヶ沢を過ぎると、五能線の旅はいよいよ後半に入る。鯵ヶ沢までは海の旅、鯵ヶ沢からは岩木山の旅である。

 青森には2つの「おいらせ」があって、有名な奥入瀬は十和田湖から流れ出す美しい渓流。かく言う今井君も小学校6年の修学旅行以来、大学2年の夏に2回、さらにその後も3回、つねに奥入瀬の急流を十和田湖まで溯るルートで、合計6回も旅してきた。

 いっぽうの「追良瀬」は、世界遺産・白神山地から日本海に一気に流れ下る急流であるが、注目度は低い。五能線の旅を満喫している乗り鉄の皆様も、「いま追良瀬川を渡った」という認識はあまりお持ちでないようだ。

 しかし諸君、その目立たない追良瀬は、五能線の駅名にもなっている。十二湖・艫作崎・不老不死温泉を後に、この地域の中心・深浦の町を過ぎると、追良瀬(おいらせ)、轟木(とどろき)、風合瀬(かそせ)、大戸瀬(おおどせ)と、冬の日本海の轟く荒波を象徴するような駅名が続く。

 追良瀬 ☞ 千畳敷を過ぎたあたりから、右の車窓前方に注目していれば、白い気高い山が遥かな空にちらちら見え隠れするのに気づく。これが岩木山。「おいわきやま」として、民謡やら民話やらにナンボでも登場する尊いお山であって、津軽の人の心の故郷であるのは言うまでもない。
岩木山1
(鯵ヶ沢に接近中の五能線から、真っ白な岩木山を発見)

 やがて列車が鯵ヶ沢に到着すると、車窓の雰囲気は一変する。今までヒトビトの目はひたすら進行方向左側の日本海にクギヅケ、次々と姿を表す奇岩怪石と、その岩を噛む荒々しい白波に歓声が上がっていたのであるが、鯵ヶ沢からの主役はあくまで「おいわきやま」に代わる。

 標高1625mの津軽富士・岩木山を眺めて、思わず手を合わせて拝みたい気持ちになる。小学3年の冬、父と2人で弘前の旅館に泊まって、岩木山のスキー場に出かけた。どうしてあんなに寂しいスキー場を選んだのか、今も分からない。

 大学2年の夏、友人5人で津軽の友人の家を訪れ、合計6人で岩木山の頂上まで登った。何故か今井君は革靴を履いて奥入瀬の渓流を歩き、その同じ革靴で岩木山登頂を果たしたのである。

 その「津軽の友人」というのが、木造町出身の菊池君である。木造と書いて「きづくり」と読む。岩木川のほとり、ねぷたで名高い五所川原のお隣の町である。

 菊池君はその2年後の初夏、5月26日に急逝するのであるが、菊池君の実家は木造町の大きなお寺であって、お寺の本堂に6人で雑魚寝の夏の日々は、今も忘れられないあまりに楽しい思ひ出である。
岩木山2
(木造の手前からの模範的な岩木山)

 列車が木造を通過する頃から、車窓はすっかり夕暮れの雰囲気になってきた。夕陽に照らされた岩木山の姿を眺めつつ、木造の駅舎を目にすると、どうしても熱い涙が滲み出る。

 すでにあれから数百年も経過したことは間違いないのであるが、「菊池君が生きて大活躍してくれていたら」と思うと、今こんな暢気な旅をしている自分のふがいなさを、骨身に沁みて感じてしまうのである。

 1982年夏、青森県立木造高校は県大会を勝ち抜いて見事に甲子園に出場。佐賀商業と対戦して7−0で敗退するのであるが、「完全試合まであと1人」という所まで追いつめられてしまった。

 27人目のバッターがバッターボックスに向かう。代打の1年生、背番号15。夏の甲子園初となる完全試合になっちゃうのか、日本中が固唾を飲んだ瞬間である。結果は、デッドボール。辛くも完全試合を免れたのであった。

 あれから、青森県の高校野球は奇跡的な進歩を遂げた。県として、一気に勝率上位県にのしあがった。青森山田と光星学院の2校によるところが大きいのだが、いやいや、誰が何と言っても、1982年の木造ナインの健闘こそが、最高の貢献を果たしたのである。
木造駅
(木造駅を通過する)

 五所川原を過ぎて、陸奥鶴田・板柳・川部と、五能線の旅の最終盤に入る。岩木山の北麓を大きく時計回りに回っていくルートだから、岩木山がどこまでもついてくる。鯵ヶ沢ではまだ真っ白だった「おいわきやま」が、五能線の終点・川部の駅から眺めると、すっかり夕暮れのオレンジに染まっている。

 周囲は、どこまでもどこまでもリンゴの畑である。このリンゴ畑の風景を眺めながら、菊池君は弘前高校に3年間通学したのである。名門・弘前高校のある弘前市まで、木造から五能線で30分強。太宰治どんの「津軽」は、まさにこの光景の中で生まれた。

 岩木山の麓は、何となく文学のカホリの高そうな雰囲気がある。しかし、津軽出身の文学者は意外なほど少ない。太宰治どんが群を抜いていて、太宰の同時代人として葛西善蔵と石坂洋次郎。あとは「津軽じょんから節」の長部日出雄が1人残るぐらいである。

 青森県の作家と言えば、他に寺山修司と「忍ぶ川」の三浦哲郎もいるが、彼らはいわゆる「三八上北地方」の出身。同じ青森でも、津軽と三八上北は決してひとくくりに出来ない。

 そもそも「三八上北」の読み方が、部外者には難しい。これで「サンパチカミキタ」と読むのである。「三八」は三戸と八戸の総称。上北は、「下北半島」の下北との対立概念である。
五能線
(能代、米代川の河口付近。ここから続けてきた五能線の旅も、そろそろ終わりに近づいた)

 江戸時代に津軽藩の中心だった弘前と、南部藩の支配領域だった三八上北とは、お互いどうしどうもソリが合わない。大昔、NHKの朝の連ドラ「繭子ひとり」でも、津軽のガンコな老人が三八上北の女・繭子に向かって、「そっちは日なた、津軽は日陰だ。日なたはいいよな。お日さまがたくさん当たるじゃないか」、そんな意味の一言を投げつけるシーンがあった。

「繭子ひとり」の放映は、1971年4月からの1年間。原作は、津軽出身の三浦哲郎。視聴率を見ると、平均視聴率44%とか、最高視聴率55%とか、今の紅白歌合戦を軽々上回るお化け番組だったことが分かる。

 セリフもあくまでうろ覚えであるが、ワタクシの記憶が確かならば、津軽の老人を演じていたのは花沢徳衛。しかし諸君、昭和のほとんどあらゆるドラマに顔を出していた名脇役:花沢徳衛の記録を調べても、「繭子ひとり」への出演記録はない。今井君の記憶違いかもしれない。

 語り手、石坂浩二。ヒロイン繭子が山口果林。大作家・安部公房との仲が噂されている頃の彼女であって、いま考えればなかなか激しい連ドラであった。今も三戸には「繭子の像」が残っているんだそうな。
岩木山3
(弘前付近から、夕暮れの岩木山を望む)
 ま、こういうふうで、旅の後半は岩木山を眺めながらひたすら昭和の思い出にふけっていた。蘇るのは、もちろん松村和子「帰ってこいよ」である。1980年、レコード大賞新人賞を受賞。津軽三味線をギターのようにつかって、津軽の熱い恋を歌い上げた。「繭子ひとり」から10年目のことである。

  きっと帰ってくるんだと
  おいわきやまに 手を振れば
  あの娘は小さく頷いた
  茜の空で誓った恋を
  東京暮らしで忘れたか
  帰ってこいよ 帰ってこいよ
  帰ってこーいーよー

 作詞:平山忠夫、作曲:一代のぼる。うーん、渋いジーサンのセリフはうろ覚えでも、こういう歌詞は忘れない。人間の頭というのは、やっぱりどこまでも単純に出来ている。

1E(Cd) Solti & Chicago:MAHLER/SYMPHONY No.8 2/2
2E(Cd) Barbirolli & Berliner:MAHLER/SYMPHONY No.9
3E(Cd) Rattle & Bournmouth:MAHLER/SYMPHONY No.10
4E(Cd) Goldberg & Lupu:SCHUBERT/MUSIC FOR VIOLIN & PIANO 1/2
5E(Cd) Goldberg & Lupu:SCHUBERT/MUSIC FOR VIOLIN & PIANO 2/2
total m60 y1930 d19635
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