ヨハネ20章2節 主をどこに置いたのか分かりません(2) | ヨハネ福音書20章 21章

ヨハネ福音書20章 21章

ヨハネ福音書をとおしてイエス・キリストを知る

ヨハネ20:2

それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子のところに行って、言った。
「誰かが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちには分かりません。」


最悪の事が起きた、と思い込んだマリヤが向かった先は、
シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子のところでした。

マリヤはただ、墓から石が取り除けてあるのを見ただけなのに、

「誰かが、墓から、主を取っていった。」と思い込んだのです。
当時、墓泥棒がいたり、恨みによって死体を傷つけたりすることがあったそうです。

1節に、マリヤは朝早くまだ暗いうちに墓に来た。と書かれていますが、
石が取り除けられた事実だけを見て、最悪の出来事を想定してしまったマリヤは、
イエスの死によって、“まだ暗いうちに墓に来た。”と書かれた
その暗闇は、マリヤの内面そのものであり、暗い闇の衣をまとったまま、墓に来たことを
現しているのではないかと思います。


2節に、シモン・ペテロ、と書かれています。

この福音書を書いた著者は、この時のペテロの内側は、シモンという、生まれながらの性質の方が、ペテロという後天的な弟子としての性質を乗り越えて、肉なるシモンモードがむき出しになっている。と、正直に暴露していますね。

ヨハネは、生まれながらの肉の性質を第一優先にするペテロを、シモン・ペテロと表現したのです。自分の考え、自分の能力、自分の強い思い込みを土台にすえ、事に当たろうとするペテロを、
ヨハネ福音書は17回(新聖書辞典に書かれています)も、シモン・ペテロ、として表現したのです。

おもしろいですね。とても分かりやすく私たちに、霊的な深い真実を学ばせてくれます。


ひとつ例を上げると、イエスが十字架に架かる前、弟子たちの足を洗った時も、ヨハネ13:1にはこう書かれています。

 「こうして、イエスはシモン・ペテロの所にこられた。」

イエスの視点から見たら、完全にシモンという性質がくっきりハッキリ、
浮かび上がっていたのです。自分が出来ることに根拠を置き、自分の考えの方が、
イエスがしておられること、言われたことよりも合っている。

と思い上がってしまう。そんな生まれながらの性質を、シモン・ペテロと書きあらわしたのです。

では私達はどうでしょう。
キリストの十字架と復活によって、罪の奴隷から解放され、新しく生まれ変わったはずの、
私たちクリスチャン人生。

全能の神の視点から見たら、今、何と呼ばれているでしょうね。

シモンが、ペテロへと霊的に成長し、本当に人間をとる漁師になったように、
取税人レビがマタイになったように、強烈なパリサイ人サウロが、パウロとなったように、
私たちも主と共に生き、主が語られるみことばを土台として生き、主から新しいネームで呼ばれるよう、ぜひぜひ成長していきたいものですね。


それでは、この福音書を書いたヨハネは、自分のことをなんと表現したのでしょうか。

「イエスが愛されたもうひとりの弟子」  

他の3福音者には、イエスがヨハネを特別に愛した、などということは、
どこにも書いてありません。これはヨハネの完全なる主観、
聖なる主観と言っていいのではないでしょうか。

皆さんはどうですか? 自分は特別に主に愛されている。という自己認識を持っていますか?

私は、持っています。いえ、持とうと努力しています。
いつも、主に特別に愛されている自分を意識しようと決断しています。
なぜならこれが、神側の事実だからです。でも一番受け取るのが難しいことだと思いませんか。

だから、決断するのです。

ヨハネも、自分に言い聞かせるように、「イエスが愛されたもうひとりの弟子
と、自分のアイデンティティをいつも確認し、心に刻みつけていたのではないでしょうか。

さあ、あなたも「イエスに特別に愛されている私。」と自分に向かって言ってください。
心がついていかない、と言わないで、たとえ心がついていかなくても、
そう主に向かって大胆に告白してみてください。

他人から特別な存在に思われることではなく、主イエスから特別に愛され、
特別な存在とされている自分を受け取ることは、この福音書が教える重要な、
ヨハネからの、熱いラブメッセージなのですから。