生きるのって難しいなあ | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

またしても「青天の霹靂」を観てきました。
二度目だから泣かないかなと思っていたらとんでもなかった。
二度目だからこそ泣いてしまう、二度目だからこそ先読みして泣いてしまうことの連続で、初回よりももっと泣いてしまいました。
まあ、今日は一人で見たし、平日で近くに人がいなかったので、思いっきり涙を流し放題にしてました。涙って我慢すると鼻水が大量に出るし、目の腫れもひどくなるんですよ。ご存知でした? いっそ思い切りだーーーーっと流した方が、かえって泣き止んだ時にすぐ元に戻るみたいです。

そんな豆知識はともかく。

初回に見た時に、前半の山場(写真を見て晴夫が泣く所)でなぜ自分がこんなに泣けてしまうのかわかりませんでした。気づいたら胸をどーんと突かれていて、「ああああ」と泣いてました。
二度目の今日、何がそんなに刺さったのかに気づきました。
それがタイトルに書いたセリフ。

ぱっとしない人生、ろくでもないことばかり続く人生に疲れてしまった晴夫がつぶやく一言。
「生きるって難しいな」
うん、うん、そうなんだよ、なぜかすごく難しい。

晴夫が感じている難しさと、私が感じている難しさは、ちょっと種類は違うかもしれませんけどね。
でも、「もうどうしたらいいのか、わかんなくなっちゃったんだよ」というセリフは、まるで私自身のセリフのようでした。
ほんとにね。どうしたらいいのか、全然わかんないですよ。

私は、もともと、境界線がわからないところがあります。
自分の言動が、他人の価値観とどれくらいずれているのかわからない。
やっていいことなのか、やらないほうがいいことなのかの基準が、時々わからなくなるんですね。そうすると、やたらおせっかいになって、やりすぎてしまったり、ひどく鈍感になって、やらなさすぎたりするんです。その境界線がうまく定められない。


現在、ちょっとトラブルに直面していて、毎日そのことで頭を悩ませています。
一朝一夕で解決しない問題で、でも、ものすごく単純なことのようでもあり、しかし、対応を間違えるとオオゴトにもなりかねないデリケートな問題でもあります。
はっきりいって私の手には余る問題なんですよね。でも、行きがかり上、あれこれ動かざるをえない。
なまじ、いろんな情報を貯めこんでいるせいで、いろんなパターンの展開が想像できてしまう。その中には最悪の展開もあるので、つい、最悪を避けようと、話を大げさにしてしまっているような気がしてなりません。

堂々巡りになってしまったので、ちょいと現実逃避しようと映画を観に行ったんですね。
「青天の霹靂」は二度見ても面白かった。むしろ二回目の方が細かい所に注目できて、前回より深く鑑賞できたような気がします。
やっぱねえ、大泉洋さんはいいですよ。なんて繊細でデリケートな表現をするんだろう、と。前々からそうは思ってたんですけど、ああいう役柄をやったら天下一品ですね。
劇団ひとりさんも、やっぱりよかったなあ。この二人の掛け合いも絶品です。

そうして、暗闇の中で滂沱の涙を流して、「ああ、面白かった。やっぱあのラストは最高だね」と思いながら映画館を出たんですけど。
待っていた現実はやっぱりどうしようもなくて。

なんでここまでこじれてしまったのかなあ、という絶望感と、それでも何かしら手を打たないとまずい、という焦燥感、そしてそれに対して自分ができることはあまりにも少ないという無力感。

今日ほど「地域福祉」という言葉を空虚に感じた日はありませんでしたね。

頭では、「世の中は一筋縄ではいかない」とわかっているつもりでも、圧倒的な現実に直面すると、何もかも放り出して逃げ出したくなります。
ずっと映画を見て現実逃避していたかったなあ……しょぼん