10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう


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昨日は、浜名湖パルパルで開催されたリアル脱出ゲームに行ってきました。

閉園後の夜の遊園地を舞台に繰り広げられたゲーム。

あいにくの雨で、なかなかハードなものとなりました。

それでなくてもハードさが予想された今回のゲーム。

なぜなら、パルパルは園内の高低差がとても大きいから。

 

数年前、パルパルで行なわれていた「パルパル探偵事務所」というイベントに通っていたときにそれを痛感していました。遊園地の入り口から、最も高い場所にある観覧車の場所までがかなりの高低差。丘の上にあるのでそこまで登るのがけっこう大変なのです。低中高の3段階の高さにそれぞれエリアがあるんですが、謎解きゲームの時はそこを何度も上り下りするはめになるのです。

 

今回の脱出ゲームではある程度ルートが決まっていたので、やたら上り下りすることはなかったのですが、それでも、一番低いところから一番高いところまで何度か行き来しなくてはならず、息は切れるし足はガクガクするしで大変でした(笑)

 

その上、夕べは、小雨でしたが雨がずっと降っていたので、紙が濡れてしまって困りました。友達が事前情報で教えてくれたので合羽を持って行ったのはよかったんですが、手元があんなに濡れてしまうというのは予想外でした。園内って案外屋根がないんですよね。遊園地の施設はクローズドされていたので入れないし、遊具の周りは基本的に屋根がないし。解答を書きこむ用紙はもとより、ヒントになる資料も濡れてよれよれになってしまうのがほんとに困りました。

 

でも、そんな困難も吹き飛ぶくらい面白くて、夢中になって謎解きに走り回った75分でした。

昨日は雨ということで5分余分に時間をもらえたんですよ。

それでも今回も脱出不成功でした。残念。

 

最後の答え合わせの時に思ったんですが、このリアル脱出ゲームのむずかしさって、最終段階でいかに発想を飛躍させることができるかにあるんですね。

このゲームの謎は、3段階にわけることができると思います。

まずは、ファーストステップ。ここは、問題が明示されるので、とりあえずそれを解けばなんとかなります。こういう謎にはある程度パターンがあって、何回か解くと、「ああ、これはこういうパターンで解けばいいんだな」ということがうっすらとでもわかってくるものです。

で、それを元にしてセカンドステップに進みます。ちょっと謎が難しくなる段階ですが、まだパズル的な要素が残っているので、がんばればなんとか解けます。

そして最終ステップ。これがねえ。ほんとに難しいのです。何が難しいって、問題がなんなのかがわからない。だから何を解けばいいのかわからないのです。ここで必要なのは全体を見渡す力と、そこから問題を見つけ出す力、そして発想を飛躍させて答えを導く力が必要になってくるのです。

 

私(たち)は、何度かゲームを体験して、セカンドステップまではクリアできるようになりました。今回も、友達の息子さんのひらめきで、けっこう早くにそこまでたどり着けたのです。

それでもこの時点で残り時間が20分を切っていました。

この時間制限ってやつが曲者なんですよね。どうしても残り時間が少なくなると焦るのです。

でも、セカンドステップの最終段階の答えは焦るとなかなか出せないようになっています。

今回もすごく焦りました。おまけに雨で濡れた資料がうまく使えなくて手間取りましたし。

なんとか答えを導き出して最終ステップに進んだのですが、私はそこで立ち止まらざるを得ませんでした。だって、「何が問題なのかわからない」。だから、何をどうすればいいのか見当もつかなかったのです。

 

そして答え合わせの時に、その答えを聞いて「あー、これはあかんわ」とつくづく思いました。

そんなん、思いつかへんで、と。

あれをあんなふうに読むのか、あんなふうに使うのか(すみません、ネタバレ禁止なのであいまいな書き方になります)。とうてい私には思いつきそうにない答えでした。

 

それで思ったんですよ。ああ、これって補助線だと。

図形の証明問題で出てくる補助線に対する違和感については、以前ここで書いたことがありますが、あれも、「あ、ここに1本補助線を引けば答えが出るじゃん」と思いつく発想力がないと解けません。

リアル脱出ゲームの最終ステップも、同じような発想力が必要なのです。何回かやって、痛感しました。いつも最後の最後でつまってしまう。それは、「問題を見つけることができない」からなんですね。

 

今後、私がリアル脱出ゲームで成功することはないんだろうな、と思いました。なんかね、解ける気がしない(笑)。

途中までの、問題が明示されているものはたぶん解けるようになるでしょう。それは数学で言うなら計算問題、国語なら漢字の書き取りみたいなもので、目の前にある問題を解けばいいからです。

でも、「1、2行の簡単な問題文と広大な面積の解答欄をもつ証明問題」のような最終ステップの問題はきっと解けないでしょう。

それは、私には問題文に書いてない補助線を勝手に引くことができないからです。

 

なぜ補助線が引けないのか、もちょっと考えてみました。

なぜ引けないのか。いや、引くこと自体はできます。できますが、その線を引いたことで導き出した答えが正しいのかどうかが信じられないのです。

だって、私が勝手に引いた線なんですよ? それを元にして解いたものがどうして正しい答えになるんでしょう。そこが信じられないので、そもそもの補助線が引けないんですね。

与えられた問題は解ける。でも、自分で問題を探し出してその答えを見つける(ある意味創造的な作業ですよね)ことができない。

○×式で育ってきた弱点なんでしょうかね。正解は常に外部から与えられる、与えられなければならない、と思ってしまっているのでしょう。

 

そういえば「3月のライオン」の中で、零くんがひなたちゃんに勉強を教えているシーンがありました。そこでのセリフに「ここに補助線を引いて」というのがあって、ちょっと衝撃を受けましたね。ああ、自分で答えを見つけていける人はあっさりそういうふうに思うんだなと。

 

 

そんなわけで、自分の思考回路の弱点まで露呈してしまったリアル脱出ゲームでした。

今回は舞台が夜の遊園地だったのに、その雰囲気を楽しむ余裕もありませんでしたね。

ひとえに雨が悪い、雨が。雨さえ降ってなければもうちょっと周りを見る余裕も持てたかもしれません。雨は天敵。

これからも脱出に成功することはないでしょうが、途中までの謎解きが楽しいので、またやってみたいと思っています。あんなに短い1時間はそうそう体験できませんよ(*^.^*)

 

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「命を大切にしよう」といいますね。

ではその「大切にする」とは具体的にどういう行動をいうのでしょうか。

この言葉が使われるのは主に、「死」が関係してきたときなので、ということは「死ぬな」ということなんですかね。

オブラートにくるんだ言い方ではあるので、装飾をはぎとってむきつけにいえば「自分で勝手に死のうとするな」ということなんでしょうか。

苦悩の果てに死を選んだ中学生あたりに、よくこの言葉が投げつけられますね。そして生き残った多くの中学生あたりにもこの言葉が投げつけられます。やわやわとした力ではありますが、確実に投げつけられます。「みなさん、命を大切にしましょう」

 

では、死ななければいいのか。

確かに「死んで花実が咲くものか」とも言いますし、生き抜いていけばもしかしたら違う時間軸でなにかしら実りが手に入るかもしれません。

でも、死んでしまいたいと思ってしまうような時間の中では、生きていること(生物的な生と社会的な生)が多大な浸食を受けていると思うんですね。

それは、同調圧力による攻撃かもしれませんし、自己嫌悪の闇かもしれません。

他の個体から、生命の存続が危ぶまれるほどの攻撃を受けている状態が、「命を大切にしている」こととはとうてい思えないんですが、そこはいつもスルーされる。

そしてさまよいの果てにたどり着いた哀しい決断だけが、「命を粗末にした」と非難されるわけです。

 

まあ、この社会にはこの手のダブルバインドは山ほどあって。

わかりやすい例でいえば、「少子高齢化」の騒ぎと「妊婦、子ども、母親へのバッシング」が同時に存在している、というようなこと。

「女が子どもを産まないのが悪い」というその口で、「妊婦は使えない、子どもはうるさい、母親は自分勝手」と責めるわけですよ。

あの原発事故に関しても、怖い不安だどうしてくれるんだと騒ぐ一方で、実際に被害を受けた人のことはバッシングする。あ、でもこれはつながってんのか。怖くて不安だから排除しようとするんですね。

でも、安心したいんじゃないんですかね。安心したいはずなのに、いつまでも「危険だ!」という情報を流し続けるし、それを鵜のみにして行動してる人がいる。おかしなことだと思います。

 

やっかみやひがみなんだろう、と思いはするけれども、だからといって、寄ってたかって突きまわすような行動をとってしまうのも浅はかだよなあと思うんです。

賠償金もらっただろうって? そりゃもらうでしょうよ。でもそれって別に「濡れ手に粟」なお金じゃないことくらい、どうしてわからないんですかね。とにかく他人が何かしら得をすると許せないと思ってしまう感性なんでしょうか。

規模も中身も違いますけど、交通事故などでけがをしたときに「いいよねえ、保険金がたっぷり出て。ちょっとちょうだいよ」なんて言われたらどう思います?

世の中には、「なんにもしないで濡れ手に粟で保険金をせしめる」ような事態が本当に存在すると思ってる人がいるんでしょうかね。いるんでしょうね。

 

「命を大切にしましょう」と唱えながら他人を殴る。そういう社会です。

家族とか親子に関することでもそうですね。

養子であることがわかると、それをネタにいじめる人がいるんです。なんでそれがネタになると思うのか。「血がつながっている者だけが親子であり、家族である」と信じているからです。でもそんなことはないのです。血がつながっていても分かり合えない、寄り添えない組み合わせもあります。「家族」という呼び名にがんじがらめにされて苦しんでる人もいます。

私は、ドラマや映画などで「家族の絆」を歌い上げたものがあまり好きではありません。特にその「家族」が「血縁関係のある親子」に限定されている場合は、いつもモヤモヤします。

夫婦だって、同じ相手とずっと一緒にいることだけが称賛されていると、なんだかモヤモヤしてしまう。

人間関係なんて、組み合わせによっていくらでも変わります。

親子だってうまくいかない組み合わせはあるし、血縁関係がなくても通じ合える組み合わせがあると思うのです。夫婦だって、異性間に限ることはないと思うのです。

 

そういう「多様性」はなかなか受容されない。

受容されないままで、お題目のように「命を大切にしよう」という。

どの「命」をどのように「大切にする」のか、具体的に教えてほしい、といつも思うんですよね。

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昨日は「3月のライオン」を読み、そして今日は「コンビニ人間」を読みました。

「コンビニ人間」は息子のおすすめ。彼はラストがすごく好きだそうで、それを聞いたら興味がわきました。ずっと、読もうかどうしようか迷ってたんです。

 

で、読んだら、迷ってたのがバカみたいだったと思いました。

面白かった。そして、ヒリヒリと痛かった。

「あ、私もそう思ってた」というところが多すぎて。

もちろん、完全にわかったというわけじゃないんですけど、共感するところがとても多かったんですね。

私も生きていくためにマニュアルが欲しいと思ったことがありました。

何が正解で、何がふつうなのか、その基準を明確に教えてほしいと思ったのです。

自分の感情や感覚なんて、あっさり他人に否定されてしまう。あまつさえ「そんなのおかしい」とまで言われてしまう。

考えて悩んでいると「考えすぎだよ」と言われるんですが、どこがどう「過ぎ」なのかがいつもわからない。どうふるまうのが「ふつう」なのか、「常識に沿っている」ものなのかがいつもわからないんですね。

だから、私も周りを見て真似をするようにしました。

言葉遣いとか、気遣いとかいうものも、他人にうるさく言う人の言動を見て真似をしました。他人にうるさく言う人はたいてい自分はちゃんとやっているからです。

そうやって、なんとかしのいできてはいますが、いまだに、そういうお手本がない世界では、自分の行動が合ってるのか間違ってるのかわからなくてものすごく不安になります。

「コンビニ人間」の主人公が、生きるためのすべての行動を、コンビニ店員として生きるために特化しているのを見て、うらやましくさえ思いました。

衣食住さえ、「コンビニ店員として生きていくため」に行なっているので、彼女はコンビニをやめたあと、うまく生活していくことすらできなくなります。このあたりの描写はとてもよくわかりました。私も、目的を失うと、どう生活を回していったらいいのかわからなくなるのです。

彼女の考える理屈も、私にとってはとてもわかりやすいもので、逆にどうして周囲の人がそれを理解しないのかがわかりませんでした。というかまあ、あれは理解を拒んでいるんだと思うんですけどね。

 

途中で、変な男と関わるようになるんですが、その関わり方もまた面白かった。彼女は全然困ってないんですね。困ってないから、ああいう行動がとれたんだなあと。

ラストは私もとても好きだと思いました。

っていうか、これを面白いと思った息子の感性はどうなんよ、とちょっと思いましたけどね(笑)

 

「3月のライオン」で、私が「あ、わかる」と思ったところは、零くんがなかなか川本家を訪ねられないところ。

最初は緊急事態で否応なく家に入ってしまって、ごはんも一緒に食べてるんですけど、そのあとがなかなか訪ねていけないわけです。「ほんとに行ってもいいんだろうか」と悩むんですね。あれは社交辞令なんじゃないだろうか、それを真に受けるなんて迷惑だよな、と。

この感覚はけっこう長く続くんですよね。おじいちゃんが「なんだ、また来たのか」と言ったときに、ものすごく焦って「あ、そうですよねすみません、すぐ帰ります」と言ってしまうところとか。

私もあんなふうに言われたら絶対帰りたくなると思います。おじいちゃんはたぶん冗談で言ってるんだろうけど、そこの見極めをどうつけたらいいのかが私にはわかりません。

 

漫画では、だんだん零君が成長して、みんなとうまく関わっていけるようになっています。

でもそうなる前の、一人で生きていたころの零君の対人感覚はなんとなく似てるなあと思うところがありました。私は彼みたいな壮絶な人生を送ったわけじゃないんですけど、私がいたら迷惑なんじゃないかな、とか、ほんとにここにいてもいいのかな、とか、そういうことはずっと思ってきたからです。今でもどこかでそう思っています。私はこの世界に存在しててもいいんだろうかって。勝手にいなくなるわけにはいかないみたいなので、すみませんけどちょっといさせてくださいね、って感じでしょうか。ああ、これ、19のときに思ったこと、そのままだな。全然成長してませんね。

 

ところで、私は、川本さんちみたいな食卓や食事風景がちょっと苦手です。

なんであんなに、ざっくりと大盛りなんですかね。漫画の中ではよく、川本姉妹がたくさんたくさん食べるものを作るシーンが出てきます。んで食べ過ぎて苦しんでるっていうお約束の展開があるんですけど、そこがもうわからない。

私はいつも「一人前」×人数で食事の用意をするので、余りが出ません。逆にいうと、「一緒にご飯食べよう」と突然他人を誘うことができない食事形態なのです。でも川本さんちは違う。ざっくりたくさん作ってあるから、一人くらい増えても困らないんですね。

なんかやたら食べてるシーンの多い漫画なので、そこがちょっと困るかなあ。何が困るって、意味がわからないからです。なんでここで、料理方法とか食べてるものの内容を事細かに描く必要があるんだろうって思ってしまうんですね。

小説でもそうなんですけど、料理や食べ物のことを詳細に説明したり、あと、ファッション(というか着ているもの)について細かく描写していると、つい目がすべります。わからないから。読んでもよくわからないんですよね。それがストーリーに関係しているんならいいんですが、時々、ただ書いてあるっていう場合もあって。あれはなんでなんだろう。あ、テレビでグルメ番組がたくさん放送されているっていうのと同じ理由なのかな。

 

「コンビニ人間」の中で、主人公が「味のついているものを飲む意味がわからない」と言って白湯を飲んでいました。さすがに白湯はちょっとなあと思いますが、食べることに「エネルギー補給」以外の意味を見いだせないというところは、ちょっとわかるなあと思いました。

たぶん、川本家の姉妹には理解できないところでしょうね(笑)

 

 

 

 

今日は、知り合いのステージを観に出かけたんですが、久々に「自意識過剰」がさく裂してしまいました。自分が存在してることがなんだかとても嫌に思えて、つらくなりました。

ステージはとても面白くて楽しかったんですが、私なんかが見てることが迷惑なんじゃないか、と思ってしまいました。まあ自意識過剰で恥ずかしい限りです(/ω\)

そんな日に「コンビニ人間」を読んだので、なんだかやたら刺さってきました。

むしろ彼女みたいに堂々と「世界の部品」になりたいとすら思いました。

 

春はあかんなあ。気持ちがふらふらして落ち着きません。

 

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