それ、言えますか? | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

昨日はオーバーヒートしたので中途半端に終わってしまいました。
今日はその続きのような、そうでないような。
底を流れるものは同じなんですけどね。

今でこそ人並みの感覚を持てるようになったと思っていますが、若い頃は、どうして自殺を考えているというと大騒ぎになるのか、よくわかりませんでした。
私にとっては、死を考えることはわりと当たり前のことで、自殺だってふつうに(というのも変な言い方ですが)頭に浮かぶことなんじゃないのかなあと思っていました。
誰だって一度くらいは、死にたいと思うことがあるのが当たり前だと思っていたんですね。

ところがどうもそうではないらしい、ということに気づいたのは、だいぶ遅くなってからでした。
「自殺を考えるほどに辛かったんだよ!」と、とても重大な事態であるという認識が一般的なのだ、と遅ればせながら気がつくようになりました。

長崎でしたか、中学生が自殺した事例で、周囲の人はその子の自殺衝動について情報を持っていた、という報道があります。
ラインで、準備が出来たとか、別れの言葉を送っていたりして、友人やその保護者はそのことを知っていたのだと。それで、亡くなった子のご両親が「教えてほしかった」とおっしゃっている、という報道でした。
確かに、親としては、「知ってたんなら、一言教えてくれればなんとかできたかもしれないのに」という後悔が強いと思います。なぜ、言ってくれなかったのか、と。

その気持ちはわかるような気がしますが、同時に、「教えなかった」とされる周囲の人の気持ちもわかるような気がするのです。
だって、もし、実際、自分のごく身近で、「これから死ぬから」とか「さようなら」とラインなどでメッセージを送っている人がいたり、友だちがそういうふうに言ってるんだ、と自分の子どもに言われたりしたとしたら。
それを、その子の親に伝えることって、ほんとにできるでしょうか。

だって、自殺、ですよ。一大事、ものすごく大変な、重大な事態です。
もし本当ならもちろんなんとかして止めたいとは思うものの、もし間違っていたら、それはそれで面倒なことになる、という気持ちになると思うんです。
重大な事であるがゆえに、うかつにそんなことを言ってもいいんだろうか、という迷い。
そして、そんなプライベートなこと、重大なことを話して受け入れてもらえる関係にあるかどうか、というのも、大きな要件になってくると思うのです。

ふだんから密接な付き合いをしている間柄ならともかく、子どもの親同士というのは、微妙な関係であります。
子どもを抜きにして友人関係になれるっていうのは、実はとても稀有なことで、たいていは子どもを介して当り障りのない関係を保つのがやっと、というのが実態です。
子どもが発達障害を持っているのではないか?という疑いですら、うかつに指摘することはできません。それが「非難」に聞こえてしまう人もいるからです。あるいは、「余計なお世話だ」と怒りを買ってしまい、逆効果になることもあります。
ましてや、命がかかったことであると、ほんとにうかつなことは言えない、と思ってしまうのではないでしょうか。

現実に目の前で自殺しようとしているなら、もはや待ったなしですから、迷いもなにもありません。でも、ラインなどの、二次的情報だけしかない場合、それがどこまで本当のことなのか判断がつかないのではないか、と思うんですね。
だからいつも、「後の祭り」になってしまう。
「やっぱりあれはそうだったんだ」と後から思い返すことしかできなくなってしまうのです。
そのことを責めるのは酷なんじゃないかなあと、最近つくづく思うんですよ。

問題が表面化していない時に、どれだけ将来の危惧を訴えたところで、「まだ表面化していない」ということそのものが、その危惧を「根拠の無いもの」にしてしまいます。
そうすると、「たいしたことではないのに、やたら問題を大げさにして騒ぐ人」になってしまうことすらあるわけです。ややこしいのは、ほんとに大したことない場合もあるということ。


私は結局自殺は実行しないまま、ここまで生きてきました。かするくらいのことはしましたが、表面化して騒ぎになるほどのところまではいきませんでした。
それでも、「もう生きているのがつらい」と思う時期があったので、死に魅入られてしまう、あるいは、「生きるのをやめよう」と思う気持ちにはどうしても共振してしまいます。
昨日書いていたのは、そういうところから出た感情でした。
死にたいと思ってる時に、死に至る病に罹患したり、他人から死を強要されるような事態に陥ったとき、私はいったいどんなふうに感じるのだろう、というのは長年の疑問でもあります。
案外ジタバタしてしまうのか、それとも案外冷静に受け入れてしまうのか。
そういう場面に直面していないのでいまだにわかりません。


ちょっと話がずれますが、「言えるか言えないか」というのは、けっこう大きな選択だと思うんです。
私は隠し事が下手なせいもあって、なんでもぶっちゃけてしまうほうです。
言いにくいことでも、「言いにくいことだけど、あえて言うね」と前置きして、そのかわり極力感情的な言い方を排除して、事実のみを相手に伝えることが多いのです。
この「事実のみを伝える」ということの、なんて難しいこと。
例えば「ある人の提案が却下された」という、ごく単純な事実ですら、「そっけなく断られた」とか「いやいや提案してきた」とか、さらには「そもそもその人のことをよく思っていないために、その提案を検討することすらしなかったらしい」てな具合に、歪んだりねじれたりして伝わっていきます。間に人が入れば入るほど、伝言ゲームの要領で、話がずれていくものなのです。

直接、相対して話していたとしても、お互いの意図が正確に伝わるとは限りません。
その場ではにこやかに話を続けていたとしても、別れた後に「なんなのよ、あれは」と顔を歪めたり、「ひどい言われようをされた」と感情を害していることだってありうるのです。

「お宅のお子さんが、自殺をしようとしていますよ」とふいに教えられたとき、どれくらいそれを真に受けられるか、本気にできるか、そういうことも考えてみたらどうでしょうね。
自分が伝える立場になったとき、相手がどう受け止めるかは、ふだんのつきあいかたにかかってきます。

どんなに耳に痛い事実でも、それを伝えることが必要であるかぎりは伝えるべきだ、というのは正論です。逆に、どんなに耳に痛い事実でも、それが事実であるかぎりは受け入れるべきだ、とも言えます。
それができたら、誤解や行き違いや手遅れなどということがずいぶん減るんだろうなあと思います。
でもね。
できないもんなんですよ。
自分に都合の悪いことは聞きたくないし、知りたくない。認めたくない。そういう人が多いです。
伝えたことで自分が不利になることは言いたくない、というのもよくあること。
それでも、うんと踏ん張って、事実を伝えていこう、と最近思うようになりました。
「逃げない」っていうのはこういうときにも必要な態度なんだなと。


今はもう「死にたがり」ではなくなりましたが、けっこうそういう人っているんじゃないかなあと思うんですよ。だからそれをタブー視するんじゃなくて、「ありがちな衝動の一つ」くらいに思っていられれば、その衝動に囚われて視野が狭くなってしまっている人を止めることが、もしかしたらできるんじゃないかなあと思います。
ものすごく曖昧な文章になってしまいました(汗)

今日「ほぼ日」を読んでいたら「大人の論文」というコラムですごい言葉を知りました。
「うばうんじゃない。あげなさい」っていう言葉。
私はこれを「相手を責めることで相手のプライドを奪うより、持っている情報をすべてあげなさい」というふうに読みました。
トラブルが起きた時、つい相手に非があるとして責めてしまいがちですが、それはとても不毛なことなんだと思います。関係がこじれていくだけで、なにもいいことはない。
それよりも、こちらの持っている情報を惜しみなく開示することで、前向きな解決策へたどりつくことができるのではないか、と思うんですね。
極力バイアスを排除して、あるいは、バイアスがかかっていることを十分意識して、情報を素直に伝えていく。そこに価値判断をくっつけないことも大切ですね。「そういうのはおかしいと思うんだけど」とか「そんなことはありえないんだけど」とか「ふつうじゃないと思うんだけど」といったような価値判断は、百害あって一利なしだと思います。


なんにしても、生きることは私にとっては難しいことです。なんでこんなに難しいのか、自分でもよくわかりません。
コミュニケーションも難しい。ここんとこ、毎日いっぱいいっぱいです。
わからない人にはわからないんだろうなあ。そういうそこはかとない絶望感は常に通低音のように鳴り響いています。