フェンス | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

もう10年以上前に、初めて書いた脚本「フェンス」。
私はこの脚本で、「自殺しようとしている人たちがなぜか集まってしまった」という状況を書きました。
4人の、年齢も性別も理由も状況も違う男女が、同じ場所から飛び降り自殺をしようとしてかち合ってしまうんですね。
で、「お前あっちへ行けよ」「あんたこそどっか別のとこでやりなさいよ」なんていうやりとりをする。そのうちに、最初にその場にいた男が焦れて、「じゃあ、俺が殺してやるから」と言い出すんです。
そしたら「いや、それは困る」「なんで」「そりゃ殺されるのは嫌だよ」「なんで?どうせ死ぬつもりだったんだから同じことじゃないか」ってな具合に展開するわけです。

これを書いたとき、私はほんとにこの答えが知りたかった。
飛び降りて死ぬつもりでビルの屋上に来たとして、別の人から違う死に方(この芝居では、ナイフで刺すという方法を提示しました)を提案されたら、どうなんだろう、どう思うんだろう。
求めている結果は同じですよね? どっちにしろ死ぬ。
死ぬつもりなんだから、別に自分で飛び降りなくても、刺し殺してくれるというならそっちを選んでも構わないんじゃないだろうか、と思ったのです。
セリフとしては「自分で死ぬのと、他人に殺されるのでは全然違う」と書きました。
やっぱり「自分の意思」がどれくらい関わるかって重要なことかな、とも思ったもんですからね。

自分で死のうとするときって、最後まで生存本能とのせめぎあいになるものだと思うのです。
だって、肉体は生き延びようとするものですから。「死にたい」というのは、脳が考えていることに過ぎないと思うのです。
ほんとは「死」を望むというよりは、「生きているのが辛いからそれをやめたい」ということなんじゃないでしょうか。結果は同じことでも、望んでいる内容はまったく正反対なんです。

だからこそ、問答無用で外部から命を絶たれるのは嫌だ、と思うのかしらねえ。
いや、そう思うんじゃなかろうか、と考えるわけです。

しかししかし。
例えば、もうとことん突き詰めて、本気で命を絶とうとしている人がいたとして、そこに思いがけなく「俺が殺してやるよ」という人が現れたとしたら。
いったいどういう反応をするものなんでしょうか。

私は、なんとなく、「これ幸い」という感じを持っているんです。
自分で自分の命を絶つのはどうしても怖くてためらってしまう。むしろ他人にばっさりやってもらえば、ためらうヒマもないんじゃないか、なんて。

案外この感覚はありなのかな、と思ったのは、先日東野圭吾さんの新刊を読んだときでした。
登場人物の一人が、徹底的に自分を無価値だと思っていて、いつも自分が生きていてはいけないと思っています。その人のところへ、「殺してやる」と言ってとある人物が現れた、という場面があるのです。そのとき、その人は「よかった、これで死ねる」と思う、と描写されているんですね。あ、やっぱり、そういう感覚ってありなんだよな、と、やけに納得してしまいました。

自分を罰するために死にたいと思う人なら、他人からの殺意ですら歓迎してしまうところがあるのかもしれない。
まあ、あんまり普遍的な心理ではないですけどね。

たまたま書いていたシナリオが、そういう話でした。提出はしなかったんですけども。
「自殺を決意した少年がバスジャックに遭遇してしまい、犯人に殺されそうになる。しかし少年はむしろさっさと殺してくれと頼むので、犯人が臆してしまう」という話。
これを理解してもらうには20枚では難しいと思ったので、書くのはやめたんですけども。

ありきたりに考えるなら、ほんとに命の危機に瀕したら、一気に生存本能が発揮されて「死にたくない!」と思うんでしょうね。
事実、戦争中などの、常に命の危機が迫っている情勢では、自殺はとても少なくなるそうですし。
精神的なことで死を望んでいるような状態であるなら、本気の危機に出会ってはっと覚醒するということは十分考えられます。
でももし、そんな状況ですら自分の死を望むほど、深く絶望していたとしたら。
「嬉しい、やっと死ねる」って思うことだってあるかもしれない、と思うんです。


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なんだか考えなくてはいけないことがたくさんあって、ややキャパオーバー気味です。
この話は、また明日、視点を変えて考えてみることにします。

続く……かもしれない。