静かに滅びていく | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

今朝の新聞でちょっと面白い記事を読みました。

「疲労を数値化してケア」というタイトルで、この時期、知らず知らずのうちにたまった疲労をなんとかしましょう、というような内容。
疲労の原因や症状などが簡単にまとめて述べられているのですが、私が気になったのは、「受診のタイミング」。
目安としては、「朝起きた時の爽快感が一つの基準」になるんだそうです。
目覚めた時に爽快感がなく疲労感が残っている状態が1週間続くようであれば、受診を考えたほうがいいのだとか。
そのほかにも、物を落としやすくなったり、つまずいたりするのも疲労症状の一つなんだそうです。

「え~?」と思いましたね。
だって、私は朝目が覚めた時に、爽快感なんて感じたこと一度もないですよ。
そういう話は聞いたことがあるので、そんなふうに感じて爽やかに目覚められる羨ましい人もいるんだろうとは思いますが、少なくとも私はそうじゃないんですね。
特に結婚してからは、「なんとしても起きて一日の業務を遂行しなくてはならぬ」という義務を負っていますし、子どもがいたらなおさらそうです。
毎朝毎朝、「ああ、今日も一日が始まってしまう……」と思いながら、必死でベッドとお別れしております。
一日のうちで、朝がもっともしんどいのが常態になっているので、今更「1週間続いたら受診」なんてことを言われても、リンダ、困っちゃう。

まあ、私は周期的にこの「厭世的疲労感」に襲われる習性があるようなので、今がその時期だというだけかもしれません。
だいたい、春の、暖かいんだか寒いんだかわからない、やたら年度初めでゴタゴタする時期は、厭世的になりやすいんですわ。
起床時の爽快感とは一生縁がないとは思いますが、それでも、「しんどい」と自覚しないで生活できるときもあるので、そのうちなんとかなるでしょう。


そういう時期に限って、疲労感が倍増するような世間のできごとを見聞きしてしまったりするもので。

原発の再稼働差し止めの訴訟で、差し止めの判決が出たとのこと。まだ確定しているわけではないので、今後変わる可能性もあるんでしょうけども。
原子力発電及びその施設に関する問題については、もうほんとに、考えるだけでも厭世的になります。
「原子力」って言っただけで、今では即「危険!」なんですもんねえ。
そりゃ、発電所が壊れて放射能がドバーッと溢れでたら危険でしょう。そこは否定しませんが、「壊れるかもしれないからやめて」とか「何かあったら危ないから止めて」っていうのは、何も原子力発電所だけに限ったことじゃないんじゃないかと思うんですよ。
危ないって言い出したらなんだって危ない。
火力発電所が、メンテナンス不足や老朽化で壊れることだって危ないし、もちろん大きな地震が起きたらやっぱり危ないですよ。
あの大地震の時に流れたデマで、どこぞの化学工場だかが爆発して雨に危ない物質が混じったから雨に濡れないようにして、っていうのがありましたが、「人間が作り出した化学物質」という点では火力発電所だって同じだと思うんですよね。
水力発電だって、さんざんダムが自然破壊だと批判されましたし、風力発電も低周波による被害が実は存在していたりもする。
だからダメだっていうんじゃないですけど、なんにだってメリットデメリットがあるものです。
今の日本の社会は、電気の存在を抜きにして成立することはできないところへ来てしまっているので、そこを軽視するやり方は非現実的だよなあと思うんですよ。

人口の減少についても、人が少ない社会だっていいじゃないか、という意見がありますが、人が少なくなったら、現状維持していくことが難しくなる、ということについてあまり考慮されてない気がします。
ふだんあまり意識しないようなインフラは、たくさんの人がいることで成立しています。
電気ガス水道はもとより、流通システムや、それを利用した様々な業種も、人がたくさんいるから成り立つものです。
自分の目の前から鬱陶しい人混みが消える、ということではないんですよね。
なんだか、都合のいいところだけ見て、「別に人口が減ったっていいじゃないか」と言っているようにしか思えないのです。

少子化を憂えているのがどういった人たちなのかわかりませんが、実際に目の前にいる親子、子どもに対しては冷たい対応をとっていることも多く、最後には「自己責任」で本人のせいにしてすませてしまう。
実際に出産するのは女性なので、女性ばかりが非難されがち。でも妊娠は女性だけではできないんですけどねえ。まるで、女が自分で勝手に操作して妊娠しているかのような言われようをされることは、今でもよくあります。産んでも育てなかったら非難するし、育てていても、ちょっとでも周囲に迷惑をかけると非難する。子どもが成人しても何かにつけて母親を引き合いに出して非難する。働いても非難、働かなくても非難。どっちを向いても母親を非難する言説ばかり。
神格化された「母親像」があって、ごくまれにそれに合致してしまう才能のある人もいて、そうなると普通の人間である母親たちは、ダメ出ししかされないわけです。
これ、同じ女性同士でもやるんですから、ほんと逃げ場はないです。


なんだかどんどん袋小路へ入り込んでいっているような気がして息苦しいです。
なんでもかんでも、100%を求めすぎなんじゃないのかなあ。
100%絶対安全なものなんて存在しないのに。
みんな不安なのかなあ。不安になると、100%絶対安全なものを求めたくなります。
でも、人間そのものが100%ってことはないんだから、人間のやることに100%なんてありえないと思うんですけど。

なんかもう、みんなどうなりたいのか、わからなくなっています。
反原発で、原発廃止はいいですけど、そのあとどうするつもりなのかなあ。廃止するにしたって、それをやってくれる人がいないと、ただ止めただけじゃ全然問題は解決しないのに、あんなに悪いイメージばっかり盛り上げたら、誰もやろうとはしなくなると思うんだけど。
代替エネルギーはどうなってるのかなあ。っていうかその研究のための費用はどこから出るんでしょうね。人が減ってインフラが機能しなくなって行くことに対する手当はどうするのかしら。
私なんぞが頭を悩ませたところでどうなるものでもないんですけど、少なくとも無邪気に反原発の署名をする気にはなれないですね。


うーむ。やっぱり疲労が蓄積しちゃってんのかしら。
何をどう考えても厭世的になってしまうわ(>_<)