人を憎んで罪を憎まず | 10月の蝉

10月の蝉

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「罪を憎んで人を憎まず」といいますが。
たぶん、人の本質としてはタイトルに書いたように、「人を憎んで罪を憎まず」なんだろうなと、つくづく思うようになりました。

その人個人と、その人が為したことを区別できない。
だから、行為を糾弾するときには、その行為者である人の存在そのものを攻撃せずにはいられないのではなかろうかと。

「罪」というのは、抽象的概念です。
集団の中の決め事や慣習に背くこと、集団を形成する大多数の人たちの感情を害することを、「罪である」と規定しているんですね。
それはたぶん、反射的な反応なんだと思うんですよ。
「なにをするんだ」「なんて悪いことをするんだ」と大勢が反発し立腹するようなこと。
それが「罪」なのです。

罪にも2種類あって、法律で定められたものと、慣習や感情から生まれる成文化されていないものに分かれます。
前者は、警察に逮捕されてしまうような罪。後者は、法律には触れないけれども、悪感情を生み出してしまうようなもの。

日本は罪刑法定主義をとっていますから、法律に反したことをすると罪になります。
この場合は、「法律に違反した」部分のみが刑罰の対象となり、刑の軽重も法律によって判断されます。
だから、何か法に触れるようなことをした人でも、罪を償えば(法律に規定された処罰を受けるという意味)、それで終わりになるはずなのです。

ところが、これはあくまでも、そういう理屈、そういう論理、というだけのことなんですよねえ。
実際には、逮捕された時点で、その人の存在そのものが「悪」として認定されてしまうし、刑罰を受けても、「それで終わりだと思うなよ」という心理が当たり前のように存在しています。

罪は償ったはずなのに、「前科がある」として警戒されるのは、その罪と人が分かちがたく結びついていると考えられているからだと思います。

人の(もしかしたら日本人の)本来持っている感覚っていうのは、結局のところ、「一度でも悪い事をしたやつは悪いやつであり、断固排除すべきである」というものなんじゃないかなあと思うことがよくあります。
ある人の行為と、その人の存在を分けて考えることができないから、一度でも自分に不利益をもたらしたら、そいつはずーっと悪いやつになる、と思ってしまう。

なにか事件が起きると、必ず「なぜそんなことをしたのか?」という問いが発せられます。
ところが、そうやって問いかけておきながら、たとえば当人が、あるいは別の人でも、事情を説明しようとすると、「そんなことは言い訳にはならない」とか「どんな事情があるにせよ、悪いことは悪い」とはねつけてしまいます。
私はあれがいつも不思議でならない。じゃあ、なんでそんなことを聞くんでしょう。
「なぜそんなことをしたのか?」と聞くから、これこれこういった成り行き、経緯、事情があって、と説明しているにも関わらず、「そんな言い訳は聞きたくない」という。

よく、発達障害児が何か失敗してしまったときに、「なんでそんなことするの」と怒られて、律儀に事情を説明しようとし、さらなる怒りを買ってしまう、というパターンがあります。
これは、「なんでそんなことをするの」という言葉を、文字通り「理由を聞かれている」と判断するから事情を説明し始めるんですが、言ってる方はそういう意味で言ってるんじゃないんですね。ほんとは理由や事情なんて聞く気はないのです。これから怒るぞ、という宣言であり、私は不快に思っているぞという意思表明にすぎないのです。

事件の当事者に対する世間の反応も、これによく似ているなあと思います。
なぜそんなことを、と言いながら、もう批判、非難、糾弾する気持ちしか持っていない。
とにかく攻撃したいだけなんですね。自分が不安だったり不愉快だったりするから。
口先だけで「真相を解明しなくてはいけない」とか「再発防止に努めなくてはいけない」などと言いますが、本当にそう思っているわけではなさそうです。
真相を解明したいのなら、相手の言い分を「言い訳だ」と切り捨てるだけではだめだし、本当に再発を防ぎたいなら、非難したり、排除したり、忌避したりするだけではだめだと思うんですよね。
どうも、見えないところへ追いやったり、押し潰したり、隔離したり、非難したりしさえすれば、そういった「悪」がなくなるものだ、と思っている人が多いような気がしてなりません。


CHAGE and ASKAは、ヤマハのポプコンで出てきたころからわりと好きでした。
曲も好きだったし、ASKAさんの声も好きでした。いつの間にかビッグになってしまって、いろいろ変わっていったんでしょうね。
でも、そのことと、生み出された歌とは関係ないことだと思うんです。
今回の覚せい剤にからむ逮捕によって、チャゲアスのCDなどが回収されることになったのは、非常に残念な事態だと思います。
歌に罪はないのに。作った人が逮捕されたから、覚せい剤所持・使用なんていう、薄汚れた犯罪に関わってしまったから、歌も汚れてしまった、ということなんでしょうか。
レコード会社も苦しい判断だったのかもしれませんね。そのまま販売を続けていれば、必ず、人と罪をごっちゃにした人から「犯罪者の曲を売り続けるのか」というクレームが来ると予測されますし。そういうことを言う人ってたいていは自分はファンでもないし、CDを購入したりはしないものですけどね。「正義感溢れる人」だと思いたい人なのかもしれません。

そして、罪を犯した芸能人が復帰すると必ず、「芸能界は甘い」という批判が出ます。これはもう必ず出ますね。
いったいいつまで謹慎していれば納得するのでしょう。あるいは一生世の中に出てくるなとでもいうのかなあ。
芸能人はちやほやされているように見えますから(実際そういう一面もあるでしょうが)、妬みを買いやすいということもあると思います。
そういう場合に引き合いに出されるのは、「一般人なら、罪を犯したらもう社会復帰は出来ないんだぞ」という例。
でも、そもそもその例がおかしいと思うのです。
金銭で和解したにせよ、刑務所に入ったにせよ、なんらかの形で事件が結着したのであれば、その罪はそこで不問に付してもいいはず。
そうして、もう一度やり直せるようにするのが、刑罰の本質でもあると思うのです。
にも関わらず、普通の人は、一度でも道を踏み外したらそれで人生終了である、とされていて、それが当たり前、正しいことのように思われている。
それなのに芸能人はやすやすと復帰して、またテレビに出てチャラチャラしていたり、歌だの映画だのと浮ついて浮かれているとはけしからん。
とまあ、そういう気持ちなんでしょうかね。

なんにしても、他人を許したくない社会なんだな、と思います。
自分が不利になることは絶対に我慢ならない、とか。自分が不利益を被ったことは絶対に許さない、とか。あるいは、直接自分には関わりはないけれども、自分の中にある善悪の感情を逆なでするようなできごと、人、モノは、なんとしても糾弾しなくてはいられない。
そういう気分が蔓延しているように思えてなりません。

ASKAさんが覚せい剤に依存していったことは、とても残念なことだと思います。
不安やストレスを解消する方法としては、非常にまずい方法を選んでしまったんですね。
その依存を断つためにはきちんとした薬物依存の治療を受けて欲しいと思います。
覚せい剤は繰り返してしまうみたいですよね。そこには精神的な治療も必要になってくると思うんですよ。
アルコール依存にしても、DVや虐待にしても、それを引き起こすのは、その人の性格や精神状態の歪みです。「世界」の認知の仕方に偏りがあるんですね。他の方法を知らない、ということもあります。だから、そういう人に対しては、非難するよりもまず、治療が必要だということがもっと知られるといいのにな、と思います。


チャゲアスのCDが回収になったということは、カラオケでも歌えなくなってしまうのかなあ。
印税が入るのが気に入らないっていうのもあるわけでしょ? この回収騒ぎには。
だとしたら、カラオケも危ないかも。どうなんでしょうね。しょぼん