再びれりごーの話 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

Eテレの再放送で、デーモン閣下が出演した「課外授業」を見ました。
閣下の母校の小学校で、5年生の子どもたちに「魔物になろう」という授業が行われたとのこと。ツイッターで言及している方がいたので、気になっていたのでした。

5年2組の子どもたちが、デーモン閣下によって、自分たちの思っていた常識が覆されていく様子、いろんなことに気づいていき、一歩踏みだそうとしている様子を見ていたら、なぜか胸がいっぱいになってしまいましたよ。オバチャンハナミダモロクテイケナイ。

その中の、一人の女の子のエピソードが心に残りました。
彼女は、クラスメイトから長所として、「人に優しい」というところを指摘してもらっていました。いつも、周りの人に気を配っていて、とても優しい人だと思われているらしい。

ところが、彼女自身はまさにその点を自分の欠点だと思っていたのです。
いつも人の顔色を伺い、嫌われまいとして、いい人のように振る舞ってしまっている、と。
八方美人とか、そんなふうに感じていたようでした。

授業の最後では、魔物に変身した彼女は「自分へ」という歌を作り、路上ライブを行いました。
「人に嫌われたくなくて、人の顔色を伺ってばかりいる、そんな自分でいいの?」という切ない問いかけの歌詞が耳に残りました。

他にもいろんな子がいて、どんな子のどんな意見、思いも、閣下は温かく受け入れていました。
自分の長所・短所をはっきりと自覚して行動すること。その大切さを子どもたちに教えていたのだと思いました。


で。
れりごーの話なんですが。
英語の歌詞と、日本語訳された歌詞の両方を聞いた時、なんとはなしに違和感が残ったんですね。まあ、口の形を合わせる必要があったために、あの言葉が選ばれたという事情はあるにせよ、本来の「Let it go」の意味合いと、「ありのままの自分を見せる」という訳詞の意味合いには、微妙なズレがあるように思うんです。
もっといえば、歌全体のもつニュアンスに、微妙な違いがあると。どのくらい「微妙」なのかは具体的にはわからないんですけど。
私が受けた印象では、英語の歌詞の場合、「自分が持っている、あまり人に好まれない能力を、今までは押し隠し、見つからないようにしてきた。いい子でいなくちゃいけない、という教えをひたすら守ってきたけれども、今となってはそれも意味のないことになってしまった。だってみんな私のこの能力を知ってしまったのだもの。それなら、いっそこの力を解き放ち、たとえ世界から孤立しようとも、自分の存在を自分で肯定しよう。悪く思われても構わない、人の思惑なんて気にしないわ」というような、どこか壮絶な決意を感じるんですね。
他人から認めてもらわなくてもけっこう、という強い意思を感じるのです。

これが日本語の歌詞になると、もう少し他人に対する依存が感じられるような気がします。
「ありのままの姿を見せる。ありのままの自分になる。悩んでたこともあるけど、もういいの」と、やや弱気な感じなんですよねえ。
英語版だと、自分が力を持っていることを自覚していますし、それが人からよく思われないものであるということも分かっています。今までは世間のルールに従ってきたが、これからは私の力を解き放つよ、という、どこまでも自覚的な、意思の力を感じるんですね。
日本語の方だと、まず自分を責めている感じになる。決して自分から望んだわけではないのに、恐ろしい力が勝手に自分の中に存在していて、そいつのせいで私はずっと悩み苦しんできた、という被害者的な発想。
そして、隠してきた力が発覚してしまった時に、それがありのままの私だから、みんなも認めてほしい、という願望を感じるんです。

あくまでも歌詞から受ける、私個人の感想ですけどね。

閣下の課外授業を見ていて、「人の顔色ばかり気にしてしまう」と思っていた女の子の姿が、なんとなくあの歌の日本語版の歌詞の内容とだぶりました。

小さな町内会の、これまた小さな子ども会の中でも、いろんな人間関係があります。
めんどくさいのは、子どもを介した代理戦争になってしまう側面があるということ。
直接母親同士が意見を交換するというよりは、どうしても子どもに託してモノを言うという形になりがちです。
そうすると、ごく単純な問題でもなぜかひどくこじれてめんどくさいことになったりするんですよね。
ある子とある子が一緒に登校すれば話は簡単に終わるものを、片方の子の親が別のことにこだわっていると、たったこれだけのことでも「え~、でも……」となって片が付かなくなる。
背景を探っていくと、「あの人に悪く思われているんじゃないか」という疑心暗鬼や、「どうしてあの人はああいうやり方をするのかしらね」という不平不満などが渦巻いていたりする。

とてもじゃないですけど、「ありのままの姿」を見せるどころではなく、「それ(自分の能力や本心)を解き放て」るさわぎじゃありません。

あの映画が女性に大ヒットしたのは、またあの歌を女性が歌いたがるのは、日常生活でエルサのような行動がどれくらいできないことなのかを身を持って知っているからかもしれません。
女であることの有形無形の圧力は、それを受け入れているかいないかに関わらず、女であれば一度は感じたことがあると思うんですよ。
うまく跳ね返せた人はいいですけど、自覚もなしに内在化してしまうと、今度はその人が抑圧側に回ってしまう。
女性の中にも、男性の論理で女性を非難、批判する人がいるのはそのためだと私は思っているんですが、受け入れた人であっても、心の何処かに、「世間に受け入れられにくい自分の能力や意思、感情を思いっきり解き放ちたい」という願望があるんじゃないかなあ。

だから、エルサが自分の力を解き放って氷の城を作り上げ、内部にも力を充満させていくパートや、ラストの、「明るい光の中に立つ。嵐よ吹き荒れよ。寒さは私を苦しめないわ」と歌い上げるシーンで、なんともいえない高揚感に包まれるのだと思います。

自分らしくいる、というのは、もしかしたらたった一人孤立してしまうかもしれない、という恐怖と背中合わせです。そしてその恐怖に打ち勝ち、たとえ一人になったとしても、私は私らしくいるわ、と決意するのは、相当の覚悟がいるのだと思います。
自分の評判、評価を常に他人に依存してしまうと、こんなことは怖くてできませんよね。

ランチに誘われなくても、立ち話にいれてもらえなくても、お買い物に一緒に行ってもらえなくても、私は別に平気よ、と本心から思わないと、「ママ友」グループの呪縛は解けないのだと思います。なんか、今まさにそういった類のことで、水面下でごたついているという噂を耳にしてしまって、ちょっとげんなりしているんです。
「視野を広く持つ」っていうのは、こういうときに必要なスキルなんでしょうね。
本を読んだり映画を見たりするのは、疑似体験にはうってつけなんだけどなあ。


というわけで(どういうわけ?w)私は、れりごーは英語バーションのヒリヒリする感じのほうが好きです。