死は誰のものか | 10月の蝉

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婚約者が突然の事故によって遷延性意識障害(いわゆる植物状態)になってしまった。残された家族は激しく動揺する。そんな中、婚約者の部屋から「尊厳死」に関する書類が見つかる。どうやら婚約者は尊厳死を望んでいたようだが、家族はそのことを全く知らなかった。いったいどうすればいいのか。


これは、昨日読んだ「無言の旅人」(仙川環)という小説の概要なんですけれども。


読み終わって最初に思ったのは、「いったい死とは誰のものなのか」ということでした。誰のもの、というか、誰にとっての「死」なのか、ということですね。

池田晶子さんはその哲学エッセイの中で、何度も、「自己にとっては死は存在しない」と述べています。死んでいるとき自己はすでに存在していないのだから、存在していない者にとっては死は無である、と。


今まで、この「尊厳死」や「脳死」について考えるとき、その主体は自分でした。

「私」が植物状態になったら、とか、「私」が脳死状態になったら、というふうに考えていました。そうなったら、無駄な延命治療はやめてほしいなあとか、脳死を死と考えて臓器提供してほしいなあ、なんて思っていました。

自分の死は、自分で決める、ということですね。そしてそれを考えているとき、自明のことですが、まだ自分は生きています。生きている状態で、つまり意思表示できる状態でそのことを考えている。


しかし、この小説を読んで、目から鱗というか、別の視点をくっきりと意識することになりました。

もし、自分が植物状態なり脳死状態なりになったとき、そのときはすでに私は何の意思表示もすることができません。もう死んでしまいたいと思っているのか、いややっぱりもう少し生かしておいてほしいと思っているのか、それを外部に知らせる手段がないのです。

そのために、事前に「尊厳死要望書」や「臓器提供意思表示カード」を作成しておくわけですが、そういうものを用意したとしても、家族がそれを使ってくれるという保証はどこにもないのです。


小説に沿って話を進めますと、この小説ではまず母親が猛烈に反対します。見つかった要望書を握りつぶしてしまえばいいのだ、と主張するわけです。わが子が死ぬということをどうしても受け入れられない。もはや理屈ではなく、ひたすら感情だけです。要望書を受け入れたらすぐに殺されてしまう、というふうに思うわけですね。

父親は、少し理性で考えます。感情としてはとうてい受け入れたくはないが、それが息子の望みなのであれば、かなえてやるべきではないのか、と思い悩むのです。

婚約者の女性は、最初拒否反応を示しますが、やがて父親と同じように、彼の願いをかなえてやるべきではないのかと思うようになるのです。

彼には姉が一人いるのですが、こういう場合、兄弟というのは微妙な立場になります。

この4人が、苦悩の末に、尊厳死を受け入れようとするんですが、物語はここから急展開を見せます。それは実際に読んでいただくとして。


母親の態度は、小説ですから多少誇張されてはいるものの、こういう反応をする人はたくさんいます。というかこれが一般的な反応なのではないでしょうか。事前に何度も話し合いをしたならともかく、ある日突然事故で意識が戻らなくなり、その上「尊厳死」の要望書が出てきたら受け入れられないのが普通でしょう。

息子はおそらくこういう反応をも考慮に入れていたのでしょう、ある特殊な手段を用意していたわけですが、それはつまり、そうでもしないと絶対に自分の意思が通らないだろうと思っていたということです。


生きている時ですら、自分の意思が通るかどうかというのは難しいものがあります。特にそれが親子の間では。親は常に自分が一番子どものことを考えていると思っています。それはまあ当然のことで、そうでなければ子供を育てることなんてできないわけですが。問題は「一番考えている」ということと「子供のことを理解している」は必ずしも一致しない、ということです。たしかによかれと思ってあれこれ考えてくれてはいるのでしょうが、それが子供にとってもいいかどうか、というのは疑問です。なぜなら子供とはいえ別個の人格だから。ここをどうしても親は忘れてしまいがちなんですね。親子間の問題のほとんどはここから発生しているのではないかと思うくらいです。


にしても、生き死にの問題を自分だけで決めてしまうというのはやはりまずいように思いました。自己の死は、自分にとっては存在しないものですが、他者にとっては厳然と存在するもので、むしろ、他者にとってのみ「死」は存在するのではないか。

その人を失う悲しみ、苦しみ、喪失感、それはすべて他者が感じるものです。

我が子を失う悲しみ、親を失う悲しみ、配偶者を失う悲しみ、兄弟を失う悲しみ。

そういうものを思うと、自分の死を自分で決めるということがとても思いあがった行為のように思われてきます。

たしかに、「スパゲティ症候群」といわれるような状態は、どちらにとっても苦しいものでしょうが、「それでもこの世に存在していてほしい」と思う人はいるのです。


自分の大切な人が一番嫌がっていた死に方をさせてしまった、という後悔や、大切な人の望みをかなえてあげられなかった、という後悔もあります。作中にも何度がこのことが言及されます。ただそれも「自分の死」というものを自分だけのものだと考え、「無駄な」延命治療はいやだ、と思っていたのではないか。自分は「無駄だ」と思っても周囲の人にとっては必要な時間なのではないか。そんなふうにも思いました。




池田さんのエッセイを読んでいるとき、「死は常に他人ものである」という言い方がなかなか腑に落ちなかったのですが、今回この小説を読んで初めてすとんと落ちてきました。

自分の死に方についてあれこれ指図するということは、あんまり意味がないのかもしれないですね。