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2016年06月14日

わたしと服飾についての小話

テーマ:かわいいもの
1つ前の号の「SWITCH」は小泉今日子特集で、表紙では、赤いジャージを着たキョンキョンが原宿のどこかをバックに立っていました。
わたしはキョンキョンに対してそれほど思い入れはないのだけど、キョンキョンが原宿というキーワードと結びついたとたん、特別な存在にメタモルフォーゼしてしまい、気がつけば本を抱えてレジに向かっていました。思えば、数年前に発売された『原宿百景』というタイトルの、「SWITCH」でのキョンキョンの連載をまとめた単行本も持っているわたくしです。
「SWITCH」では、スタイリストの伊賀大介氏によるひと言コメントがついていて、キョンキョンって、アイドルで女優で、文章も評価されたりしているけれど、実は最高にファッションの人なんだわ!と、なんだか感動を以て納得したのでした。モデルでもない、若くもない、身長も小さいのに、本当に何でも似合ってしまう。ミルク、シアタープロダクツ、メルシーボクー、キャンディーストリッパーでさえも、キョンキョンが着ればまったく痛くないのであります。容貌がいいからってのは大前提としても、40を越えてもさらっと原宿ファッションを着こなす神業……。ちなみに、今回のグラビアでキョンキョンが着ていたミントデザインズ×フレッドペリーのワンピースは、実はわたしも持っております。
同じころに発売された「MEKURU」のキョンキョン特集の方が売れているっぽかったけど、わたしにとっては、ファッションの人としてのキョンキョン、そして原宿を舞台にした「SWITCH」の特集の方が、遙かに重要で、興味をそそられます。
原宿とキョンキョンと云えば、昔、旅仲間と原宿の「大炊宴」で飲んでいたとき、友達が「窓際の席、キョンキョンがいるよ」と小声で囁いてきて、度肝を抜かれたことを思い出します。わたしの席からはとても見づらかったのですが、無理して振り返ってみると、確かにキョンキョンが座っていました。あまりにも普通に連れの男性と談笑していて(恋人という感じではなかったです)しかしやっぱりキョンキョンであるという事実に、胸がざわざわしたのを今も覚えています。

……閑話休題。キョンキョンの話が長くなってしまいました(実はわたしはファンなのだろうか)
「かわいいもの」シリーズと称した爆買いコーナーが、いつの間にかふっつりと途絶えているのはわたしの生活や精神になにか大きな変化でもあったのだろうか? 不妊治療のために貯蓄の鬼と化しているのだろうか? などと思っていた読者の皆さま。安心してください、まったくそんなことはありません(泣)。
単に写真を撮って記事を書いてアップする余裕がないだけで、かわいいもの(主に服飾)道楽は今もなお、続いております。いや、続けちゃいけないだろう! と思うけれど、もはやこれは宿痾……。アルコール中毒者は病院に送られますが、幸か不幸か、かわいいもの中毒者は病人とは見なされないどころか資本主義社会にとってはいいカモなので、野に放たれたまま、病を抱えて生きているのです。

今勤めているの会社の面接を受けたとき、部署の上長から「もし入社されることになったら、服装は変えていただく必要があるかもしれませんね」と、あくまでもやわらかい物言いで、しかしはっきりと云われました。
そして、転職した年は、その言葉が象徴するように服装の自由との戦いになりました(冬の時代)。
最初の頃は自分なりに気を遣って、手持ちの服の中でもなるべく地味なものを選びに選び、その後、新たに買う服も全面ドーナツプリントとかではなく胸のあたりにさらっとMILKのロゴのみ、しかしパフスリーブでちょっぴり主張する程度に留める日々が続きました。Jane Marpleなんかは上のラインのドン・ル・サロンになると大人っぽいものも多いので、これからはこっちの路線にするか……と、自分の中で折り合いをつけようとしていました。
それでもつい、自分らしさ(爆)がちょいちょい顔を出してしまい、耳元にチェリーをぶら下げたり、靴下にイチゴをくっつけたりしているうちに、当局、いや当時の上司からがっちり睨まれ、後から聞いた話では「またあんな服を着て!」と裏でかなり怒られていたようです。いや、裏だけでなく表立って「そんな靴で、○○○○(某高級ブランド)の展示会に来ないでくれる!?」と注意を受けたこともありました。ちなみにこの靴というのは、VOPPER TOKYOの黒い厚底靴で、黒の無地、別珍素材で、わたしの持っている靴の中では比較的シンプルな方なのですが……そんな説明は通用しません。まあ、その後○○○○で見たコレクションは、無地の厚底よりよっぽどぶっ飛んだカラー&デザインの靴がずらりと並んでいたのですがね。

一時は、自分の能面みたいなビジュアルを生かせそうな、シンプル&ユニセックス路線に走ろうかと思いつめたこともありました。それはそれで、悪くないと思いつつも、これまで買い続けてきた好きな服といきなり決別するのは、貧乏根性がしみついていることもあり、身を切るような試練です。
しかし翌年、GUCCIのクリティブディレクターが変わったことで、風向きが変わりました。先輩社員から「今季のグッチ、すごく好きそうな世界観よ!」と興奮気味に云われ、見てみればなるほど、KEITA MARUYAMAを髣髴とさせるガーリッシュなお花や自然のモチーフに、リボンやフリルやレースが多用され、ロリータテイストすら漂わせるコレクション。もしや、ついにフリフリの時代が来ましたか?!
それ以上に、皆さんの目が慣れてきたのでしょう、わたしが自主規制していた服も、おそるおそる解禁してみると、一瞬刮目されはするものの、それほど大騒ぎされなくなりました。それどころか、一部の人たちには楽しみにされ、ついには会社の公式インスタにまで上がってしまったことも……(はわわ)。
まあ別におしゃれな人ということではなく、半分道化みたいな感じなんだと思いますがね……。これで調子こいていたらまた思わぬ落とし穴にはまりそうですが、怒られて委縮しているよりは100倍幸せです。


わたしにとって、やっぱり服、というか、好きな服を着るという行為は、自由の象徴なのです。誰かのために着る服じゃなく、ただ自分のために、自分が好きな服を着る。
一般的に見れば、わたしはMILKを始めとするかわいい服が似合うタイプの容貌ではありません。まして、もうすぐ30代が終わろうとしている昨今など、半ば冗談で云っていた「ミルクを着た妖怪」というホラーは、日々現実化しつつあります。
しかし、あまりにしつこくこれらの服を着ていたがために、もはや、似合わないだの年甲斐もないだのという真っ当な指摘をする人もいませんし、むしろわたしのアイデンティティと一体化しつつあります。
そこに固執するあまり、物理的および金銭的にはとても不自由しているのがなんとも云えず複雑な気分ですが、精神的な意味での自由を支えてくれているのは、やっぱり服飾なのです(あとは旅への思い)。

ちなみに、僕が人生で一番服にお金をかけてたのは、人生で一番貧乏な時でした。逆に言えば、金持ちだから服にお金をかけれるってのは、所詮、服なんかあまり好きじゃないってことでしょう。渇いてる時に求めるものこそ。満たされてる時に与えたいものこそ。

これは、KEISUKE KANDAのデザイナー、神田恵介さんのツイート。まるでわたしを擁護してくれるかのような(笑)。
わたしがいつか、ほんものの自由(ってなんだろ?)を手に入れたら、服飾で武装する必要はなくなるのかもしれません。でも、社会のなかで、せめて心だけでも自由でいたいと思うとき、わたしはどうしても、かわいいものを買って装着せずにはいられないのです。
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2016年04月14日

労働なき世界

テーマ:上京後
年間の80%くらい、あー休みたい……としみじみ、切に思っています。
自分では、比較的頑張れると踏んで選んだ職業ではありますけれども、実はまったく向いていない、いやそもそも、働くこと自体向いていないのかもと思うことが、多々あります。

そんなときに、仕事のことを真剣に考え、わたしの努力が、能力が足りないんだ、わああああもう役に立たないから死んだほうがいいですかねみたいなドツボにはまらないための、処方箋的な本を、今回はご紹介してみたいと思います。
働かないで食べていく系の本はいろいろとありますが、大半は、投資や資産運用やアフィリエイトで途方もない貯金を築いてから(或いは、自動的に稼げるしくみを作ってから)アーリーリタイア、という道筋を提示しています。怪しげな情報商材とかもそうですね。
しかし、そういうのは結局、会社には雇われなくても働かないといけませんし、努力も才覚も必要ですから、やはり選ばれし人しかできないわけです。
ところが下記の本は、純粋に”働かない”ことを追求・推奨するという点で、アーリーリタイア系の本とは根本的に違います。まあ、これはこれで難しいのかもしれませんが、社会的に無能な人間にとっては、いっそ働かないという選択肢もあるのだと思うことで、とりあえず自爆を思いとどまるくらいの勇気は涌いてくるってものです。まあ、共感する人の方が少なそうなので、今回はいつにも増して、横目で読んで下されば。

新宿の「模索舎」は、家から自転車で行けることもあって、予定のない週末にはよく行っています。小さなお店の存続を願う身としては、最低1冊を購入して帰ろうという気構えがあるのですが、あまりに興味深い商品ラインナップなので、予定外の冊数になることもしばしばです。
そんな模索舎で、昨年見つけたのが、栗原康さんの『はたらかないで、たらふく食べたい』。まるでわたしの心境を露出したかのようなタイトルに、かわいらしい装丁も相まって、即決購入でした。
栗原さんは、いま気鋭の、そしてイケメン学者として売り出し中(?)の政治学者です。と云ってもその実態は、30代半ば、非常勤講師、年金暮らしの両親と同居。年収は10万円。月9ドラマ「デート」の高等遊民・長谷川博己を地でいくような人となりなのです。わたしはあの高等遊民に少なからず共感を抱いていたので、当然この栗原さんにも同じように、いやむしろ実在の人物なので余計にシンパシーを感じたのでした(とは云え、仮にも先生であり、本まで出せている人なのでドラマの高等遊民とイコールにしたら怒られそうですが……)。

現代人は働かないでぶらぶらしていることに、ある種の罪悪感を覚えるようしっかり刷り込まれているので、彼のように堂々と、「キリギリスとして生きて何が悪い!」と宣言する言説は、聞く気にさえなれないのではないでしょうか。甘ったれるな、子どもかお前は、社会人として不真面目だ……いくらでも批判できそうです。第一、こんな考えがメジャーになっては、社会が成り立ちませんしね!
……でも、so what? 社会を成り立たせるためにわたしは生まれてきたのでしょうか? 社会の側から見ればそうだとしても、わたしの側から見ればそれはとるに足らないことであり、社会のために生まれてきたなんて思ったら、人生がますます寂しいものになりそうです。人として立派である、という幻想のために、自分を押し殺して我慢して働くことが美徳とされている世界。その世界の一助を担ぐことに人生を捧げているなんて、ああ、今こうして言葉にしただけで、空しさの靄に包まれます(苦笑)。
これはベーシックインカムの是非とも関わってくるのですけど、労働と、賃金=生存のためのリソースが結びついているということが、人間を激しく不自由に縛っていると思います。生存にまったく必要のない服飾(精神的武装という意味では生存にも関わってくるけれども)で散財しているわたしが云っても何の説得力もないものの、生存だけでも保障されていたら、身を粉にして働く必要もないのにな、疲れたら1年くらい休めるのにな、自分のために時間を使えるのにな、って。
彼の論説を、幼稚な戯言だとせせら笑ったところで、わたしも含め大多数の人間に、根深い病理としての奴隷根性があることは認めざるを得ないと思います。
「生の負債化」と彼は説きます。あらかじめ負わされる、労働や結婚、納税、道徳といった、特に理由も分からずに、とにかく生きていくうえでせねばならないこととして認識されているこれらを、栗原さんはばっさりと解体します。

「これがおもしろいとおもってわれをわすれ、なにかに夢中になってのめりこんだ経験のないひとなんているのだろうか。あとは、それがやましいことだとおもわなければいいだけのことだ」
「なんの負い目も感じずに、好きなことをやってしまえばいい」
自由ってどういうことなのか? 労働に人生を食い潰されていると思うとき、それでもやっぱり働かねばならない、という主旨のどこかで聞いたことのあるような説教を読むよりもずっと、精神がラクになります。
また、一遍上人、高野長英、本居宜長、大杉栄といった歴史上の人物から、少しずつそのノウハウを抽出しつつ、時代を飛び回り、縦横無尽に放談が進むので、じつにドライブ感あふれる読書体験でした。
栗原さんは専門がアナーキズム研究ということで、大杉栄の評伝『大杉栄伝・永遠のアナキズム』も上梓しています。これがまた面白く、それまで興味のなかった「大逆事件」周辺のことを知るよいきっかけになりました。金子光晴御大といい、大正時代はぶっ飛んだ文化人が多数輩出されていますね。そして、つい最近出たばかりの新刊は、大杉栄のパートナー、伊藤野枝の評伝! これも早く読まねばなりますまい。

発売当初、近所の大型書店の新刊コーナーでたまたま目にし、興味を引かれて買いました。
軽い読み物ではありますが、金を稼いでからアーリーリタイアを推奨する本とは違い、ほとんど稼がずにリタイア……いや、“隠居”した男性の実録という貴重な本。しかも、まだ20代!20代本といったら、『20代でしておきたい17のこと』やら『20代で年収の9割は決まる』やら、将来への不安を煽るタイトルが多い中、隠居とは実に痛快です。
もう5年くらい隠居しているそうです。東京郊外(多摩)のアパートに住み、週2回介護施設で働いて、月に7万円台の生活費(家賃などすべて含む)で暮らす。数字だけで見れば、完全に低所得者層になるわけですが……。
本に関するインタビューで、「(自由時間には)どのようなことをしているんですか?」という質問に、「掃除、洗濯、散歩、読書、料理、長風呂、メールチェック、食材の買出し、公園で日向ぼっこ、食べられる野草を摘みに行く……(以下略)」と答える著者の大原扁理さん。その清々しい回答には、低所得者にありそうな惨めさはなく、むしろ、なんて優雅で人間らしい生活なのかと羨ましくなります。
しかも、食材はオーガニックの野菜や玄米、全粒粉パンなど、安かろう悪かろうではないチョイス。そこに無料の野草が加わったりして、質素ながら体によさそうな食生活です。
ゲイの男性なので、この先、家庭や子どもといった問題からはある程度、自由ではあるのかもしれません。普通に子どものいる家庭を望んでいる人間には難しい部分もあるとは思いつつ、それでも、彼の生活のどこが間違っているのかと云われたら、何も間違っていなくて、むしろこれが正しい人の営み、“生活”なんじゃないかと思える。半年くらいは働かなくて済む貯蓄もあるみたいで、ちゃんと堅実さも兼ね備えています。
大原さんはアメブロでブログを書いているので、しっかり読者登録して、時々「いいね!」を押しています(笑)。のんびりと楽しそうに生きていて、完全なる超俗というわけでもない人間味もあって、心が洗われます。
隠居は、完全なる世捨て人ではなく、社会とたまに関わる、そのくらいのスタンスはなんとも心地よさそうです。


資本主義の範疇で自由を求めるのか、資本主義の外で自由になるのか? わたしは後者に強く惹かれながらも、前者の姿勢で生きていて、ストレスを感じるのはそのせいなのかもしれません。
でも、お金を使うことも好きだからなあ……。かのショーペンハウアー先生も、著書では孤独と禁欲を説きながら、実生活では名声や金銭や女を貪欲に求めていたそうですから、なかなかそうした快楽と手を切ることは難しそうですね。ただでさえ、あれを買えこれを買え、これがあると幸せだぞ、と世の中はけしかけてくるのですから。
……となると結局、投資込みのリタイアになっちゃうわけで。そろそろもう、細かい物品においては、だいたい欲しいものは揃ったと思うんですけどねえ…。
それにしても、こんな逸材(しかもほとんど社会と接していない!)にアクセスして本を出させた編集者はすごいです。


著者のume_ponさんとは、共通の友達が何人かいるので、薄く知り合いという感じですが、ここ数年のツイッターの論客ぶりには目を見張ります。政治的な問題が気になったとき、わりと真っ先に彼の立ち位置をチェックしています(笑)。
今は、この本よりもさらに思想が発展していると思いますが、根本的な部分は変わっていないはず。
大量の恵方巻が捨てられ、定期的に断捨離せねばならないほど物に囲まれ、空き家は増える一方。そんなに物が余っているのに、雇用は安定せず、子どもの6人に1人が貧困という世の中は、何かが著しく歪んでいないでしょうか? わたしは、街を歩きながらいつも思うのです、「高級マンションが次から次にバンバン建ってるけど、いったい誰が住めてるの?」と。ベーシックインカムの話になると、決まって財源はどこから?という議論になりますが、少なくとも物資は確実に余っているはず。直近では、パナマ文書によって、富もけっこう有り余っていることが分かったようですし……。
ume_ponさんは、あり余る富と物資を、雇用を媒介せずに、再分配というかたちで広く行き渡らせることを主張しています。貧困に陥っている子どもがいるのに恵方巻を廃棄するのも、まだ使えそうなものをゴミとして捨てるのも、空き家が増えているのにピカピカの高級マンションをバンバン建てるのもすべて、雇用を介して富を分配しようとするから起こる歪み。富と物資を、無駄なく分配することで、今の社会にある不幸の大半は解決すると云ったら云い過ぎでしょうか。
わたしは、能力のない人間は食えなくて当然、自己責任、何なら死ねばいいと思っていそうな世の中の“優秀な”人たちに対して、わたしは能力のない側の人間として、常に相容れないものを感じています。弱肉強食は自然界の掟、人間とて同じという考え方は単純で分かりやすいけれど、じゃあ何のためにここまで社会制度が構築されてきたのでしょうか。別に、徒競走でみんなで手をつないでゴールする必要もないけれど、何も生存まで脅かさなくても、と思います。
「雇用なしに富を与えたら、誰も働かなくなる」という反論が当然出てくるわけですが(生活保護に対する批判と同じく)、人工知能のイノベーションが進めば、人間はますます雇用にあぶれるはず。いや、前向きに云えば、働かなくてもよくなるわけです。まさに、「働かないで、たらふく食べられる」日が来るかもしれない。
しかし、現実はというと、世の中が加速度的に便利になって、いろんな手間や時間が短縮されているはずなのに、週休3日にはならないし、2週間の休みも許されないし、残業も休日出勤もなくなりません。労働という形で、人は本当に幸せになれるのでしょうか。


日本一有名なニート、いや、もう35歳を過ぎたのでニートとは呼ばれないようですが、phaさんの最新刊。処女作の『ニートの歩き方』は未読なのですが、二作目の『持たない幸福論』より、新刊はより整理されて読みやすかったです。
phaさんと云えば、懐かしい「世界一周バイヤー」にもエントリーされていましたっけね……。お会いする機会はありませんでしたが。
本編以上に、冒頭のインパクトが大でした。「10年後や20年後も食いっぱぐれがない仕事を見つけないといけない」「仕事をがんばるだけじゃなくて家庭のことも両立しないといけない」「健康のためにはもっと野菜を食べなきゃ、もっと運動もしなきゃ」「1日は24時間しかないのだからもっと時間を有効に使わなければダメだ」……といった、無数の“しなきゃいけないこと”が書き連ねられた見開きページ。わたしもそうだけど、現代人の頭の中って、きっとこんな感じなんだろうなあと、激しく頷きました。
これは、働かないというテーマとはずれる本ですし、読んでいるというより、お守り代わりに持っているような感じです。もう古い古い本なので、ここに書かれている内容の大半は今の時代にそぐわないですが、“失踪という手段”を覚えておこうという意味で、わたしにとっては有用な本です。
旅が終わって再就職してからというもの、ある日突然いなくなろうかな……というやや危ない妄想にずっと取りつかれています。もちろん、いつもいつもというわけではありませんが、つらくてどうしようもないなら失踪すればいい……そんな考えが、常に心のどこかにあります。結婚したばかりでそんなことを云うわたしはどうかしていますかね(汗)。
友達から聞いた話ですが、とある会社に勤めていた編集者が、ある日、PCをたたき壊して行方知れずになったとか……。これを聞いて、社会人としては「会社の備品を壊して失そうするなんて最低だ」と感想を抱くべきなのですが、わたしはどこか、痛快にさえ感じてしまうのです。

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2016年03月28日

俺は絶対不妊治療に向いてない(下)

テーマ:上京後

採卵日までは中1日、初日は点鼻薬を打ち、2日目は6時間ごとに3回、座薬を入れるという義務が課せられます。これは、早まって排卵してしまわないための対策で、うっかり忘れたりすると採卵できないこともあるらしい。
座薬は勤務中に入れねばならないため(なんかイヤだな~)、ポーチに保冷剤を入れて保管し(座薬は溶けやすいのです)、時間になったらトイレで注入。さいわい、外出予定のない日だったので何とかなる……はずだったのですが、2回目、夕方の座薬を入れ忘れたことに、夜になって気がつくという大失態を犯してしまいました。
病院に電話するにも、すでに閉院後。もはやどうしようもありません。3回目の座薬は何とか入れたものの、こんなケアレスミスで採卵できなくなったら、ほんとうに自分を殺したくなる……。


翌朝は8時15分にクリニックへ。旦那さんも採精の必要があるので同行していただきました。
こちらのクリニックは、無麻酔での採卵です。説明会で聞いていたので今さらビビってもしょうがないのですが、卵巣に針を刺すという行為が果たしてどれくらい痛いものなのか、まったく想像がつきません。
採卵に呼ばれるまでは、治療服に着替えて、トイレを済ませて、ベッドで待機。カーテンで仕切られていますが、お隣のベッドには、もう一人、採卵の人がいました。
採卵室では、わたしも含めて全員がケーキ屋さんのようなヘアキャップをかぶっていて、なんだか人体実験にでも赴くような気分になりました。
ベッドに寝て、子宮を消毒。いつもながらこの、子宮に何かをグリグリ突っ込まれるのが痛いというか、不快というかで、早く終わんないかなと思います。
わたしは、最近自分のなかでよく唱えているまじないとも祈りともつかない言葉を心の中で繰り返し、ただひたすら一連の作業が終わるのを待ちました。
しかし、肝心の採卵は、いったいいつ採卵されたのかよく分からないほど、あっけないものでした。後で思い出したのは、説明会の時に聞いた、「技術があるので他のクリニックより細い針(注射針くらい)を使うことができるから、一般的な採卵よりは痛くないはず」という話。某KLCから独立した先生の技術は、伊達じゃないということでしょうか。


結局、採卵できたのは1個だけでした。
これは座薬忘れのせいなのか何なのか分かりませんが、わたしは採卵できない可能性も考えていたので、まあ採れただけよしとしよう……という、かなり謙虚な気持ちでした。
旦那さんも無事に採精できたようで、10時半頃にはクリニックを出ることができました。
採卵日は1日安静に、と云われていましたが、全く痛くもなければ体に違和感もなかったので、そのままご飯を食べに行きました。しかも、その日の夜も飲み会があり、懸念はしつつも至って普通の体調だったため、しっかり参加。お酒はさすがに控えましたが、食欲もいつも通りでしたので、家で臥せってないで、来てよかった!と思いました(笑)。
ただ、出席者の中には自然妊娠でもうすぐ双子が産まれるという年上の友人がいて、テーブルはその話でもちきりになり、いったいわたしとの差は何なのだろう……と、しばしば物思いに沈みそうになりましたがね。


採卵が終わったとて、それはごくわずかな歩みに過ぎず、妊娠のスタートラインにすら立てていないというのが現実です。ここから毎日のように、受精確認、分割確認、そして胚盤胞確認と電話を入れなければなりません。本当に心臓に悪い行為です。
翌日の受精確認、翌々日の分割確認は無事に終わりました。あとは採卵から5日後の胚盤胞確認。ここを乗り越えれば、「アメリカ横断ウルトラクイズ」に例えると、アメリカ大陸に着陸したということになるでしょうか。いや、単に成田を出発できただけのことでしょうか。
これからいったい、どれだけ障害物を越えていかないといけないのでしょう? ホルモン調整、採卵、受精、分割、培養、移植、着床、妊娠、継続……数メートルごとにいちいち問題が出されて、1問でも不正解だったら、容赦なく帰国ですよ。クイズと違って、伊達や酔狂でやっているわけではないので、正直楽しくもありません。


果たして……5日目の朝の電話で、受精卵が5分割で止まったことを告げられました。
5日目で胚盤胞になっていなければ、その周期で移植することはできません。今は分割が止まっているけれど7日目まで培養して育てば凍結しますと云われた時点で、わたしは完全に自暴自棄になっていました。
「そんな卵、さっさと廃棄してくれや!」「こんな腐れマ●コも、もう要らねえし!」などと、ナチスの将校もびっくりぽんの優生思想が地獄の底から沸々と涌き上がり、仮にも己の体から出てきた受精卵に対しても「もう死ねばいいよ」と軽々云えるくらい、すべてを破壊し尽くしたい衝動がごうごう燃え盛ってわたしの心を焼き尽くします。年を取って少しはマシになったかと思ったけれど、やっぱわたしの本性って、所詮これか……。
すでにさわるものみな傷つけるギザギザハート状態でしたが、社畜なので仕事だけは冷静に遂行しました。仕事は基本的にやりたくないけれど、このときだけは、仕事があってよかったと思えました。


そして……7日目の朝の確認。ほとんど絶望しながらも、一縷の望みをかけずにはいられませんでしたが、結局分かったのは、正式に失敗したということでした。アメリカ妊娠ウルトラクイズにおいては、成田を飛び立つことすら叶わなかったようです。
別居している旦那さんは側にいないのでどこにもぶつける場所がなく、悲しませるだけと分かっていながらも父に電話してしまいました。父はてっきり、結婚式の準備の進捗の問い合わせかと思ったらしく、ひとしきりその話を続け、わたしももう、何事もなかったように電話を切ろうかと思いましたが、父の声を聞いていると居てもたってもいられず、洗いざらいぶちまけて案の定困惑させ、「こんなとき、男親しかおらんで悪いな」などと云わせて、文字通りの泥沼に頭から突っ込んでいました。
さらには、「結婚式のことお父さんから聞いたよ、おめでとう」とLINEを送ってきた伯母に対しても、「不妊治療がうまくいかなくて結婚式どころじゃないです、そんなことより養子縁組のことでも考えたいです」などと返事を書く始末です。我ながら、よくそんなこと書けるよな……。
伯母は母の妹で、結婚はしていますが子どもがいません。そして、詳しく聞いたことはないけれど、かつて不妊治療をしていたようです。分かってほしいという甘えがあったのは否めません。でも、こんなふうに不妊治療がうまくいかない自分を貶めることは、即ち伯母を否定していることになりはしないのか。祖母は今でも、「あの子もかわいそうに…子どもがおらんでなあ」とつぶやいたりすることがあります。そんなこと云うなよと理性では思うけれど、伯母と同じ境遇になるかもしれない自分を激しく否定しているということは、結局、伯母をかわいそうだと思っていることに他ならないのではないか。引いては、産めない女性すべてに対して……。


それにしても……何なんでしょうか、この治療って。
高いお金を払って、時間を削って、心身にダメージを受けて(わたし自身は、体の方はそんなに感じていませんが)、自分だけでなく、周りもみんな不幸にして。
旦那さんに八つ当たりする→旦那さんも嫌気がさしてくる→浮気を考える→浮気相手だと何故か一発で子どもができる→離婚……というシナリオが容易に浮かんできます。
このままだと、身内だけでは済まななくて、今はまだ大丈夫だけど、子どものいる友人すべてと会うのが死にたくなるほど苦痛になる日も、そう遠くないかもしれない。そして、子どもという子どもを憎みかねない。
不妊治療がうまくいかなくて自殺した人とかいるのかな? 子どもがほしい人が自分の命を傷つけるなんて完全にナンセンスだけど、別に子どもを生むために生きているわけじゃないけど、そのくらいのこと頭では分かるんだけど、心がついていかない。それくらいダメージが大きい。もちろん、自殺する勇気なんかない。でも、いっそのことすべてを捨てて行方不明になれないかな、くらいのことは思う。自殺しないまでも、治療が何度も失敗して、うつ病になる人はいるんじゃないのかな。
もうこれは、難病だとでも思ったほうがいっそ楽になるのかも? 特に悪いところもなく、それなりに健康体で生きてきた身としては、なかなか認めにくいですけどね……。


1回の失敗でこんなに落ち込むんじゃ、繰り返してダメだったら、どうなっちゃうんだろう。失敗にもそのうち慣れて、何も思わなくなるのかな。そのころには、貯金も底をついているだろうな。でも、クソがつくほどあきらめが悪いから、借金してでも続けようと思うのかな。
セックスしただけで無料で妊娠する人なんて、いくらでもこの世にはいるのに(なんという下品な記述w)、何でわたしはこんな目に遭うかな。まともに人生設計もせずにキリギリスみたいに好き勝手に生きてきた罰なのかな。でも、性的にはまったく奔放には生きてこなかったけどな……。
いっそのこと、すべてを諦めて、また旅にでも出られたらいいのに。望みの薄い治療にはたいたお金で、未踏の地・西アフリカや中央アジアやカリブ海の島々だって余裕で行けますって!
いつも会計の時は、「これは透明なお金なんだ」とか思って、見ないふりをしているけれど、冷静に考えたら、なんで高いお金を払ってこんな思いをしなきゃいけないのかと、ほんとうに何もかもがいやになります。金金金って、金の話ばっかしてるな、わたし……。
それでも、ネガティブの権化のようなわたしが、『ザ・シークレット』とか『マーフィーの成功法則』とかを今さら読んで、ちょっとくらいのことで落ち込まないように、自分を励ましてきたんだよ……。宇宙のカタログからたくさんプレゼントがあるはず、とか云って(笑)。
最初でダメなことなんて、よくある話なのかもしれない。でも、今後は今より確実に老いていくのに、続けても確率なんて上がるんだろうか?それこそ、宝くじを買うくらいの空しいギャンブルなんじゃないのだろうか?


この日の夜、旦那さんが横浜で仕事で、その帰りに中華街でご飯でも食べようよと誘われました。
旦那さんは旦那さんなりに気を遣ってくれているのは分かるのですが、わたしはそれこそ、動きたくないほどショックを受けており、その辺はあんまり理解されていないのかな……と思ってしまいました。ま、とりあえず美味いもんでも食べて忘れよーよ!みたいな明るいノリで来られると、え、これって旦那さんにとっては失恋した友達を慰めるくらいの他人事なのかしら?と疑心暗鬼になってしまうのでした(苦笑)。
世の中にはそもそも不妊治療に非協力的な夫というのもいるだろうし、平均的に見れば恵まれている方だとは思います。当事者感が薄いのは、男性全般に云えることなのかもしれないし、お金を出しているのがわたしだからというのもあるのかもしれません。気を遣って「次は出すよ」と云ってくれるのですが、金額見たら、きっと目玉が飛び出ると思う……。
そんなことを云いながら、結局、横浜まで出向きましたけどね(動けとるやんけ!)。たまたま通りかかった「横浜媽祖廟」の前に、子宝祈願の文字が出ていて、思わず線香とお守りまで買って神頼みしてしまいました。


実際のところ、子どもが欲しいという気持ちは、他の人よりずっと薄いと思うんです。ただもう、年齢のリミットに焦っているというだけで、相変わらず買い物好きだし、旅行はしたいし、子育てしながら今の仕事を続けられる自信は限りなくゼロに近いし……。正直、よくそんな気持ちで大枚はたけるよなあと、我ながら不思議です。
何せ、未だに旦那さんとの同居すら実現できていないふわふわした身ですから、子どもがやって来たら生活も人格も破綻すんじゃねーか?と、ふと冷静にもなります。
妊娠と不妊のことを意識するようになってから、ずっと、体と心が分裂しているような気がしています。それでも、体がすごいスピードで老いている以上(と書いているけど、実感はありません。ただ、卵巣機能が低下していると云われるからそうなんかいなと)、手をこまねいていることはできません。
今のわたしの年齢だと、合計6回まで、東京都の助成が受けられます(かかった金額の1/4くらい)。あきらめる決断をするひとつの目安はそこですが、6回というのは果たして、多いのでしょうか、少ないのでしょうか…。1回50万かかるとして、6回もやったら自動車1台は買えるし、世界3周くらいできるんじゃないですかね! 高い家賃を払えないから家探しも難航しているっていうのに、お金の使い方、大丈夫か!?
そもそも生殖能力が備わっていないというのなら、自然界の掟的にはさっさとあきらめるべきなのかも……。それならいっそ、身よりのない子どもを引き取って世話をするほうが、よっぽど意味があるような気もする。でも、それだって日本ではけっこうハードルが高いんですよね。まっ、わたしみたいな人間に預けるのは、かなり不安だけど!
それでも、あきらめの悪いわたしは、次の生理が来たらまたおとなしく病院に行くのです。膿んだ希望を抱いて……。

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2016年02月20日

俺は絶対不妊治療に向いてない(上)

テーマ:上京後

今回のタイトルは、さくら剛先生から無断でパクらせていただきました。さくらさん、すみません(号泣)。


というわけで、結婚してから始めた不妊治療のネタが少したまってきたので、一度まとめてみます。
いきなり不妊ブログに変身するのも気恥ずかしいし、元々更新頻度が遅いので通院の都度ブログを書いている余裕もないのですが、どうやら長丁場になりそうですので、ある程度区切りがついたところで不定期に排出していこうと思います。


2年前、転職の直前に、未婚でも診てくれる婦人科に通い、いろいろ調べたあげく卵管が詰まっていることが分かって、FT手術というものをしました。
それは成功しましたが、1カ月後に転職が決まって、まあいちおう卵管も通ったことだし、と、いったんそこで不妊治療は中断しました。自然妊娠を狙ってはいたものの、別居しているのでタイミングも合わないし、時たまタイミングが合ったかなと思ってもやっぱり生理が来るし…という年月を経て、昨年の結婚に至りました。
そして、会社のすぐ近くにある不妊専門クリニックの門を叩いたのが、結婚して間もなくの、11月も半ばを過ぎた頃。
そこを選んだ理由は、もちろん評判もありますが、会社との距離でした。2年前にFT手術をしたときは、家からの距離と、未婚でも大丈夫だったので西新宿の病院にしましたが(KLCじゃないです)、思いの外、通うのがたいへんでした。というのも、平日のど真ん中の時間に来院を要求されたりするからです。
今回は会社からの距離、徒歩1分。休日にあたった場合は少々面倒くさいものの、自転車でも行ける距離ですから来院がラク。今振り返ってみると、この点は正解だったと思います。

初診でのひと通りの検査は、問題ありませんでした。
ところが、何ひとつ長続きしないわたしが、もう4年以上計っている基礎体温。そんなにガタガタでもないし、ちゃんと二層に分かれているしで、ごく普通のグラフだと思っていましたが、先生の診断は「高温期の立ち上がりが悪い。つまり、卵巣機能が落ちています」ということでした。
仕事柄、残業やら不規則なスケジュールで、お世辞にも健康的な生活をしているとは言い難いので、そういうことも関係あるんですかと聞いたら、単に老化だってさ! BBAですみませんね!
さらに悪いことには、クリニックの方針として、以前FT手術をした既往歴がある場合は、初期胚での体外受精も無理なので、胚盤胞まで育てて戻す方法一択とのこと。どういうことかというと、いちばん金がかかる方法ってことです。
FTのなにがいけないのかと申しますと、癒着した管を無理やり剥がしているので、受精卵を運ぶ繊毛がごっそりハゲになっており、卵を運ぶことができなくなっている状態なんだそうで……。いや待て、そうとは限らんだろうと思うけれど、この考えに納得できなければ他を当たってくださいという感じだったので、分かりましたという他ありません。


初診は、ただただ撃沈して帰ってきました。
クリニックのやり方は、高温期を妨げている遺残卵胞をクリアにして、質のいい卵だけを採卵するという方法です。そのためには薬による調整期間というものが必要で、それには最低でも2カ月、長い人だと半年くらいかかるそう。なに、いきなりこの、先の見えない感。。。
旦那さんの同意書が必要なので、半ば事後報告的に書類を渡すと、なんで勝手なことすんのと叱られ、説明会に行ってからじゃないと判は押せないと云われてしまいました。
いちいちごもっともなんですけど、私財を投じているんだからいいじゃん…と思ってしまうあたりが、結婚した自覚が足りていないと云われるゆえんですかね。
しかし、治療も卵巣も待ってくれませんので、順序が逆にはなったものの、説明会に2人で参加して、約1カ月後、やっと同意書に判を押してもらえました。それが12月のこと。


かつて少し働いていた、おかきを箱詰めするバイトのように、ただ云われたとおりに、機械のように正確かつ従順に薬を飲んで来院し、感情など微塵も込めず、何を云われても従うのみ。毎回、自己回転開脚内診台に乗って子宮に棒をつっこまれるのも、ただの業務。
それが不妊治療に対する、もっとも傷つかずに済む方法だ。
少なくとも、調整期間中はそのような心持ちで、粛々と、云われるがままに、余計な検索も詮索もせずに過ぎていきました。
しかし、思った以上に早く採卵日が決められてからは、とたんに修羅の道になりました。
2カ月の調整期間を経た今周期、採卵しましょうということになったのです。そもそも採卵に進まなければ調整も意味がないので、もちろんそれは早く調整が済んでよかったねと喜ぶべきことではあるのですが、採卵となると、いよいよ旦那さんにも足を運んでいただかなければなりません。
同意書に判は押してもらったものの、調整期間中の詳細は特に話していなかったので、「そんな急に云われても…」ですよねえ…。でも、わたしにとっても急だったんですよ…。もっと時間かかると思っていたもんで…。そしてまた、なんでもっと事前に云ってくれないのと、ひと悶着ありました。
前々から、わたくしのこのような隠蔽体質に対して、旦那さんからは幾度となく勧告がなされてはおりました。しかし、長年染みついており、何せ世界一周も親に黙って行ったような人間なんで、なかなか治らないんですよ…とか言い訳して、ますます火に油を注ぐんですけど(笑)。
幸い、旦那さんはバイトを休むことができ、わたしも、土日祝日にも助けられてなんとか採卵日が決定。これまでのところ、待ち時間を入れて毎回2時間くらいなので、朝イチに来院できれば仕事にもギリギリ支障を来さないで済んできたけれど、この先こんな感じで、突発的に何か起こったとき、その都度対応できるんでしょうか…。生理周期は規則的な方ですが、次の生理の日まで、自分で決められるもんじゃないしね! 仕事をやめて治療に専念せざるを得ない人がいるのもむべなるかな、です。わたしは金銭的に絶対無理ですけど!


ちなみに、調整期間から採卵までの服薬は、下記のとおり。
今後、旅ではなく不妊で検索されてたどり着く人もいるかもしれませんので(涙)、少しでも参考になればと思います。

[1周期目]
生理3日目から…レトロゾール(女性ホルモンの産生を阻害し、卵胞を発育させる) 1日1回、5日分
生理7日目…プレセキュア点鼻薬(排卵を促す薬)3プッシュ
排卵日直後…マーベロン21(黄体ホルモンを促進する低容量ピル。まともな高温期を作る)、バファリン(マーベロン服薬による血栓症予防) 1日1回、14日分
高温期1週間後…マーベロン21 7日分 ※薬の効きが悪かったらしく、1日2回、朝も飲むことに

[2周期目]
生理3日目から…レトロゾール 5日分
生理7日目…ブレセキュア点鼻薬 3プッシュ
排卵日直後…ブラノバール(中容量ピル)、バファリン(血栓症予防)1日1回、14日分

[3周期目(採卵)]
生理3日目から…レトロゾール 5日分
生理11日目…プレセキュア点鼻薬 3プッシュ
採卵日前日…ボルダレン座薬 3回分


(下に続く)←ってまた、いつの更新になるやら。。。

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2016年02月15日

来るべき日(下)

テーマ:上京後
父方の祖父はわたしが中学生のころ、祖母はわたしが産まれる前に亡くなっています。
だから、というわけでもないのですけど、母の生前も、また亡くなってからも、わたしと父と弟が年末年始に帰省するのは、母方の祖父母の家であり、わたしにとっての“じいちゃんとばあちゃん”は、この祖父母のことでした。
父は外婿の立場であり、祖父母の家には母の弟である叔父夫婦がいるで少々気も使うようでしたが、疎遠にするのもかえって祖父母を悲しませることになり、祖父母が元気なうちは、一緒にお正月を過ごそうという風習になってきたのです。父と母は同郷なので、祖父母の家に滞在して、正月は近所の父方の親族にあいさつ周りに行く、というのがここ何年もの年末年始の過ごし方でした。弟はやがて、結婚して奥さんの実家(父の妹宅なのでこれまた近場)に泊まるようになりましたが、行き遅れのわたくしは、父とともに、つい最近の正月までそのように過ごしていたのです。

斎場には、通夜の1時間くらい前に到着しました。
ちょうど、祭壇の前では、斎場の人たちがじいちゃんの体を、専用の浴槽に入れて洗っているところでした。母のときも見た光景でしたが、ここでは3人がかりで洗っていました。さらに、体を洗うだけでなく、実に器用に、新しい着物に着せ替えるのです。その着物は、祖母が家から持ってきたものでした。
そういや、『おくりびと』はまだ観てなかったっけ……。もちろんこれもオプション料金だけど、お金を払っているとは云え頭が下がる仕事だよなあ……とぼんやり考えながら、その光景を凝視していました。

家族葬とは云いながら、通夜の列席者の数がそこそこ多かったのは、田舎ならではの親戚の多さによるものでした。わたしが子どもの頃に会ったかもしれない、名前だけは聞いたことがある、そんな親族たちが、じいちゃんの元に続々と集まっていました。これが仮に、大阪に住むうちの父の葬儀だったら、さすがにここまで足を運ぶ人もいないだろうなあ……。
通夜を取り仕切るのは、村の在所に古くからあるお寺の印主さんで、昔、うちのじいちゃんにも「ぼん、ぼん」と云ってずいぶんかわいがってもらったという話を、声に涙を含ませながら話していました。都市部では、お寺との繋がりなんてほとんどないですから、こういうのも田舎ならではの光景だなあと思います。

通夜は粛々と進み、食事をしたあとは、大半の親族も帰っていきました。
残っているのは祖母と、じいちゃんの弟嫁にあたるおばさんと、父とわたし、叔母夫婦くらいになりました。叔父といとこは、いったん母屋に帰って、その日泊まる親族の世話をしてからまた戻ってくるといいました。
静かになった広間の隅っこで、ぼんやりとスマホを閲覧していると、父が叔母の旦那さんに、母の病気の話を語っていました。
わたしが、母がすい臓がんだったことを知ったのは、旅から帰って来てからでした。その頃は、医者の告知義務もなかったので、父が最後まで病名を、母とわたしと弟に伏せていたらしいのです。わたしは急性すい臓炎だと聞かされていました。入院してから死ぬまでの期間の短さを思えば、わたしも気づいてもよさそうなものでしたが……どこかで信じたくなかったのでしょうかね。
何年もしてから、親戚がポロッと喋ったことで事実を知ったわけですが(知らぬは子ばかりなり…)、今さら父に問い質す気にもなれず、ただ胸の内で納得するのみでした。
わたしが聞き耳を立てているとも知らず、父が叔父と話していたところによると、死の1年前、テレビでがんの告知に関する番組を観ていたとき、母が父に、「もしわたしががんになったら、告知する?」と尋ねたらしい。父が迷った末に「告知する」と答えると、母はむちゃくちゃ怒ったそうです。そのことがあったから、父は母に病名を告げず、母も薄々は分かっていたのかも知れないけれど自分ががんであることを知らずに死にました。
わたしは、父母が単にわたしと弟の父母ではなく、一組の夫婦であったという事実に今さらながら思い至りました。前にも書いたけれど、家族と云えども、きっと知らないことの方が多いものなんだろうな……と。
しかしまあ、がんが分かったのも、死の数ヶ月前のことで、それまでは胃の調子が悪いというので近所の医者にかかって、おそらく普通に胃薬なんかを処方されていたので、わたしも長らく「お母さん、コーヒー飲み過ぎやねん」くらいの認識しかありませんでした。父は長らく、その医者のことを恨んでいたようですが、膵臓がんという病気は手遅れになるまで分からないことが多いようなので、医者が悪いとも云いきれず……。
ともあれ、わたしは母の死について、まだまだ知らないことが多すぎて、しかしほじくり返すのも気が引けて、消化できないままこんな年になってしまいました。母が死んだ年齢のほうが、もはや実年齢に近づいているというね……。わたしも、その年まで生きられる保証はどこにもありません。

弟は、その日の夜遅く、家族とともに帰ってきました。奥さんと子どもは実家に滞在し、弟だけ斎場に泊まることになりました。
今は、10時間灯り続ける渦巻き式線香もあるので、線香の火の見張りなどしなくてもよいのですが、なんだか、そんなに簡単に寝てはいけない気がして、2人して線香の番をしていました。
年に1~2度しか会わない弟と話す機会も珍しいので、他愛もない会話をダラダラとしていたら、その光景を見ていたおばさんには、「おじいさんも、こんなふうに孫2人に見守ってもらえて、幸せもんやなあ」と映ったようでした。
弟は、「じいちゃんの思い出って何やろ、と思ったとき、昔、船着き場まで送り迎えしてくれた姿が最初に浮かんできた」と云いました。わたしは、ここ数年の弱ったじいちゃんの姿で記憶をだいぶ上書きしてしまっていたので、弟に云われるまでそれを思い出すこともなかったのですが、まだ明石海峡大橋が架かる前、わたしは家族4人で、フェリーに乗って盆と正月のたびに帰省していたのです。
わたしは田舎で過ごす休暇をことのほか愛していて、大阪に帰る日の前夜は、布団のなかで声を殺して泣いていたほどでした。船着き場から船までの通路ギリギリまで、じいちゃんがいつも見送りに来てくれて、母が「こんなとこまで来んでも大丈夫やから」と苦笑していたものでした。
わたしが大人になってくると、今度は一人で電車に乗ってあっちこっちに行きたい病をよく発症させ、そのたびにじいちゃんが心配して途中の駅まで車で送ってくれたり、迎えにきたりしていました。そんなじいちゃんの姿を、どこかの駅で撮影した写真も残っています(笑)。
じいちゃんは、体がそんなに大きかったわけではないのですが、実に家長そのものといった威厳がありました。しかし、性格は仏門に入っているのかと思うほど穏やかで、地域の世話役なども進んで引き受けるタイプの優等生キャラで、道徳の教科書みたいなことをさらっと云うなあ、とよく思ったものです。優しいけれど、隙のない人でした。
だから、こんなにしっかりした人でも、年を取ると子どものように何もできなくなってしまうのか……と、ここ数年は帰省するたびにやるせない諦念を抱いていました。洗濯物のタオルをゆっくりと、しかし端と端を一分の隙もなくきっちり揃えて畳む姿だけに、昔の名残を留めていましたが、昨年はそれすらも失われていました。

棺桶に入ったじいちゃんの顔は、何度見ても眠っているようで、何度見ても、まったく同じ顔でした。だから、もう見納めだと思っても、ポイントを貯めるように何度も見ても、そこには積算がありませんでした。
昨年の晩秋、わたしよりも若いバンド関係の仲間の一人が交通事故で急逝し、お棺のなかの顔を見た時も、こんなにきれいなのに、死んでるのか……と、『タッチ』の7巻のタッちゃんみたいなことを思ったものですが、生きているのか死んでいるのかも分からないほど、ただただきれいな人形のような死体に対して、いったいどんな感情を抱けばいいのか、じいちゃんの顔を何度見ても、分かりませんでした。
ただ、この顔を父に置き換える日がいつかやって来る。そのときわたしは、耐えられるだろうか? それ以前に、わたしは年老いて弱っていく父の姿を、ちゃんと直視できるだろうか? 
誰しもいつか、己も含めて人生から退場せねばならない日が来る。人が古来、来世や天国や浄土を作りだしたのもむべなるかな、と思うほど、人の一生はあまりに移ろいやすく儚い。水よりも濃い血で結ばれているはずの家族でさえ、一生をともにする契約を結んだはずの伴侶でさえ、かりそめの縁に過ぎないのです。

斎場に泊まっていた誰もが、何となく寝るのをはばかって、何をするでもなくダラダラと起きていました。せっかく敷いた布団も、誰も手をつけようとはしませんでしたが、無理に起きて明日に差し支えてもよくないなと思い直し、わたしはひと足先に就寝。にも係わらず、翌日の葬式では何度か意識が落ちた瞬間がありました。小学生か!
正直なところ、お経を唱えている儀式のまっただ中には、悲しみだけでなく感情自体が涌いてきません。マニュアル化されていることに人は気持ちを揺さぶられにくいのか、はたまた単に、わたしが欠落しているだけなのか……。
葬式のハイライトともいうべき、棺に花を入れる”別れ花”のときは、さすがに鬼のようなわたしの目からも涙が出てきました。しかし、それもまた、周りが大泣きするから呑まれてしまっているだけという気もして……。いつも、人の死に対する正しい気持ちと態度が分からなくて、自分のことがとても不安になる。涙が出てきたときだけ、ああ、これが正しいんだと思うけれど、それもすぐに引っ込んで、あとは空洞のような心が続くばかりです。

昼から火葬場に移動し、焼き終わるまでの1時間ほど、親戚たちとともに待機場で過ごしました。
そこで感心したのは、弟が、顔もろくに知らない親戚たちとも如才なく話している様子でした。わたしがいつまでも頭の足りない娘さんという感じが抜けないのに対して、弟は姉の100倍くらい社会性が身についているように見えました。
仕事はわたしより遙かにたいへんそうだけど、好きな仕事だから続いているし、狭苦しそうなアパートに住んでいるけれど、一人前に家庭をもち、この春には3人目の子も産まれ……。それに引き替え、わたしは完全に行き遅れ、いや、生き遅れて久しく、もはやいろんなことが時間切れになりつつあるという現状。成績優秀で将来有望とされていたわたしよりも、底辺に近い学校卒で就職もなんとかありついた感じの弟の方がまともに人生を歩むことになろうとは、父ですら予想していなかったでしょう……。
そんなことを思っているうちに、じいちゃんの遺体はいよいよ骨だけになりました。お年のわりにとても立派な骨です、と斎場の人が云い、じいちゃんの長い人生を支えてきた骨は、確かに健康な人らしい力強さがありましたが、それも、菜箸を入れるとすぐにくしゃっと潰れました。
小さな骨壺に入ったじいちゃんは、家に帰って、白いベニヤ板で作った簡易的な祭壇に安置されました。

祖母は、時々大泣きしながらも、その他はしっかりしていて、伊達に長生きしてないなと感心します。それでも、伴侶を失って急激に弱ってしまうというのはよくある話。しかも、葬式が終わって続々と親戚たちが去っていくと、ものすごい空虚感に襲われたりしないでしょうか……。
気がかりではありましたが、わたしとて1日やそこらは延ばせても、いつまでも滞在できる身でもありません。こんなとき、ニートだったら1カ月くらい側に居てあげられるのにな!(そんなに要らんか)
後ろ髪を引かれながら大阪に帰る途中、昨年から老人ホームに入っている伯母(父の姉)の見舞いに行きました。
父は、じいちゃんの死については広く知らせないという家族の方針もあって、今回は寄らずに帰ろうと云いましたが(何せ狭い田舎社会なのです)、わたしには、80を過ぎた人にまた今度という機会があと何回あるんだよという焦りがあるので、少しでも機会があれば会っておかないと気が済みません。
伯母は、突然の来訪に驚いていましたが、正月に来たばかりなのに日を空けずまたやって来たことにすぐピンと来たようでした。伯母と祖母は昔からのご近所で仲がよかったこともあって、じいちゃんの死を聞いて泣き崩れました。
伯母とも、あと何度会えるのか……考えたくはないけれど、考えざるを得ません。

そしてわたしは、じいちゃんが最期まで着けていたという腕時計(どんなときも、腕時計だけはしていないと落ち着かなかったらしい)を形見に貰い受けて、また日常へと戻って行きました。
遠く離れて暮らしていたじいちゃんとわたし。生きていたとしても年に1、2回会えばいい方でした。だから、じいちゃんのいないこれからの人生も、これまでとそう変わらないのかもしれません。
でも、最後に「結婚したよ」と告げたときの崩れるような微笑みを、もう1回くらい見たかった。そんなことを云い出したら、もっと早く、自慢できるような仕事や、人並みの家庭をもった姿を見せてあげたかったなとか、キリがないんだけどさ……。
もしほんとうに死後の世界があるのなら、母と再会してくれることを切に祈るばかりです。
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2016年01月22日

来るべき日(上)

テーマ:上京後
その晩、父から珍しく電話がかかってきました。
わたしはよく用もないのに父に電話しては、「はあ~週休3日くらいの仕事があったらええのになあ」などと愚痴を吐き散らかしていますが、父の方からかかってくることは、ほとんどありません。
着信を見た時点で、少し嫌な予感がしました。それは、徳島に住む母方の祖父の訃報の電話でした。


94歳の誕生日を2日前に控えた夜、祖父――以下、じいちゃんと書きます――は病院で息を引き取りました。
母の死から16年、久しぶりの肉親の死でした。
電話口の父の声は明らかに震えていましたが、わたしは電話を切ってからも、悲しみより先に、心をどこかに落としてきたような感覚で、涙もなかなか出てきませんでした。その感じは、母を看取ったときと極めてよく似ていて、たぶんショックの大きい出来事に対しては、心が防衛反応で一時停止する傾向があるんだな、とぼんやり自己分析していました。
じいちゃんもいい加減高齢ですから、そう遠くないうちにこの日は来ると思っていました。東京で暮らすようになってからも、あと何回会えるか分からないんだと思うと、最低でも年に1回は四国まで顔を見に行かないわけにいきませんでした。しかし、ここ数年、めっきり弱ってしまい、いよいよ年1回では足りない気がして、昨年夏も数日の休暇が取れた際に帰省しました。


じいちゃんは、母の死の頃に一度肺の大きな手術をしていましたが、それ以外は、80代になってもバリバリ車を運転したり、ゲートボールの大会にもしょっちゅう出場したりと、年のわりにかなり元気な人でした。うちの父もまったく病気しませんし活動的ですが、その父ちゃんが「おじいさんが俺の年の頃は、もっとシャキシャキしとった」と感心するくらいで、身なりもきちんと気を遣っていたし、髪もフサフサ、立ち居振る舞いも含めて、いわゆる“おじいちゃん”という感じではなかったのです。そんなじいちゃんが、ある正月、こたつむりと化しているわたしをマジマジと見て、「○○(私の名前)、化粧しいや」とのたまったときは、わが身を恥じました(苦笑)。
それが、ここ数年で急激に弱っていき、本当に同じ人なのかとしばしば目を疑うほどでした。年を取ると、人はこんなにも弱々しくなってしまうものなのか……。 人は老いるにつれ子どもに戻っていくと云いますが、小さな子どものか弱さとは似て非なる、悲しくつらい弱さを、会うたびに目の当たりにするのでした。
その頃から少しずつ、わたしの中でじいちゃんの死は始まっていたと云えばいたのです。デイサービスの介護は受けているものの、さしてボケていたわけでもないのに、ただただ弱って、生命の火が刻々と消えようとしている、というような有様でした。


わたしが帰省した約1カ月後、病院に入ったと聞いて、そこがいわゆるターミナルケアの病院だと知ったとき、もう確実に別れの時が近づいているのだと、改めて思い知らされました。
今年の年始、家族総出で見舞いに行くと、じいちゃんは病院のベッドの中に小さく寝たきりで、歯が外されていて、何も喋れない状態でした。眼鏡をかけてあげないと、みんなの顔も判別できないようです。時々、弱々しくも辛そうに咳込むので、看護師に吸引器で痰を吸いに来てもらいました。こんなにどうにもならない体をもてあまして、じいちゃんは今、何を考えているんだろうな……いや、もう考えることもできないくらい弱っているのかな……。
それでも、わたしが手を握って「じいちゃん、結婚したよ」と告げると、はっきりと笑顔になって、手を強く握り返しました。その強さは、わたしの涙腺を危うく全開しそうになりました。
まだ、まだもう少しは生きられるかもしれない。今年のGWにでも、また会いに来よう。本当は旦那さんを連れて来られたら喜んでくれるだろうけど、たぶん来られないよな……とか、そんなふうに思って、でも何となく後ろ髪を引かれて、家族に囲まれるじいちゃんの姿を、いくつか写真に収めて帰りました。


木曜の夜遅くに電話があって、その時点では、土日が通夜と葬式になるだろうという予測でしたが、翌朝出社して間もなく、「斎場が空いてなくて、今夜が通夜になった」と父からの連絡が。
前日に、職場のチームの人たちには知らせてはいましたが、今日は大丈夫ですと話していたので一瞬迷いも生じたものの、血縁的に、またこれまでの恩を考えたら、葬式だけというわけにもいくまいて。その日にするつもりだった仕事を急きょ、最低限のところまで終え、早引けしていったん家に戻り、黒い服(ちゃんとした喪服がない!)やら下着やらをトートバッグにぐちゃぐちゃに詰め、午後の飛行機に乗るべく空港に向かいました。“取るものとりあえず”という言葉が、これ以上ないほどぴったりのシチュエーションでした。
人の死は待ったなし。遺体が腐敗してしまうので仕方ないのですが、母が亡くなったとき、悲しむ間もなく病院から撤退して、あれよあれよと通夜と葬儀が進んでいった一連の様子は、未だにどこか腑に落ちない感じのまま、記憶に残っています。
これからは、喪服と数珠、香典袋と薄墨筆、そして最低限の帰省セットを玄関先に置いて、いつでも人の死に備え……というのも何だか寂しい話ではありますが、年を取るということは、そういうことなのでしょうね……。

父がちょうど、大阪から車で到着する時間帯だったので、徳島の空港から斎場まで、車で拾ってもらいました。
父は、新しくなった空港に来るのは初めてらしく、ひとしきり空港についての乾燥を述べた後、
「にしても、徳島阿波おどり空港っちゅう名前が、なんやふざけてる感じで、未だに違和感あるわ。高知の龍馬空港のほうがよっぽどええわ」
「でも、徳島と云えば阿波おどりなんやし……徳島すだち空港になるよりはマシやろ?」
「いやあ……俺はすだち空港のほうがええと思う」
我が親ながら、ちょっとセンスを疑ってしまいました。しかし、こんなくだらない会話も、いつか父とも別れる日が来たら、ふと思い出して涙腺が崩壊するのかもしれません(笑)。

(下)に続きます。

P1150298 阿波おどり空港を車中から臨む。

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2016年01月05日

ご挨拶、ご報告

テーマ:上京後

あけましておめでとうございます。
まだ生きておりますので、本年もどうぞよろしくお願いいたします。
年末の休み中、一人で紅白を見ている合間にでも更新しようと思っていましたが、休みのときはしっかり休んじゃう人間なんですね、わたし……。

 

仕事始め早々にミスが発覚し、いきなり幸先の悪い1年がスタートしておりますが、気を取り直して……。
昨年末に結婚いたしました。
11月に籍を入れたのですが(いい夫婦の日ではありません)、なんかFacebookで報告というのもなあ、世界中の人に報告するのもおこがましいかなあ、直接会った人とか連絡頻度の多い人には逐一お知らせするってことでいいかなあ……なんてヒネくれた逡巡をしているうちに、所属バンドのライブの際に「結婚おめでとう!」と友達のFBにタグ付けされたり、はたまた友達の友達からの伝聞だったりで、「結婚したんですか?」というメッセージもちらほらいただき、逆に気まずい……。
しかし今さらFBで、というのもタイミングが微妙すぎるので、半ば空き家化しているこちらに書くことにしました。

 

結婚したと申しましても、“入籍しただけ”で一緒に住んでもおらず、家探しがアパートの退去期限に間に合わなかったため更新してしまい、挙式も引っ越しも全くの未定。目下、週末のみの逢瀬という、平安時代の通い婚状態……つうか、前と何も変わってねー!
職場では旧姓で働いているうえ、結婚したからといって朝礼や会議でわざわざお知らせするような雰囲気でもなく、上司やチーム、あと手続き上の都合で人事の方に細々と報告したのみでした。
年末も、夫になった人は東京の自宅で過ごし、わたしはいつも通り実家と祖父母の家に帰省して、こたつがトモダチの寝正月を過ごしておりました。向こうの両親になんだか申しわけないので、ささやかな贈り物はしましたが、うーん、これでいいのだらうか……。
そんなわけで、結婚したことをどうやって自覚したらいいのかと戸惑っており、本人の実感が薄いゆえ、報告しそびれているというのもあるかもしれません。結婚は紙切れ一枚というけれど、実に文字通りで脱力しています。

 

直に報告した友達や親類には、「なんで結婚したの?」とよく聞かれるんですが、わたしの中では、「高度不妊治療を受けるため」というのが正解です。入籍後、まずやったことといったら、免許証の書き換えと、専門クリニックの予約でしたもの……。
ただ、おめでとうムードの中でそんな答えも興ざめどころか氷水をぶっかけるようなものなので、「長いこと付き合っていたから、そろそろ区切りをつけようかと……」と、よくある回答をしております。まあそれも、決して間違っているわけではなく、お互いの親への挨拶にも行くなどそれなりに段階を踏んではきており、さてそこからどうすんの? という感じではありました。ただ、プロポーズの儀式や言葉はお互い特になかったので、最終的にどこで結婚が決められたのか、今いち記憶が定かではありません(汗)。
本当は、その区切りってやつを妊娠にしたかった、未だに悪評高いデキ婚で終わりにしたかったんですけど、神様が許してくれず、大枚はたいて不妊治療の道を、粛々と歩んでおります(まだ初期の初期ですが)。子どもができない体で結婚するのも何となく申しわけないなあというのがあったから、子どもを作るために結婚するというのは、私的には、本末転倒感がなきにしもあらずです。ってか、そこまでして子どもが欲しいのかどうか? その金はどこかの孤児院などに寄付したほうが有効なのではないか? ……など、考えれば考えるほど深みにはまっていきます。

 

なんか、こんなふうに書いていると、結婚してうれしくないのかよ!? とお叱りを受けそうですね……そんなことはないんですけどね。こんな年増の醜女をもらっていただいて、ほんとうにおありがとうございますと感謝はしているのですが、どうも、新婚イエーイ!!みたいなテンションにはならないんですよ。損な性格ぅ……。
ただただ、実感がない。これに尽きます。まるで、離人症なのかと思うくらいに。それとも、脳の老化で感情が鈍化しているんでしょうか?
正直なところ、紙切れを出しただけでは、どこか他人事のような感じがあります。昔は、結婚には何か雷のように明確な啓示や、信仰にも似た確信があるものだと思っていました。「この人と会った瞬間、結婚するってピンときた」「この人と一生添い遂げる」みたいな……。もちろん、好きな人と結婚したので幸せには違いないんですけど、長く付き合ったせいか、現実の結婚はあまりに日常と陸続きで、砂漠に引かれた見えない国境線を越えるように風景は変わらなくて、それがどうも、従来のイメージと違う。結婚が決まった瞬間、「Butterfly」とかBGMで流れてもよさそうなもんなのに(笑)。
でも、安心してください、仲よしです☆ ちなみに旦那さんは、「おかあさんといっしょ」のうたのおにいさんのような、あるいはノッポさんのような感じの人で、わたしの年甲斐もない不思議な服装を蔑むどころか褒めてくれる素晴らしく奇特な男性です。

 

金銭的な問題で、結婚式はうーん、ごにょごにょ……とお茶を濁す方向でしたが、結婚した自覚を持つためにも、ささやかでも何かしら儀式は行ったほうがいいのかもしれませんね。やっぱり、泣きながら花嫁からの手紙を読むことが、モラトリアムから抜ける第一歩なんでしょうか。
それに、一般的には人生の一大イベントと云われる結婚ですから、これまでの浪費や怠惰、不義理などについて見直すにはまたとない機会。どこまで行っても大人になれない感が付きまとっているけれど、今度こそ、この人生のカードを有効に使って、一人前の大人になりたいものです。

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2015年12月18日

巡礼風味(4)~性地and聖地編~

テーマ:
皆さま、どうもご無沙汰しています。
巡礼もようやく最終回です。いつまで放置すれば気が済むのだよ。。。

シルバーウィークの最終日はお彼岸、父とともに、母の墓がある生駒霊園へ出かけました。
いつもなら墓参りを終えたらそそくさと帰宅するところを、かねがね気になっていた隣の寺を見学したり、広大な霊園内を周回したりとにわか観光していましたが、いざ帰路につく段になり、わたしは突然気がついたのです。
信貴生駒スカイライン(有料道路)が、この墓地の目の前にあるということに!

P9236274. 墓地の隣にある寺の堂内で寝ている人。
 
 
このことが、何を意味するか? それは、新地マニアでなければおそらく分かりません。
しかし、わたしが密かに驚いていた矢先、父は父でこの有名なドライブコースが墓のこんなに近くにあるとは思っていなかったようで、「せっかくやから走ってみるか」と云い出し、わたしは何喰わぬ顔で、内心小躍りしながらその提案に乗りました。
スカイラインの先は二股に分かれており、一方が生駒山上遊園地、もう一方が宝山寺へと繋がっています。途中には、大阪平野を一望できる夜景スポットもあります。
宝山寺といえば、ガネーシャが日本風に変化した「聖天様」を祀っていることで有名なお寺。聖天様は、7代先までの子孫の福をかき集めて願いを叶えるという、強力なパワーをもっているそうです。またの名を「歓喜天」といい、その姿はガネーシャ由来の象頭をもつ、男女交合像。一般の参拝客の目の毒になると判断されているのか、宝山寺のみならず、長らく秘仏として祀られてきた神仏なのです。

P9236287 宝山寺の境内。立派な寺です。人がいない瞬間を狙って撮りましたが、この日は参拝客多めでした。

そんな、ちょっと曰くのあるご本尊も気になりますが、この一連の巡礼で宝山寺といったら、それは、関西新地最後の楽園・宝山寺新地に他なりません。しかもこの新地は、宝山寺の参道に存在しており、完全に普通の観光という隠れ蓑をまとって、しれっと新地巡礼を行えるという、唯一無二のエリアなのです。
昨日も実は、ここまで来たら、宝山寺まで制覇したかったな……という気持ちはありました。でも、さすがに昨日の流れで信太山からアクセスするには遠すぎるし、かと云って墓参りが終わって帰宅してまた出かけて……というのも億劫だしで、あまり現実的ではないなと諦めていたのです。いや、それでも生駒霊園というからには、きっと生駒スカイラインもそう遠くはないのだろうくらいの予測はあり、5%くらいの淡い期待もないではなかったのですが、まさか霊園のすぐ隣に入り口があるとは思ってもみず、これも新地の神様(って誰だろ?)のお導きであろうか……としみじみ物思いするのでした。

生駒ケーブルの「宝山寺駅」から寺までの、「観光生駒」(生駒観光ではないところが、なんだかざわざわする怪しさ)と名付けられた参道では、門前町らしく食堂やおみやげ屋、観光旅館が軒を連ね、古きよき観光地といった風情なのですが、この観光旅館の一部(数軒)が、件の新地なのです。
料亭・旅館風看板でそれと分かったこれまでの新地よりも、さらに水面下に潜っての営業形態。何しろ、どこからどう見ても普通の旅館です。その手の旅館かそうでないかを見分けるのは、玄関先に、小さく貼られた「18歳未満お断り」の札のみ。かなり目を凝らさないと分からないレベルです。事前に情報がなければ、おそらく見破ることはできないでしょう。
この日はお彼岸の万燈会で、参道には紙の灯籠が点々と配置され、観光客もそれなりに行き交っておりました。父親がなんの不審もなく、のんきに父散歩(ちい散歩風に、とうさんぽと読んでください)しているその隣で、わたしは観光客に擬態しながら、鋭利な刃物のような視線をぎらつかせていました。どれがそれで、それがどれなのか? まるで標的にブラックライトを当てて光を浮かび上がらせるかのように……。

P923631 関西新地中、最も高度な擬態かもしれません。

 
P9236355 どれも怪しいけれど、どれも怪しくない…。


P9236347 たいへん分かりやすい旅館の案内図。
  
 
聖地のお膝元にある性地。一連の新地巡礼のラストを飾るには、これ以上ないほどふさわしい地ではありませんか。しかも、大峰山と宝山寺は、ともに役行者ゆかりの地であるという繋がりまで!
性と聖には共通点がある。この旅路でうっすらと抱いていた仮定を、ここに来たことでわたしは確信しました。性地と聖地が、ここでは同じフィールドにある。しかも、聖地の本尊が男女交合の秘仏だというのは単なる偶然とも思えず、性と聖が混濁一体となっていることに驚くばかりです。陰陽がひとつの円であるように、正反対でありながら不可分である、性と聖。
新地巡りの動機が、下世話な好奇心であることは認めつつも、同時に、聖地と同じく、俗界とは一線を画する畏怖すべき場所という認識も強く持っているのです。
大峰山の女人禁制と、新地の女人禁制(働いている人たち以外、という意味で)が同じとは云いませんが、大峰山のお膝元である洞川には、かつては”精進落とし”と称して修験の男性たちが売春する遊郭が存在していたという話を聞くと、さもありなんと納得してしまう感じ。今の旅館群はそうではないでしょうが、あのはんなりとした、扇情的とも見える夜景は、飛田のそれにも似ていると云えば似ています。
性と聖の不可分性は、結婚における妻という存在に象徴されているとも云えないでしょうか。すなわち、娼婦と聖女、両方の役割を一人の女に、公式に担わせることでもある……。いや、そもそも女性のみならず人間自体、両方を持っている存在なのか。

聖地に魅了されるように、性地に心惹かれる。
しかし、もう少し厳密に云うならば、歌舞伎町のように臆面もない夜の街や、吉原や雄琴などのあからさまなソープ地帯よりも、これら新地を含むいわゆる「ちょんの間」の、吹けば飛ぶような儚さと、日陰の花のような秘めやかさに、より惹かれます。
売春の社会的道義、通行人のふりをして新地を訪れること、さらにはこんなレポを書くことをどう正当化しようかと考え始めると、甚だしく混乱してくるけれど、善悪の物差しとはまったく関係のないところで、ただ、心を奪われる。世界のどこかにある、まだ見ぬ秘境に憧れるのと同じように、いっそ堂々と、これはロマンなんだと云い切ってしまえたらいいのだけど……。もう少し真面目に云うなら、純粋なる民俗学的探求心なのかもしれません。
関西の新地巡りはいったんこれで終わりますが、わたしはしつこく、絶滅寸前と云われている秋田町や防府を夢見てしまいます。実際に行くかどうかは別として……。
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2015年11月01日

巡礼風味(3)~聖地to性地編

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天川と洞川、そして大峰山を満喫して帰宅した翌日、わたしは再び、天王寺駅へと降り立ち、しかし阿倍野橋駅から近鉄ではなく、JR阪和線に乗り込みました。
前回、時間的な都合で、天川からのアクセスを諦めた、2つの目的地へと向かうためでした。その地の名は、天王、そして信太山。
ただ漠然と、新地巡りの延長として考えていたその地と、図らずも足を踏み入れた大峰は、わたしの中で、「聖地から性地へ」という標語となって結びつきました。単に語呂の問題ではなく、そこにはなにか、共通点があると思えたからです。

天王寺から約1時間強、紀伊中ノ島は、和歌山駅のひとつ手前にある、とってもローカルな無人駅です。住宅地の中に駅舎型のUFOが降り立ったかのような駅で、駅前らしいにぎわいは皆無です。それでも、住宅地ですから人の気配はあり、何の変哲もなさそうな町に異邦人(ってほどでもないけど)がのこのこ歩いていると不審に思われないだろうかと、余計な心配がわいてきます。
第1の目的地・天王新地は、駅から歩いて5分少々のところにあります。なけなしのネット情報からの推測でしたが、けっこうあっさり見つかりました。駅から大通りにアクセスできた時点でもうゴールは間近。わたしは、大通り越しにその看板を発見したのですが、まったく心の準備ができておらず、しばらくはそこを遠目に見ながらぐるりと外周を歩きました。
新地は、あまりにも小規模で、隠れているのかいないのかも分からないほど密かに、当たり前のように溶け込んで存在していました。しかし、ひっそりと云っても、大通りにでかでかと料理組合のゲートがせり出しているので、何も知らなければ商店街でもあるのかと思って入ってしまうかもしれません。わたしも、"無知なる迷子”として歩くという、1回こっきりのカードを切って足を踏み入れました。車が通れないほど狭い道の両脇に、スナックのような看板を出す、数軒の店。玄関の横にせり出す小部屋にはこたつのような卓があり、決して若くはない女性が1人、退屈そうに座っていました。その距離感の近さは、かつてアムステルダムの飾り窓区域を歩いたときにも似て、ガラス越しとは云え、一気に心拍数が上がりました。
新地はU字型になっていて、Uの底の部分にある1軒では、外の洗濯機で若い女性とやや年輩の女性が洗濯していました。その、あまりにも普通の生活風景に戸惑いながら、息を殺してエリアを抜けました。ゲートからここまでの間、わずか3分程度だったと思います。

 
P9226226 けっこう目立つ入口。

P9226221  ゲートをくぐって坂を下りる途中。ごく普通の、ちょっと鄙びた下町という雰囲気。

 ゲートの隣には、インド料理屋があり、休日の昼時とあってかけっこう繁盛しています。とりあえず、ここで昼食を取ることにしました。すぐ隣に新地があるとは思えないほど、日常的なランチ風景。ここに食べに来ている人たちは、その存在に気づいているのかいないのか……。
かつては、最寄りのバス停はその名も「天王新地」だったようですが、今は変わっています。
ランチの後、反対側のゲートから、もう一度だけ、意を決して、メイン通りではない方の坂を下りました。そこもかつては、店が並んでいたようですが、いまはどこも廃業している模様。目視する限りでは、営業しているお店は4軒のようです。台風か何かで吹っ飛んだらしい、U字の左側のゲートは、修復されないままこの先も放置され続けるのでしょうか。再びここが興隆を極めることはなさそうに見えるので、すべては朽ち果てるままに任せるのかもしれません。
先ほど洗濯機を回していた旅館の前を通り過ぎると、視界の端に、中瀬ゆかりを餅のように引き伸ばした感じの年輩の女性が、小部屋の中で長い髪を乾かしている様子が映りました。そうと知らなければ近所のおばちゃんの日常の一コマのようでもありますが、しっかり塗られた化粧と黒いスリップ姿には、やはりドキッとさせられます。
町にへばりつくようにして、あまりにも密やかに営まれる新地。ネットで初めて見た時に抱いた終末感はそのままでしたが、どこか牧歌的でもありました。それにしても、ここへ流れ着いてくる客の男性、働く女性は、なぜ"ここ”なのでしょう? あえてここなのか、それともここしかないのか……疑問がひときわ涌いてくる新地ではあります。


P9226231 更地も多く、現役のお店もかなり年季が入っています。

紀伊中ノ島を後にし、次は同じく阪和線に乗って大阪方面へ引き返します。途中の信太山駅までは約50分。
紀伊中ノ島に比べたら、駅前にスーパー玉出や商店群があり、いくぶん駅前らしさはありますが、格別にぎわっている感じはしません。そこから新地までは、徒歩5分。ここに新地がある理由はきわめて単純明快、近くに自衛隊の駐屯地があるからです。
目印は、ファミリーマートと、その先の寿司屋。寿司屋の角を曲がると、いきなりあの世界が広がります。やはり住宅地の中の一角ではありますが、お店の数も多く(ネット情報によると約40軒)、天王新地にはない緊張感が張りつめています。
ここは、今里と同じく旅館形式で、女性は置屋から派遣されてくるので店頭にはいません。ただ、独自システムとして「スタンド」と称した小さなスナックが何軒かあります。ゴールデン街の飲み屋のように窮屈に並ぶスタンドのドアには、「来店お断りします」の小さな注意書き札が。ここは、お店ではなく、女性の斡旋所なのです。
細かく入り組んだ路地には、びっしりと旅館――と云っても、門構え以外はごく普通の住宅の造りですが――が密集しています。どこも、開店したてという感じで、玄関は隙がないほどきれいに整えられていました。たまに、早い時間からのお客さんもちらほら歩いており、店内の奥のおばちゃんにわたしの姿ははっきりと見えないのか、「お兄ちゃん、どんなコがええのん!?」と声がかかり、飛び上がりそうになりました。。。
途中、小さな神社があったのでお参りしようかと思いましたが、密集する旅館のあまりの圧迫感に、立ち止まることは許されないような気持ちになって、ひたすら前に進みました。まだお天道様の高い時間ではありますが、営業中ということもあり、飛田並みに写真などもってのほかな雰囲気です。


P9226244. これはかなり外郭からのショット。ごく普通の住宅地でしかない風景。
P9226252 
P9226252 写真に困ったときは、玉出さんにご登場願います(新地とは関係ないんですけど、新地の近くには必ずあるという法則はここでも発動していました)。


息を詰めるように歩いていたせいか、新地を抜ける頃には、わたしの心臓は緊張によって真っ白に燃え尽きていました。
もう少し周辺を散策してみようと、駅とは反対方向に歩いていくと、巨大な昭和の団地が建っていて、敷地内の公園では、おばあさんが1人でブランコを漕いでいて、哀愁を漂わせています。
団地からぐるっと回って、線路沿いの道路に出てみました。しばらく歩くとたこ焼きスタンドがあり、その隣にある勝手口は、たこ焼き屋のものかと思いきや、"旅館"の裏手になっていて、そこからも入店できるようになっていました。さらに、その隣のマンション(のように見える建物)には「仲居募集」の貼り紙が。普通のマンションは、仲居を募集しないはずなので、ひょっとすると、いや、ひょっとしないでもこのマンションは置屋なのでしょう。この擬態っぷりに、劣情にも似た感情を催すわたしは、心のどこかが病んでいるのでしょうか……。
その後も、あくまで安全圏からの視察を試みましたが、限界を感じて退散しました。とは云え、せっかくこんなに遠くまで来たことだし、普通に町の散策でも……と駅前の案内板を見ると、かの有名な池上曽根遺跡がすぐ近くにあって驚きました。町というものは、実にいろいろなものを共存させて成り立っているのだな……と、妙なところで感心しました。


P9226250  たこ焼き屋と旅館のミスマッチな並び。

P9226267 いちおう遺跡もちゃんと見学。手前に見えるのは、呪いの藁人形……ではなく、神様だそうです。
 

ここで、わたしの関西新地巡礼は、いったん終わるはずでした。
何故なら、翌日は墓参りに行くことになっており、その晩には夜行バスで東京に戻ることになっていたからです。
しかし……奇妙な偶然によって、もう1回、続くのでありました。

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2015年10月25日

巡礼風味(2)~聖地編

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また間が空いてしまいましたが、天川村の続きです。
朝イチのバスでここを出て、和歌山に行けば午後には着けるか……とぼんやり思いながら眠りにつきましたが、翌朝起きた時点で、その目論見はもろくも砕け散りました。
午前中に周辺の観光をして、12時ごろのバスで出たとして、和歌山に着くのは限りなく夕方に近い午後。さすがにもう1泊して帰るってのも、父親に怒られそうだし……。
わたしの計画では、JR紀勢本線で下市口から和歌山にアクセスすれば効率がいいはずでしたが、どうもNAVITIMEで調べると、ほとんどの時間帯で出てくるのは、「下市口から阿部野橋に戻って、阪和線で和歌山へ」というルート。阿部野橋まで戻るんなら、家に帰った方がよくない? いや、まあ家から阿部野橋だって40分くらいはかかるけれども、宿泊費やら荷物のことを考えたら、いったん家に帰って出直した方がいいんじゃないの?


……まあいいや、午前中は観光しよう。話はその後だ。
ここに来たのがほとんど偶然のようなものだったので意識していませんでしたが、洞川温泉は、女人禁制で有名な大峰山の麓にあり、山登りの人たちにとってはここが起点ともなる場所です。
昨夜、陀羅尼助屋の店主に、なんとなくこの辺の観光について教えてもらうと、温泉街から女人結界門の間に、徒歩で回れる見どころが、いろいろとあるらしいじゃないですか。
ここまで来て、それらをひとつも見ずに帰るなんて……と、昨日とまったく同じMOTTAINAI思考回路で判断し、大峰山の女人結界門の手前にある、母子堂(役行者の母を祀っている寺)をゴールに定めて歩くことにしました。
攻めるべきポイントは、蟷螂/蝙蝠の岩屋、蛇之倉七尾山、ごろごろ水、母子堂です。ざっと3時間あれば見て回れるはず。
最初にさしかかるのは、蛇之倉七尾山です。道路ギリギリまでせり出した御堂が朝靄の中に浮かぶさまには、ゆんゆんと霊気あるいは妖気が漂っていました。おおお、やっぱ大峰山ってなんか、異世界の雰囲気あるなあ。お堂にお参りして、すぐ側の蟷螂の岩屋へ。看板には「大峰山一之行場」と書いてあります。
入り口では、歯の抜けたおじいさんが1人で屋守をしていました。年季の入りまくった懐中電灯を2つ渡され、洞窟の前でおじいさんが般若心経か何かを唱えて祈りを捧げてから、わたし1人で入場。
役行者が山を開く際、仮住まいにしていたという洞窟は、明かりを消すと、非常に純度の高い闇の中に放り出されます。こんなところで飲まず食わずで修行したら、そりゃ超能力もつきそうです。蝙蝠の岩屋のほうは、もう少し大きく、昔行った人によると実際に蝙蝠がわんさかいたらしいですが、このときはまったく姿を見かけませんでした。

P9216054. 蛇之倉七尾山の立派な門構え。

P9216065 右手に見えますのが蟷螂の岩屋の入り口。手作り感あふれる看板に小屋。

その後、母子堂まで脇目もふらずに歩き、目的も果たしたので引き返そうとしたら、お寺の人に「ここから女人結界門まで、たった2キロだよ、行かないの?」と声をかけられ、む、たった2キロの手間を惜しんで引き返すのは旅人の名折れ……と、さらに先へ進むことに。
車道の両側はひたすら杉杉杉で、ところどころ伐採されていたりもするので、景観としてはさほどではないものの、ただ好奇心に駆られて歩いていると、心の底から満ち足りてきます。ああ、いつまでもこうして、ただの旅人として歩き続けられたらいいのに……松尾芭蕉になれたらいいのに……。
茶屋が見えると、その先が結界門です。門の周りには、さまざまな行者講が建てた供養塔が林立しており、わたしが入れるのはここまでです。女人結界門から山へと続く道は、うっそうと茂る木々の影で、あまり先の方までは見えませんでした。
男性なら誰でも登山できるので、神秘的と云っても案外間口は広い気もしますが、世界遺産登録の際、未だに女人禁制というのは女性差別だとして、問題にもなったみたいです。まあそれは正論ですけど、神聖さというのは往々にしてクローズドなところにしか保たれないという側面もあるわけで、日本に1カ所くらい、そんな場所があっても罰は当たらないんじゃないでしょうかね。山に吸い込まれるようにして歩いていく男性の旅人をただ見送っていると、羨ましい気持ちにはなりますけどね。

P9216124 この先、女人禁制。


P9216135
 茶屋にて、コーヒーとようかんのセットで朝食。壁には行者講の寄せ書きの布や紙がびっしり貼られています。


あとはもう、来た道を洞川まで下るだけです。
途中、うわさの名水・ごろごろ水を空いたペットボトルに汲みました。採水場は駐車場になっていて、各駐車スペースに1つ、採水用の蛇口があり、みんなタンク持参で車でやってきて、大量の水を汲んで帰るようです。駐車料金がそのまま水代ってことですね。駐車不要の徒歩の人間は無料で汲めます。
その前には、鍾乳洞とそこに至るトロッコがあり、無論心を惹かれたのですが、ここで行ったらもう、和歌山に行くなんてことは無理。諦めて、先に進みます。
蟷螂の岩屋の入り口横に「嫁ヶ茶屋」という店があり、朝通りかかったとき、ウインドウに飾られていた「大峰山一合目 どくだみエキス」というボトルが気になっていたので、立ち寄ってみることに。
ちゃきちゃきしたお店のおねえさんが、よかったらお茶でもどうぞと促すままに着席し、店に遊びに来ているらしい女性と3人でしばし歓談。その女性は、東京のゲストハウスで働いていて、数週間前、大峰にやって来てそのまま居着いているらしい。と云っても、もうすぐ東京には戻るみたいですが、わたしもそんなふうに、気に入ったらしばらく滞在できる暇と金がほしい……。
その人に、七尾山は登りましたか? と訊かれて、いや、朝お寺に参っただけですと答えると、女性禁制の大峰のかわりに登る女性が多いんですよ、そして「霊感とかは特にないんですが、あそこは何か居るって感じます」と云います。
わたしは、霊感があると思ったこともなく、まったくそういうスピ的なものとは縁がない俗物なので、そうなんですかー、と話半分に聞いていましたが、七尾山の開祖が、仙人さまと呼ばれている行者だと云われると、がぜん興味が沸いてきました。


P9216152 一家で採水中。


P9216153 「嫁ケ茶屋」のおねえさんが強力にプッシュする名物・カレーうどん。確かに、絶品です!


ここで七尾山に登ったら、もう和歌山どころの話じゃないけれど、シルバーウイークはまだ半ば、アクセスを考えれば、明日出直して、今日のところはとことんこのエリアを極めようではないか。こんな山奥まで来て、見るべきものも見ないで帰るのは、わたしの貧乏根性が許さない。
いいんです、旅の予定なんていうものは、こうして修整され続けていくものなのですから!
寺の脇から始まる、階段になった登山道は、両脇に行者の錫杖を象った柱がびっしりと並び、一種異様な雰囲気です。それは別に、この世のものならざる何かを察知しているわけではなく、単なるイメージなんですけどね。
整備されているけれどどことなく手作り感漂う階段を、黙々と登っていきます。寄贈されたおびただしい数の柱のなかに、『ガラスの仮面』の美内すずえ先生のお名前を発見したり、奥の院を見上げてなんとなくトラブゾンの修道院を思い出したりして、40分くらい歩いたでしょうか。
奥の院の前は小さな広場になっており、「孔雀門」と書かれた門の奥にお堂があります。その先の洞窟内にご本尊があり、案内人なしでは入れません。神様を拝みにいくには、大人一人がやっと入れるくらいの狭さの穴からつり下げられたくさり梯子を上っていきます。神のご加護か、いままで怪我した人はいないそうですが、けっこう不安定で怖いです。しかも、「六根清浄と唱えながら上ってください」と云われ(しかも、♪ドードレミーミー、ソーミレミーミーみたいな音階と節回しあり)、こういうパフォーマンスが極度に苦手なわたしは、余計な冷や汗をかきました。いかにも健やかそうな4人家族と一緒の参拝で、子ども達が素直に唱えているのが、さらにプレッシャーを与えてきました(苦笑)。
梯子の先、洞窟の2階のような場所には、岩が自然に削れて現れたという立ち仏の本尊(真宇王大権現という名前だそうです)、何かを塞いだような岩戸、蛇の神様と称された白い鍾乳石が自然のトライアングルを描いています。、目の錯覚でないくらいにはきちんと仏の姿をしていて、これが自然にできたものなら確かに神のしわざと思ってもおかしくはないかなと思いました。岩戸の奥には、神様の会議室があり、ここに入れるのは開山した仙人さまだけだそうです。物理的に見ると、人間どころか生き物も入れなそうなくらい塞がれていますが、鍾乳石も、洞川には2つ大きな鍾乳洞もあるので、珍しくもないのかなと思ったりしますが、こんなところで妙に冷静になってしまうから、“何かが居る”とか、感じられないんだろうな……。いや、それでも不思議な場所であるとは思いますけどね。そこに一筋の鍾乳石があるというのも、確かに白い蛇とか竜みたいに見えますし。
そんなわけで、スピ体験はなかったものの、お参りのあと案内人の方のお話があり、わたしは今まで修験道というものに思いを馳せたことがなかったけれど、神道でもあり仏教でもありながら、そのどれとも厳密には同じではなく、新興宗教のようでもあるけれど宗教ともちょっと違う、不思議な立ち位置に興味を惹かれました。
この山は、その山口神直さんという仙人さまが開くまでは、村では長年、大蛇が出ると恐れられていた禁域で、開山に反対する声も多かったそうです。わたしは、自分の資質的に霊の存在や神秘体験を信じきれませんが、子どものころ、図書館にあった『日本の民話』というビジュアルブックシリーズを異様に愛読していたためか(数年前、ヤフオクで全巻セットを見つけたときは狂喜乱舞しました)、土地の言い伝えや土着的信仰は単なる迷信ではなく、異次元とつながる鍵のようなものを内包しているのではないかとは思っています。修験道に感じるある種の神秘性も、そういうものに近いのかもしれません。

P9216167 奥の院からの眺望。

山から降りたところで観光にも満足し、と云いつつ麓の龍泉寺にも寄って、いっそのこと洞川温泉センターで風呂でも入ろうかしらと思ったけれどそれはさすがに諦めて、最終の1本前のバスで帰路につきました。
行きは歩きだったので、とんでもなく遠い山奥のように思えた洞川も、バスに乗れば一瞬で天川川合に着き、うとうとしているうちに下市口に到着していました。
帰りの近鉄からは、大きなオレンジ色の夕日が、とてもきれいに見えました。 
  
P9216205 アンパンマン発見。 

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