禅タロット小アルカナ考察:雲の8・GUILT | 穂積の覚書

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雲の8・GUILT(罪悪感)です。



穂積の覚書-気まぐれ屋本舗-66

女性が雲から出て来ている鬼のような手に苦しめられています。

頭上には花の咲いた枝が広がっているのですが、この苦しみようでは見えそうにありません。

乱れた髪は混乱・不幸の象徴です。



罪悪感。考えただけで胃の辺りが重いですねー。頭が痛いですねー。

キリスト教には原罪という考え方があります。この考え方がない宗派もあるし、結構複雑な論争になってるから細かくは書かないけど。あ、禅とか聖書とか色々書いてますが、穂積本人は特定宗教の門徒でも信徒でもありません。寺も神社も教会も等しく行って「ありがとー♪」してくる日本人です。(笑)

ま、カトリック幼稚園だったからイエス様にはちょっと親しみがあるけど。


あ、んで、原罪。

アダムとイブの楽園追放事件ですね。

平たく言うと、蛇にそそのかされたイブが、食べちゃいけないと言われた知恵の実(リンゴと言われてますが厳密には違うそうな)を食べ、一緒に実を食べちゃったアダムと共に神に逆らったとして、永遠の命を失ってエデンの園から追い出されたという。

この蛇が明けの明星ルシフェルであるとかないとか。というところを辿り出すとワタクシちょっとたぎりすぎて横道に逸れまくるので止めておきます。神話好きなんです。


この罪が人間の本来の姿を歪めたという考え方。

ほんで、イエス・キリストの受難によってそれらはすべてあがなわれましたよ、というのが、あの人があがない主、メシアと呼ばれる所以であると。

だから新たな罪を犯さないように心がけ、もし犯してしまったなら主に告白して赦してもらいましょう、というのがドラマなんかでたまに見かける教会での懺悔の光景。



で、なぜ禅タロットでキリスト教の話をしてるのかというと、ブックレットの中で言及があるから。


「罪を犯した人は罪悪感を感じている。喜びが失われているのはそのためだ。たえず罪悪感を感じていたら、自分はこんな悪いことをした、あんな悪いことをしたと告白するためにいつも教会に行っていたら、どうして生を楽しめるかね?」(OSHO)


しっかり書いておきますが、犯罪を容認する言葉ではありません。

悪いことをしても反省しなくていいという言葉でもありません。

むしろそういう人こそが罪悪感に囚われている。選ばなくて良い道を選んでいる。

もっと明るい道があるのに、雲の中から飛び出す手に惑わされて、雲の6の暴君を肩から下ろさず、雲の7の不毛な虚偽のゲームを続けている。


まだその苦しみを受け続けたいですか、という警告カード……の意味にも取れます。



が、「貴方、なんか悪いことしたでしょ! めっ!」というカードでもありません(笑)。


悪いこととかいいこととか、その考えこそがあなたを縛っている。

悪人になろうとしなくても善人になろうとしなくても聖人になろうとしなくてもいい、ただそこから解放されること。

全き正義、全き善なんてものを追求してしまうと、全き悪なんてものの存在も容認することになる。

だから混乱する。善くあろうとすればするほど悪が目につく。悪に引きずられれば善があなたを苦しめる。


少し立ち止まって、髪を乱す手の正体を見きわめると良い。触ろうとしても触れない。そこにはない。

善と悪という幻に無駄に苦しめられていると気がつくまで、どちらにしても思うようには動けない。



目を開けてみたら、また違う景色が見えるんでしょう。

その時見えるのは頭上の綺麗な花かもしれないし、雲が晴れたら火の8のような目的地に至る道が見えるのかもね。