禅タロット小アルカナ考察:雲の5・COMPARISON | 穂積の覚書

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雲の5・COMPARISON(比較)です。



穂積の覚書-気まぐれ屋本舗-63

解説書に拠れば、これは竹とオークだそうです。オークって樹の状態で見たことないや私……。

竹は竹として伸びて、オークはオークとして伸びる。

簡単な現象。


竹の方が好き! とか、オークの方がいい! とか、人間としては色々考えます。オーク製の美しいテーブルとかいいよね。

竹と言えば、うちの県の臼杵竹宵祭り は美しいですよ。今年は終わったみたいだけど。


「私はこの点であの人には勝っている」という時には優越感が、「私はこの点であの人に勝てたことがない」というときには劣等感が強くなります。

特に兄弟姉妹間では強い気がするなあ。他人よりよっぽど近いから、色々目につくんだよね。

うちの幼い甥姪たちも、「ぼく兄ちゃんより上手くできる!」だの、「ぼくの方が弟より強い!」だの騒がしいことです。

まあ小さいときは他愛もない自己主張ですが、大人になるにつれてちょっと変わってくる。


「あの人は○○が出来るのに、私は××すら出来ない……」

「あの人はすごくツイてるのに、私は全然ツイてない……」


というのを、誰かを見る度に思うわけですな。


精神的にいろいろキツかった頃、心療関係のケータイサイトをよく見てました。

そこにお悩み相談のコーナーがありまして、プロの心療内科医が答えてくれるというそれを読んでまして。まあ自分でも出そうと思って、メールを書いたこともあります。結局出したことはないですが、悩みをメールという形にすることによって、多少気が楽になったんでしょうな。今思えばですが。

そこで、


「人の長所と自分の短所を比べないこと」


という回答を数度見たことがあります。

その頃の私は、これの意味が分からなかった。大体悩んでる時って自己評価がメチャクチャ低いですからね。自分に長所などない。だから長所同士など比べようがない。比べること自体がおこがましいのか、とかね。

相手が万能に見えて、自分が何一つ為せないように思えてしまう。


今になって思うのは、比べることが「おこがましい」のではなく、「意味がない」ということ。

多才な人を見れば羨ましいし、引き出しの多い人を見れば嫉妬しますよ。人と自分を比べて落ちこむのは、その感情が悪いと思って抑制してしまうからということもあるんでしょうけど。感情自体に罪はないので、「あ、こう感じてるんだ」と認めてしまえば(そこに至るのが一苦労でしたが)、後に残るのは、何かに囚われたように立ち止まってばかりいる自分だけでした。


竹は竹として、オークはオークとして伸びていく。

それでいいんだ、という言葉ではあの頃の私には届かないだろうなあ、と思います。

たくさんの人との関わりの中で、少しずつそういうことに気がついて、自分と人との境界が少しずつ出来ていった感じがします。

雲の3・isolate(孤立)から雲の4の足踏み、そこから脱するためにもがく過程、それによって出来る傷の数々がcomparisonであるように思います。


雲による心の迷走はまだ続きますが、この苦しみも終わりが来ます。

少しずつ、少しずつ。