ノムラ證券残酷物語 -7ページ目

Vol.22 「仕切り玉(2)」

たまたま、700円で寄付き前場30分程度で715円にでも上がっていればこれは、課長の大口顧客の信用取引の枠の中で勝手に処理されて、我々の前に日の目は見ることが無い…つまり、課長の客は朝課長が相場観で買った玉がたまたま値上がりしたので、20万株×15円=300万円(実際には対面取引の手数料はべらぼうに高く恐らく税金を引いたら150万円も手取りは無かったと思われるが…)の収益を得ることになる。これを証券界では「日計り」と呼び、今のネット投資家では「デイトレード」と呼ぶのであろうが、まあこんな日はあまり無い。


寄付きから30分程度の時間で、買った値段より下がっていた場合、あるいは手数料が抜けない程度の値上がりであった場合、兵隊達のところにこの悪魔の「仕切り玉」が舞い降りてくる!


S田次長とY田課長がいつものようにしたり顔で「全員集合!電話を置けぇ~!」と声を掛けると、どうせ本当にお客と話している営業マンなどは普段ほとんど居ないので、全員ほぼ30秒以内に次長席の前に集合する。と…Y田課長がS田次長の腰ぎんちゃくよろしく「おい!今ここに帝国石油が700円で買った20万株がある!これを各課5万株ずつお客に嵌めて(はめて)くれ!各課5万だ!」と叫んでいるY田課長の後ろで、S田次長はホワイトボードに各課の数字を5と書いて□で囲んでいく。(ノムラでは、数字を△で囲むと千株、□で囲むと万株単位という理解で、ちなみに数字の右上にレ点を書くと億円という意味がある)


直後、各課はまたそれぞれ席に戻り、それぞれ課単位のツメが行なわれる。


課長の号令の下、「H田!お前なんぼやる?!」「T岡!お前は?!」「K村!お前は?!」と各自の達成可能な数字を確認しながらツメて行く…H田主任は、毎日毎日のこんな生活に疲れているにも係わらず平気で「1万」と応える。最近営業成績の調子のでないT岡店内主任は小さな声で「5千」と答えると、Y田課長が「T岡ぁ~てめえ何年目だぁ~新人にしめしがつかねぇだろうぉ~がぁ~!」と怒鳴られ、仕方なく全く1万株の帝国石油を売り込める当ても無いのに「1万」と応えてしまう。(続く)

Vol.21 「仕切り玉(1)」

今はもう誰もぉ~~って…こんなアホらしいことが毎日起っていたということ自体、当時、今の財務省/金融庁に当るMOF、つまり大蔵行政下にあった金融機関として信じられないことだが、毎日毎日支店では平然と違法行為が行われていた。


その一つが「仕切り玉」という手口で、奴隷をこき使うために用いられた大手証券の古典的な手法で、放っておくと怠け者達が、手数料のノルマを達成しないことに対し、絶対服従のための強権行為として、本当に毎日毎日違法行為が正当化され、その代表的な「仕切り」が行われてた。


本来株式の注文とは、顧客から「銘柄、売り買いの別、株数、価格(指値か成行き)など」の発注内容を確認し、「その後(お客からの了解・注文の後)」市場に発注するものであるはずであるが、何故か虎の穴でどの顧客からも一切正式な注文が無いのに、寄付前と言わずザラ場中と言わず、日常的に支店長、次長、一部の課長の判断で、顧客番号をいれずに電話で株式部にまず注文が発注されていた。


当時、虎の穴支店には営業課が5課あり、各課に2~3台の電子端末が既にあった。営業から通常注文を流す場合は、まず顧客からの注文を取り付け、手元の電子端末に顧客コードNOを入力し、銘柄、売り買いの別、値段などの注文条件を入力して、発注を行うというやり方(電子処理)と(これはほとんどインターネットの発注と同じです)、「場電」という支店と株式部の直通電話が次長席に一台だけ存在し、これを使って電話で「石川島10万買う」とか、「日本曹達20万買う!」とか、主に大口注文を先に電話で注文を出し、その後、場電発注済みという処理を電子端末から行うという、2種類の方法で注文が執行されていた。


発注の手順は、当時タイムレコーダーがあり、白紙のペロ(伝票)を10枚程度「バ、バ、バ、バ…」と女子社員が次長や課長の命令の下、タイムレコーダーで打刻していく。何も書いていないペロ(注文伝票)にである。その直後次長や課長が場電を握り締めてなにやら、虎の穴担当の株式部の担当者とヒソヒソ話しており、後で分かったことなのだが例えば帝国石油という銘柄を朝寄付きで20万株注文する客が居るわけでもないのに(先に)買ってあるのだ。これが地獄だった…(続く)

Vol.20 「支店対抗野球大会」

それから程近い4月の週末、千葉の京成電車に乗って行った新興住宅地の八千代台というところに、別名ノムラタウンと称される関連会社の不動産会社が大分譲した住宅街があり、その近くに「ノムラ総合運動場」に向かいました。ここの野球場で首都圏の支店が毎週土日に集まってトーナメント戦を行うことになります。この総合運動場は後に「死の大運動会」と称される会場にもあるのですが、そんなことはまだ知る由もありませんでした。


1回戦は緊張しました。対戦相手の支店にも高校や大学まできちんとした野球経験者も当然いるわけで、私は中学まではピッチャーでしたが、高校時代以降はキャッチャーに転向組のため、まあ、素人よりは若干早い玉の速さと、昔の経験で何とか数回勝ち上がり決勝まで辿り着きましたが、その時には毎週2試合のダブルヘッターをこなして、おまけに高校時代に肩を壊してキャッチャーに転向していたのですから、そもそもピッチャーの肩では無かったのも含め、慣れない緊張も重なり肩はボロボロ体力も限界で、結局決勝では負けてしまいました。それでも、支店の面目は何とか保てたようで、私の席は確保され、正式に「虎の穴」の一員として認められた瞬間だったような。


毎週試合の後は着替え終わって、運動場施設の中にある結構立派な食堂で、支店毎に集まって、ビールを飲みながら反省会なのかただの飲み会なのかは別にして、酒乱の先輩や、相変わらず土日もうるさいY田課長も横に居て、ただ、楽しかったのは新人同期の女の子や、支店の綺麗な先輩女子社員が応援に駆けつけてくれていて、だんだん親しくなれることにちょっとだけトキメキを覚えながら、貴重な週末をほぼ毎週こんな感じで潰されて、学生時代から付き合っていた女子大生の彼女ともだんだん疎遠になっていきました。(続く)

Vol.19 「支店対抗野球大会」

ノムラの支店間の競争は、「手数料」競争だけではありませんでした。入社早々の4月の最初の土曜日、当時は第二土曜日以外はまだ半ドン出勤で土曜日は何となく落ち着いた雰囲気がありましたが、前場だけ飛込みに出かけて、11時半に戻り整理をしていると、Y田課長の更にその上に各課全体を統括するS田次長が声を掛けてきました。


「おい、新人!こっちへ来い!今から地下の駐車場に全員集合してキャッチボールをやるぞ!来週から首都圏支店対抗野球大会があるから、虎ノ門支店としては何がなんでも絶対に優勝しなければならない!我々は昨年も優勝している!去年までは一ツ橋野球部出身の55年のN島が居たから優勝できたが、留学で転勤してしまった。人事部には野球の上手い奴を寄こせって言っといたんだが、K村!お前野球部だったなぁ~!」って…「俺は、野球で配属されたのかぁ~~??」って感じでした。と言うより、この会社は、どんなことでも競争意識が高く、支店同士のライバル意識は相当のものでした。


地下の駐車場に行くと、56年のO森さんやO前さん、57年のMさんなどがワイシャツ姿でキャッチボールをしており、どう見てもただの草野球のレベルだなぁ~って…「まっ!良いかぁ~~」って…


同期のT中は応援団の団長だっただけで、子供の頃少年野球をしていたとS田次長にアピールしてキャッチボールを始めましたが、2~3球投げて直ぐに「お前は良い!」ってお払い箱で…N野もラクビー出身ですからこれも大したことなく「次!」って感じで、私は野球は少年野球から大学までやってましたので、この程度のことであれば素人の域は少し出ているでしょうから…数球投げると、直ぐにキャッチボールの相手のO森さんを座らせて、「K村!ピッチングのつもりで!全力で!」って…


当然「K村!お前、全試合先発完投だ!」って…そんなぁ~~もう野球なんか嫌で仕方が無いから大学野球も途中で辞めたのにぃ~~~って思ってたら「K村!気合入れていけよ!万一一回戦で負けようもんなら、お前の机は無いつまり地方の支店に転勤だぁ~~!」って、??「そんなばかなぁ~~??」って、この会社の怖さはこれがマジなのか冗談なのかどうか?どう見ても真面目に言っているとしか思えませんでした。(続く)

Vol.18 「スーパーセールスマン(2)」

彼は、仙台支店に配属になったこと自体不満だったようで、どうして自分が都心部の大店で資金量の大きな場所で勝負できるところで最初から配属されなかったのかをバネに、その後も大飛躍を遂げたと思います。


彼の(壮絶な!)逸話は数多くありますが、新人時代、まず夕方寮に戻ると、ほとんどの新人がスーツを脱いで夕食をし、風呂に入り、時には同期と早々と酒を飲み、ある者は彼女とデートに出かけている中、6時過ぎに支店に戻るとスーツを着たまま夕食を駆け込み、そのままカバンを握り締め寮の近くの住宅街を戸別訪問に9時過ぎまで飛び込みに出かけたそうです。はい…自発的に…更に、今日一日に会い名刺交換をした全ての見込み客に、自筆の手紙を書き、翌日にはポストに投函し初回訪問のフォローをしていたそうです。


彼はまた仙台の大物見込み客の飛び込みを40日間近く連続で同じ見込み顧客に対して飛込みを続け、断られても断られても通い続け、終にビルの非常階段から社長室の前の秘書室に飛び込み、呆れ果てた顧客に終には面談を了承させ最終的には彼の最初の大口顧客となったとか…


結婚後も、彼は1日見込み客に500通の挨拶状を出していたそうで、何かのリスト(紳士録とか帝国データバンクの資料など)に基づいて自己紹介と面談の依頼のレターをコピーしておいて、宛名は、毎日、400通奥様が書き、100通は彼が自宅に戻り自筆で書いていたといいます。これを毎日必ず繰り返していた彼は、当時も昔も、ノムラには伝説的なツワモノは数多くいましたが、少なくとも我々の同期前後の中では彼に勝る営業マンを私は知りません。


ただ、彼はある事があってノムラ證券を数年前に辞めました。その後彼は某中堅証券会社の社長をしていると聞きます。いろいろな逸話や、そして噂がある人間ですが、正真正銘本物のスーパーセールスマンであることは間違いありません。


同期は営業成績で部門事(株式手数料、募集手数料、その他詳細は忘れましたが・・・)に、また都心部の大型店舗と地方都市の小規模店舗では当然に経済規模も異なるため多少はランク分けされていたような…記憶が定かではありませんが、手数料の数字では当初から群を抜いて彼が大物ぶりを発揮していたような気がします。ただ、虎ノ門支店の同期のT中君は、この超大物I村君の成績を凌駕する成績をたった一人の「超ドでかい大物顧客」1社のおかげで何度か彼を抜き1位を誇っていたこともシバシバあったような…同期の間でも「なんでT中がぁ~!」って「超~ラッキー野郎!」って呼ばれていたのですが、その秘密は誰も分かりませんでした…

Vol.17 「スーパーセールスマン(1)」

新人は、6月末の証券外務員資格試験が終了するまでは、ほとんど日中飛込み営業が終り片付けが終わると、過酷なノルマに追われる諸先輩を残して「帰って勉強しろよ!」って掛け声のもとほとんど毎日7時過ぎには寮に帰宅しました。寮に帰宅し、夕食を食堂で温めて食べ、ビールを飲んで、早く帰っているのは他の始点の同期も含めた新人だけですから、同期と社会人としての厳しさを互いに励ましあいながら、時には飲みながら過ごしたり、実際に外務員試験のテキストを開いたまま疲れて寝ちゃったり…と。


他の支店の新人もだいたい似たり寄ったりで、4月から6月の間に3日間程度集合研修が数回あったと記憶していますが、同期が一同に会した時はまたそれはそれで他の支店の同期はどんな感じだとか興味深々に、支店によって少しずつ違う新人教育の現場の様子を話し合い、身近な競争相手を探り…少しばかりですが社会人としての意識が芽生えたりしていたような気がします。


証券外務員試験の直前の集合研修で、同期155人の中で群を抜いてツワモノが一人いる事が判明しました。仙台支店に配属されたI村で、彼はその後の活躍も含めて、恐らく私の知る上下数年の先輩/後輩の中でも、そして「ツワモノ」揃いのノムラ證券の中でも、超大物バケモノの部類に属するスーパー営業マンでした。


彼は実は私と同じ大学から入社した2流私立大出身の大学時代はサーフィンばかりやっていた人間ですが、入社する前に学生生活を謳歌したこのままではろくな就職口も無いと考え、必死にアルバイトで貯めた40万円近い大金を富士山麓で、今でも有名な自己啓発の「管理者養成学校地獄の特訓13日間」に大学時代に経験があり、入社面接の最後の方に、人事部面接で応接セットのテーブルに靴を脱いで立ち上がり「セールスカラス」の歌を歌って入社を決めたとか…とにかく内定式の時から同じ大学出身者は私と彼しかいなかったので、何故かとても記憶に残っている奴でした。(続く)


Vol.16 「虎の穴とクリームソーダ」

当時、虎ノ門支店はほとんど恐怖政治統治下にあったと思います。漫画のタイガーマスクが育てられたという「虎の穴」をもじって、虎ノ門支店は虎の穴支店と影で呼ばれていました。


顧客の意思など全て無視し、コントロールすることを強制され、まして自分達で銘柄を研究し、顧客に勧めるなどと言うことは当時の支店では一切ありませんでした。他の銘柄も全て支店長、次長、課長等が決めた銘柄をひたすら推奨する(そんな生易しいものではなく、ハメ込むことでした)こと以外我々若手には一切の権限など無い、まさに「虎の穴」支店でした。そんな我々でも、入社半年後の秋、先輩の若手社員が言い出し、そして若手全員で話し合って、自分達が決めた銘柄を顧客に推奨したいと上司に申し出たことがありました。


「こんな状況(日本曹達(4041)ばっかりはめ込まされて、そして一切勝手に売れない、そして最終的には行き詰まり、株価は値上がりしない状況に追い込まれつつありました)では、全ての顧客が死んで(ノムラでは顧客が損をして文句を言って一切の取引資産を引上げることを「死ぬ」と表現していました)仕舞う状況を何とか打破したい!と切実な思いでの上申でした。その結末は、また別の機会に…


つまり自分の顧客の全ての資産が、日本曹達だらけ…でした。この日本曹達がこのまま値上がりせず顧客が儲かってくれないと、初めての顧客全ての信頼を無くすことになることは明白でした。顧客の買った値段の平均単価を100円も下回った時期が数ヶ月続き、新規で顧客を作ってくるとまた日本曹達を売り込まなければなりませんでした。とても憂鬱な日々の連続でした。同期のT中もN野も皆同じで、支店の営業マンの顧客の全ての預かりも、全て日本曹達になっていました。


ある土曜日(当時は第2土曜以外は半ドンで営業でした)の食事の後、後場が無いので土曜日は比較的ゆったりした日もありました。先輩と同期で、喫茶店に行って飲み物を注文しようとしたところ、先輩のT岡店内主任が「クリームソーダ」を注文しました。同期のT中が、T岡さんに向かって「T岡さん、おもろいもん頼むんですなぁ~」と言うと「これだけお客全部の株が日本曹達だぜぇ~~もうソーダ水しか飲めへんだろう~」って…全員唖然で…普段何も考えてないと思われるT岡さんですら、そんな気の重い、そして縁起担ぎでもしたくなる日々の連続でした。(続く)

Vol.15 「昔、是銀、今、虎銀」

58年入社の私が最初に配属された虎ノ門支店について少し話しておきます。虎ノ門支店は、確か、55年に浜松町支店を閉鎖して、森ビル群に中小企業がひしめく虎ノ門界隈をターゲットに出来た戦略大型店舗で、ちょうど57年から実施されたノムラ證券のの第二次中期計画で預かり資産拡大運動大キャンペーンで、預かり資産が当時6~8兆円程度だったものを3年間で20兆円の預かり資産にするという目標の、58年当時、その戦略の基幹店舗の一つでした。


支店開設してから3年程度で歴史の浅い支店したが、既にノムラの首都圏本部の中では、常に1~2位の収益成績を上げている店でした。首都圏本部には当時銀座支店、新宿ノムラビル支店などの大型店舗で営業成績良好な支店があり、またこれに本店営業部もあわせて、支店同士が熾烈な営業成績の戦いを繰り広げていました。ノムラの凄さは、恐らくこの当時支店間の強烈なライバル争いがベースにあったのでは無いかと思います。


さて、私が入社した当時、業界紙(株式新聞とか証券新聞など)の紙面でこんなタイトルが何度か紙面を踊っていました。「昔、是銀、今、虎銀」この昔は「是銀」と言うのは、最後の大物相場氏と呼ばれた「是川銀蔵」氏のことを指し、「虎銀」というのは、ノムラ證券の虎ノ門支店と銀座支店のことを指すのでした。その昔、自分自身で調べて金の高騰を予期し、住友金属鉱山の株を大量に買占めて兜町にその名を知らしめた個人の大物投資家の是川銀蔵氏は80年代に入り熱海からほとんど出てこなくなった(相場の世界ではあまり声を聞かなくなっていた)のですが、その代わりに、今(当時)はノムラ證券の虎ノ門支店や銀座支店が推奨している銘柄が良く当たる=値上がりするという意味の新聞の見出しでした。


私が入社した当時、虎ノ門支店では「日本曹達」(4041)という銘柄を集中して取り扱っていました(事実は完全な買占め=証券取引法違反でした)。銀座支店では、アマノ(6436)をある大物仕手筋と一緒になって買占めており、確かに双方とも強烈な値上がりを見せていました。


入社当時、新規の顧客が出来る度に全ての顧客に対して、我々末端の構成員は、全ての客に対して、日本曹達を推奨することを義務付けられていました。事実、私の顧客の預かり資産の全ての銘柄は、日本曹達になっており、更に少し値上がったからといって、あるいは顧客が売りたいと言っても支店の許可無く勝手に一切売ることは禁じられていました。今考えると単なる社内の脅しですし、明らかに株価操縦でしたが、その統制は厳しく本当に過酷なものでした。もし、本当に顧客が現金化を希望し、売りたい事情があった場合(顧客を説得できなかった場合)、担当の営業マン自身がその売り玉に対する同株数以上の「買い注文」を新規あるいは既存の顧客からもらってきて、絶対に値段を下げることは許されませんでした。


顧客が売り注文を出すということは、買い物が虎ノ門支店から出ない以上、市場で吸収する以外方法はありません。この銘柄は当時虎ノ門が支配していると市場で知られていた以上、ほとんどの売買は虎ノ門からコントロールされていて、高値から下げている状況下の場合、ちょうちん筋(市場の噂や値上り銘柄に追随してくる投資家)が入ってくることはほとんど無く、自分達で買い支えるしかありませんでした。浮動玉(大株主以外の現物株比率)を全て1支店単独ので買占め、信用の買い残高もほぼ管理しており、株価は350円前後から数ヶ月で755円の高値をつけて、その後100円以上下り何とか値をこらえている状況でした。(続く)

Vol.14 「夏は海に!」

今日偶然に会社を訪ねてきた現役のノムラ證券の若手と話す機会がありました。少し仕事とは関係の無い話をわざとふってみたのですが、今のノムラは昔のノムラとは別な会社のような気がすることがいくつかありました。


以前ここでも書いたと思いますが、当時私が勤めていた頃は新入社員は全員寮生活で、確か、結婚するまでか、管理職(課長)になるまで寮生活を原則義務付けされていました。しかし、今のノムラ證券は入社1年後は希望があれば一人住まいが可能なんだそうです。今日会った入社3年目の若手も都内に一人でマンションを借りて住んでいるそうでした。


また新人は全員支店配属という「営業のノムラ」の精神は?過去のもので、今は全く無いのでしょうか、最初からIB(インベストバンキング)部門への配属とか、なんか格好良いですね。でもそんなんで本当にあの!ノムラ魂は生まれるのでしょうか?なんて余計なお世話ですが…


さて、飛込み営業の初日に同期のT中君は「茶でもしばけへんけぇ~」と言って大物振りを発揮しましたが、どう考えても普段話しているとただのボケ男だったですし、電話営業の内容も全く無い!のですが、彼の営業実績は不思議と一本釣りで大物、それも超~大物顧客を釣り上げてきていました。


新人はまず暑く厳しい飛込み営業で毎日100枚の名刺獲得をノルマとされました。朝から晩まで名刺配りと名刺集めをしたって、1件5分でも1時間で12名の人にしか会えません。8時間でも96人の名刺しか集められないのですから、だいたいこんなノルマ自体がそもそも狂っているのですが、当時全くそんな計算はできませんでした。一日本当に真面目に回っても50枚か60枚の名刺を集めるのが精一杯で、優しいお客様に当たって「お茶でも飲んでく?」って30分も座って話をしていると、そんな日は一日20枚も行かない日も何度もありました。


夕方会社に戻ると、今日会った全ての名刺をインストラクターのH田主任に見せることになります。ベテランのH田主任は、お金持ちや目ぼしそうな見込み顧客の名刺を見つけると「この人はどうだ?」とか必ず反応して、どんな会話があったのか確認します。内容のチェックと、枚数のノルマの達成度合いと顔色をチェックして新人の様子を確認し名刺を全部見せ終わると、最後に明日の準備(週報の補給とか名刺の補給)をして、今日集めた名刺を全部タイムレコーダーで日付を打ち込みます。


このタイムレコーダーが曲者で、何故タイムレコーダーで日付を打ち込むのかと言うと、新人はこの飛び込み営業&名刺集めでは何れ必ずバテてサボるので、名刺にタイムレコーダーを入れていないと、サボった日などは以前集めた名刺を出してきて、今日集めたような顔をして見せたりするからなのですが、本当によく管理されたシステムでした。ただ、H田主任が研修などでいない日は、他の先輩が最後の打ち合わせを代理したりしたのですが、適当な先輩の時は、タイムレコーダーを打たずにこっそり隠しておきました。


数枚ずつ毎日H田主任には見せずにタイムレコーダーも打たずに貯めておいて20枚分位貯めると、1週間に1度は新橋のガード近くのエロ映画館で半日サボって寝ていたのがいつも同期のT中君で、「K村ぁ~今日の映画は良かったでぇ~」って内容を話してくれるのですが、私も一度だけ付き合ったことがありましたが、昔の日活のロマンポルノみたいな3流映画でただの暇つぶしには良いのですが、それにしても映画館はサボっている営業マンで一杯だったことが懐かしく思います。


挙句の果てには、事前に3人で計画して、毎日5枚ずつとかタイムレコーダーを打たない名刺を貯めておいて、50枚位貯めておいた日に、3人でグルになって朝9時過ぎに支店を出て新橋から電車に乗って三浦海岸までサボりに行って、夏近くに一日海で遊んだこともありました。この「海への一日逃亡計画」の発案者もT中君でした。


ただこの海への逃亡計画は、夕方3人が支店に戻った時に、全員真っ黒になっていてバレバレで課長を含めてこっぴどく叱られて、二度と実行されることはありませんでした。T中君のせいでした…(続く)

Vol.13 「業界用語(2)」

また、ノムラでは、株式や債券・投資信託の社内の注文執行のための伝票=チケットのことを、「ペロ」と呼びます。


元々の語源は、ノムラ創業の礎(いしずえ)となったノムラ徳七商店の、大阪堂島の米相場のセリの昔のやり方に起源すると言われていますが、米相場のセリが上がって行き、最終落札者に対して取引所の仲買人が拍子木をパ~ンと打って「ペロリンコ~ン」と言ったとか言わないとか…その時に落札者に書いて渡した落札表(きっと、値段とか銘柄とか数量とかを記載したメモのようなものだと思いますが…)からの語源と私の記憶にはあります。他の大和や日興ではチケットとか伝票と呼ぶのだと思いますが、ノムラでは恐らく今でも営業現場では『「ペロ」はどうしたぁ~!』って叫ぶ営業課長がそこら中にいるような気がします。


正しい「ノムラ證券の社内用語」?はこれ以外にも沢山あると思いますが、私はその後転職を経てシティバンクに勤めましたが、シティバンク東京支店にも独特の社内用語がありました。一番印象的なのは「ボルト行って来て?」って言われることでした。「ボルト」って?「絞めるとか緩めるとか…ネジのこと?」って、解らないので恥ずかしいのと合わせて最初の頃は黙って聞いていましたが、正確には「Vault」(金庫室)のことのようで、日本人スタッフの発音の悪い人に言われると、「なんじゃ、そりゃ~」って思ったりしました。


様々な業界毎に、その業界独特の用語があるのでしょう。知らない人から見ると面白い言葉も沢山ありそうです。株の世界一般にも当然沢山の業界用語がありますが、これは別の機会にでもまた改めて。 (この章終り)