ノムラ證券残酷物語
Amebaでブログを始めよう!
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>

Vol.55 「転々流浪ドサ廻りの掟(1)」

当時、ノムラでは転勤の辞令が1年に3回あった。現在は2回だという噂を聞いたことがあるが、確か…当時は、3月の第2週と、7月と12月の第2週であった。3月の辞令が出ると、まず単身新しい支店に転勤していく。家族は間近に迫った春休みに子息の学校の転勤手続きなどを済ませ、慌しく次の夫の生活地について行く。7月は夏休み前で、12月は冬休み前であったから、要するに学校の休み前に辞令を出して、末端の悲しい構成員は、家族共々永遠に転々流浪のドサ廻りが続くのだ。


筆者の1年目の終りの頃の春の移動だっただろうか、島根の松江支店から3年先輩のS堀さんという島根大学の体育会剣道部出身の人が転勤してきた。彼は、筆者の虎ノ門支店在籍を通じて最もまともな営業マンであり、人格的にも素晴らしい人だった。虎ノ門支店にいた56年入社のO前さんという若手が、海外留学志望がかない、留学準備のため人事部付で移動したことで、新人から片田舎で出身大学の近くの小さな松江支店に配属された彼は、奮起して非常に優秀な成績を上げ、当時、全国一位を争う虎の穴に大栄転で転勤してきた。


さて通常、辞令が出ると、これまで特に大きな反抗もせず支店への貢献もそれなりであった営業マンは、次の支店で引継ぎ客を確保してもらった方が直ぐにノルマ達成が可能となるため、辞令の日の夜には支店長に直訴して、夜行だろうがなんだろうが、直ぐに新しい赴任先にまず挨拶に行き、最低2~3日滞在して、新しい赴任先でも必ず転勤者がいるだろうから、その転勤者の顧客を引き継ぎ、自分の客として確保しなければ恐ろしいことになる。


新しい赴任先で転勤者の顧客を、残った営業マンが勝手に取り分けて自分の扱いにしてしまった後にノコノコ赴任の挨拶なんかに行ったりしていると、新参者の構成員は、赴任先で客ゼロからスタートするという恐ろしい事態になる。万一そんなことにでもなれば、見ず知らずの土地で、新規の顧客開拓からスタートしなければならない。顧客があろうがなかろうが、否が応でも入社2~3年も経てば立派に中堅営業マンとしての過酷なノルマは絶対に与えられるわけだから、その地獄絵図といったら常軌を逸したものになるのは明白であった。


まして知らない土地で独身であろうが妻帯者であろうが、同じ会社の人間といっても助け合うという感性など誰も持ち合わせていない詐欺集団、そんな甘っちょろい雰囲気は全く無く、まず敵は、同じ支店の人間であり、競争の激しい都心部などは、最大の敵は同じノムラの他の支店であったから、顧客の引継ぎをきちんと受けられるかどうかは、向こう数ヶ月、あるいは新しい赴任地でつつがなく過ごせるかどうか、その運命を決めるのであった。


筆者の新人時代のインストラクターだったH田主任などは、新人で虎ノ門支店に配属されて以来、既に私が入社した当時、満4年を経過していたため、通常3年前後で転勤の辞令が出るのがどの金融機関でも当たり前の時代であったから、彼は冗談でも何でも無く、満4年を経過した頃には、年に3回の辞令発令当日は、小さなボストンバックに2日分の下着とワイシャツと洗面道具を入れて必ず持ってきていた。彼は当日辞令が出たら、直ぐに支店長に直訴し、当日中に新しい赴任先にまずは挨拶に行き、赴任先の転勤者の顧客を確保する強い意志を持っていた???(続く)

Vol.2 『外資系金融機関残酷物語』「何故証券会社に入ったんだろう?(2)」

ノムラ残酷物語は、一昨年の秋から一年半以上毎週一回夕刊フジに連載されています。夕刊フジには実際には少し修正加筆して寄稿していますが、ブログには番組のメルマガで書き続けた原文を載せてきています。ブログは毎日書き続けてきたので、半年で夕刊フジ(毎週一回)に追いつきそうになってしまったので、書き下ろしってそんなたいそうなものではないのですが、その前後の話として私が生きてきた人生?の重要な部分(シティバンク時代)の話を書きたいと思います。時々ですが…


========================================

どんな企業に就職したいのか?などと、どのような思考回路で考えたのかほとんど記憶が無いのだが、当時私は、大手証券と総合商社のOB訪問を開始した。総合商社は、父がメーカー勤務だったが、取引先に総合商社の人が何人かいて、その父のアドバイスで受けてみる…程度の安易さだったが、証券会社は何故受けることになったのか、正直よく覚えていない。


唯一の記憶としては、父の会社の元上司で、その当時東京の自宅の近所に勤めていた方(人格者と言うのはこの人を言うのだろうという方で、いつかその方の事も書かせていただきたいと思う)が、その方が一緒に行っていたゴルフ場で、私にこんな事を言った記憶があるだけだ。


「君は、立教大学と言う、まあ普通の大学、つまり東大でも阪大でも早稲田や慶応でもない普通の大学で、取り柄と言えば元気な感じと、聡明なイメージなんだから、実力勝負の会社に入りなさい!実力勝負なら証券会社が良いぞ!証券会社に学歴なんか全く関係ない!東京海上や日本生命などの生損保の一流企業になんかもし入れたとしても、二流大学出身者じゃ経営者までたどり着けずに一生ドサ周りで終わる可能性が高いんだから…」と、そんなことを言われた記憶が一度だけある。


尊敬する人や影響力のある人に言われたことは、特に若い時には本当に「影響」が出るのだろう。私は割りと影響を受け易いタイプなことも手伝って、証券会社のOB訪問を開始した。立教大学のOB訪問で、ノムラ證券の門は、当時まず株式部のO村次長と言う方に会う事が決まっていた。O村氏は温厚な方でこの方となんとなく30分程度の雑談をしたのだろう。ほとんど記憶は無い。そして、人事部の課長への面接と進んだ。明るく聡明そうに振舞うしか取り柄もないし、成績はAが7つしかないシングルプレーヤーだし…とにかくそんな程度だった。そんな面接だったが、何故か内定となった。それが私の人生のほとんどを決めた。不思議なものだと思う。(続く)

『外資系金融機関残酷物語』

私は大学を卒業して、このブログにあるノムラ證券に入社した。その後何度かの転職を経て、シティバンクに転職して8年間を過ごした。一番充実したサラリーマン生活だったと思うが、その時も周りでは様々な事が起こっていた。シティバンクは世界的な大銀行であり、また證券グループを含めても巨大な金融グループであるし、日本でも最も外資系金融機関の中で知名度も高く、学生の就職人気も高い企業だと思うが、その中でも様々な内幕はあるのだ。


これから、時々この場を借りて、少しだけ書き下ろしで書きたいと思う。では…


Vol.1 「何故証券会社に入ったんだろう?(1)」


筆者は一流半の大学!(立教大学だから、多分二流では無いと思うが(笑)…間違いなく決して一流ではないだろう…そう、東大でも阪大でもなく早稲田や慶応でもないが、専修大学でも大東文化大学でも無いので(専修大学や大東文化大学の人はごめんなさい)、世間の評判で言えば多分正しいような気がするが…)出身であるが、学生時代はろくに勉強もせず、たいした成績でもないし、体育会も途中で故障で退部したので、何となく卒業する頃になって、普通のサラリーマン家庭で育った事に起因したのか当然に就職を探す事になった。


1983年卒業でその頃の就職人気ナンバー1は確か、東京海上だった記憶があるが、生損保や都市銀行は成績でAの数が30個以上無いととても入れない雰囲気だったし、テレビ局なんか考えた事もないし、官公庁への就職など思っても見なかった。まして、教師になるなんてそもそも教職課程も取っていなかったので、一般企業の…出来ればそこそこ名の通ったところに就職できれば…程度にしか考えていなかった。所謂、当時では普通の大学生だろうか。


最近の学生は、学生時代から企業家精神も旺盛な人も沢山いるだろうが、我々の時代は、パーティー券を売りさばいたり、イベントを企画するような奴はほんの一人握りで、ほとんどは女子大生との合コンに熱心な奴か、体育会系の運動バカか、特に学生運動に熱心な奴なんかその当時も既に過去の話となっており、大多数の人間は麻雀などに明け暮れる、所謂「高度経済成長の遺物…」的な「ノンポリ学生」が過半を占めていたような気がする。


その頃はまだ就職協定があり、10月1日まで内定は出せない状況だった。割とのんびりしていて大学4年の春から始まった就職活動は、まず卒業生が勤める企業へのOB訪問から始まった。親が強力なコネでもある奴は、親の指導?で真面目に進路を決めていた奴もいないではないが、私の周りの友人はほとんど自分の好みでOB訪問を始めた。(続く)


修善寺にて…

今日は、明日までの日程で、会社のオフサイトミーティングで修善寺(ラフォーレ修善寺)に来ています。


私の会社は30人程の小さな会社なのですが、日々は皆スタッフも仕事に追われ、今期~来期以降の戦略や問題点の提起など、様々しっかり時間をとって皆で話し合う時間を取ろうと言う意向で、毎年1回やっています。今日の午後から明日の午後まで、1日半程度かけてしっかり議論したいと思います。東京から2時間程度のところですが、気分も変わって、たまには良いもんだと思います。


以前、シティバンクに勤めていた時も、世界中にいる同じグループのマネジメントクラスの人間が、NY、SF、ロンドン、スイス、ソウルなどから数人ずつ、東京やNYや、その年によって集まる場所は違っていますが集まって様々な議論をしました。厳しいミーティングでもありましたが、通常の仕事を完全に離れて、戦略的な議論をしていました。また、夜や最後の日程などを余分にとって、食事や観光、ゴルフやサバイバルゲームなど…もその場所の近くで仕事以外でも楽しみもあり、仕事でしか話した事の無い他の国のスタッフなどとも懇意になる機会でもあり、有意義なものでした。


ノムラ残酷物語は、また来週から。HK






Vol.78 「仕手筋とノムラ(7)」

能天気なクロスをふられた各支店の営業マンは、全体で1000万株のクロスだったという事を知るのは、翌日の朝一番のQUICKの端末で出来高を見てびっくりするのだろう。しかし、1000万株というとてつもない出来高を見ても、これは「何かあるのだ!?」と好意的にとらえてしまう大馬鹿者の営業マンも多いに違いなかった。


買った(客に買わせた)銘柄は、どんな営業マンだって上がって欲しいのだ。だからつい・・・楽観的に、自分の都合の良いように考えてしまう悲しい性があるのだ。このクロスを見て、「社長、アマノが行きそうです!」って朝のクロスを買わせられなかった客にこっそり電話してなんとも馬鹿げたことだが、1000万株のクロスを「誇らしげに」セールストークとして使って買ってしまう営業マンも沢山いたはずだ。


それを横目に、目端の利く課長連中は、自分の客にはめたアマノをこっそりさっさと部下の客が上値を買った後に売っていたに違いない。この玉(アマノ)は元は銀座支店の「腐り玉」なのだと知っているベテラン選手も多かっただろう。彼等は間抜けな部下の買い物に「シラッ~と」売り物をぶつけて手仕舞っていたはずである。


銀座も同じことをやったはずだろう。違う25の首都圏の支店に振り向けられた「虎ノ門の腐れ玉」の日本曹達は同じ運命をたどった。そして、銀座と虎ノ門は、それぞれ新規の120億以上の「枠」を手に入れた。これで全国1~2位の支店は安泰である。


銘柄は違うがそれぞれクロスをふられた支店では、日々の法人のクロスとそんなに違いなく、そして何事も無かったように客は高値を掴まされて、適当な時期に損切りさせられ、そして損を重ねて疲弊していく。こんなことがまかり通るのだろうか?でもまかり通っていた。どんなに小さな支店でも、天下のノムラの支店である。合計4億円の客の玉が数千万円くらい位損したって、何事も無かったように日々の仕事が山のようにあるのだ。こんな事を毎日毎日繰り返してきたのだ。もう慣れっこになっていたに違いない。


このケースではノムラ自身が「仕手筋」そのものだったのだろう。自分で買って買って買い上がり、いつも最後はどうにもならなくなって終わった。仕手筋なら自分で責任を取るだろう。借入金ならその返済に追われるだろう。新聞紙上では仕手に失敗して自殺した仕手筋の本尊も何人もいた。恐らく相場を動かすなどという事は命がけの勝負だったのだろう。しかしノムラは客を殺していつも自らは高見の見物を決め込んでいた。いつも何かがおかしい気がしてならなかった。でも最初の頃は、その裏側は何も分からなかった。本当に何も分からなかった。ただの構成員として日々のノルマをこなすだけだった。(この章終わり)

Vol.77 「仕手筋とノムラ(6)」

「今日の独り言」


私は、ゴルフが好きだと昨日書いたが、今週からいよいよ男子国内ツアーが事実上開幕する。去年の暮れに、去年のシーズンの最終戦である日本シリーズが終わった後、何故か今年のツアーの初戦という位置づけで、沖縄で1試合開催されているが、それにしても、宮里愛や横峰さくらの女子ツアー人気とは全く無縁な…可哀想な男子ツアーは…今年も試合数が減って、4月の中盤にようやくシーズンインと言うことらしい…


上記の1試合分の去年の沖縄の賞金を含めても、国内男子ツアーの賞金獲得最高は2000万円である。昨日優勝したフィルミケルソンは、既に今年だけで310万ドル以上稼いでいる。10位のスペインのベテラン、オラサバルであっても170万ドルも稼いでいる。フィルが3億5000万円、オラサバルでも2億円である。1年経ったら彼らは幾ら稼ぐのであろう。


アメリカの大学を出て、日本のツアーにはほとんど参戦していない「今田竜二」ですら、64位で36万ドル弱、つまり、4000万円も稼いでいるのである。数年前から米国ツアーに参戦している丸山は、この数年年間ランキングが米国だけで40位前後であるが、彼も昨年2億円以上稼いでいるのだ。


何故、こんなに違いがあるのだろう…様々な要因があると思うが、それにしても、日本男子プロは、何故、海外に積極的に参戦しないのだろう。英語という言葉の問題か、食生活か、それにしてもである。


若い時に、彼等はどんな思い、夢を持ってプロになったのだろう。夢をもう諦めてしまったのだろうか?と思えてならない。苦しいだろうが、青木功や尾崎直道や、先人の先輩達が苦労して切り開いた道もあるのだ。プロ野球では、野茂の後、イチローや松井、そして城島や井口など沢山のチャレンジャーが既にいるのだ。プロゴルファーも同じはずである。国内の上位のプロなら、十分戦えるはずなのだ。苦労をするなら一番高いところですべきであると思うのは、私だけだろうか…(今日はこの辺で)


====================================

しかし、同じ店で全員の客が同じように売り始めると大変な事になる。一気に2割や3割は下がってしまう。それでは困る事がある。K産業の周辺の玉だろう。一気に下がるのでは自分の最終処理としては様々な問題があるのだろう。そこで、虎ノ門が抱えたアマノを一気に虎ノ門の営業マンが売らないように、奇策が実行された。これがあの前代未聞の「首都圏クロス」であった。


首都圏には支店が東京の支店を中心に当時約50店の支店があったと思う。その半分の25の支店に分け、支店の力量によって株数は異なるが、アマノを平均40万株ずつ割り当てをしたのだ。


1000万株を1支店が持っていてはさすがの虎ノ門も、その後アマノを買い上がらない限り、他の支店も他の証券会社も誰も買ってくれない。余程会社側が何か材料でも出さない限り上がる事は絶対に無いのだ。支店は手数料を上げなければならない。アマノばっかり持っていても商売なんかできっこないのだから、ノムラ全体としても全国1~2位を争う大変力のある支店をこのまま死なせてしまう訳にはいかない。


首都圏の50支店の内、半分の25の支店にでもこのアマノをばら撒けば、ノムラ全体でも、個々の支店でも傷はそんなに大きくならない。さすがに小さな支店といっても支店単位で見れば、40万株=約4億円程度のことであれば、大きな客であれば数人の客で済んでしまう。


1万株単位で客にはめれば高々40人の客で終わるのだ。個々の首都圏の支店長レベルでは、この恐ろしい内幕は分かっていたかも知れないが、末端の営業マンなんかそんなことは知りもしないだろうし、普段から四季報の大株主の欄も見やしない、上から指示のある銘柄をただ適当に押し込む事しか能の無い構成員達は、どこかの機関投資家か大口の法人玉のクロスだろう程度にしか考えていない。(まだまだ続く)

Vol.76 「仕手筋とノムラ(5)」

珍しく…私のコメントです。相場には全く関係ないのですが…先程、今年のメジャー1戦目のマスターズが終わりました。今年は、レフティーのフィル・ミケルソンが優勝しました。私は超~ゴルフ好きで実際HDCPも6なのですが、最近思う事があります。


普通の日本のプロと、一般のアマチュアの技術の差より、最近の一流の海外のプロと日本のプロゴルファーとの間には、体力や技術力で大きな差があるような気がします。この十数年間の間に、クラブとボール等の進化に加え、タイガーウッズを筆頭に、黒人ゴルファーだけでなく、アスリート系のきちんとトレーニングをした、そして素質と体力を備えた選手達がメジャートーナメントで活躍している気がしています。


ゴルフは本来スポーツなのに、日本では「接待ゴルフ」「金持ちの道楽」「ハワイやリゾートで・・・」が歴史的にも高度経済成長時代に日本人には観念的にそんなイメージになっていたような気もしますが、それらのゴルフは、スポーツではなく、「リクリエーション」的な色彩が強く、海外のトーナメントで見るゴルフとは全く異質なものでしょう。また、確かに、草野球とプロ野球は全く別のものだし、テニスの世界大会も一般の楽しむテニスとは違うゲームなのでしょう。


一般のアマチュアは、ゲーム(スポーツではなく)を楽しんでいて、その頂点に立つプロ達は、本当のスポーツを追及しているのかも知れませんね。その落差(実力の差)があればあるほど、頂点に立つ選手に、憧れと代償として、高額の報酬が支払われるのだと思います。プロとアマの実力さが小さなボーリングなどは(個人的な主観ですが)、アマにも「俺だって…」などと思われるものは、そんなに高い報酬がもらえる世界ではないのかも知れません…


プロは、体力だけでなく、努力のプロであるのでしょう。努力して、その中で一流だけがプロとして評価されるのでしょう。ノムラ時代の我々「インチキ営業マン」は、何の努力もせずに、プロのようなフリをしていました。決して人を(資産形成の成功に)導くプロではありません。そんなことを思う朝のゴルフ中継でした。

===================================

(先週からの続き)


これだけ(ただ売るだけ)では無い。日本曹達を売った同じ金額を、銀座から出てくるアマノを同金額買う指示が出ていた。


全ての構成員に、この指示は出された。つまり逆に銀座支店は、アマノを1000万株(1200円)で売り日本曹達を600円で2000万株買うのだ。虎ノ門はこの逆をやる。当面、この双方の銘柄とも、この日以降、上がる事はまず無い。何故なら、この虎ノ門=銀座の史上最大のクロス取引の数日後に、この結末を最終的に処理するために前代未聞の「首都圏クロス」が行われるのだ。


席に戻るとT岡店内主任が声を潜めて・・・若手の我々に聞こえるように言った。「おい、お前等、絶対全部売れよ。残すなよ!もう終わったんだ・・・」って…


『何が終わったのか?だって、昨日まで絶対上がるから買え!って言っていたんじゃ無いのか!』って!しかしながらT岡さんの真意を確認する時間は無い。今は5時だ。今から客に電話できるのは3時間足らずだ。そんなことはどうせ今晩寮に帰る前に飲むんだから、一緒に飲んだ時に聞くしかない。今は釈然としない気持ちを抑えて、とにかく客に電話するしかなかった。


実際は、Y田課長の大手顧客や、T岡店内主任の史上最大の大手客、また同期のT中の大手顧客など、これら全ての大口の顧客はY田課長の管理下にあったから、これら大口客の株も自動的に売られる。この玉を入れると、翌日の売り玉は虎ノ門全体で2000万株以上に上ったと思う。600円で計算して2000万株、合計120億円。売り買い合計で240億円。一支店としては恐らく1日の商いとしては空前の量である。


翌日の虎ノ門=銀座のクロス時点で、虎ノ門はアマノを1000万株、銀座は日本曹達を2000万株、それぞれが持つことになる。しかし双方ともも本尊(銀座と虎ノ門)以外に、誰も買う奴はいない株になっていたので、こんな株を持っていては支店の営業成績は上がらない。限界に来ていたのだ。本尊はバンザイしたのだ。虎ノ門の営業マンは、アマノなんか知った事じゃない。何をやっている会社か(主力商品は何?)すら知らない奴だっている。


でも…適当なことを言って客にアマノをはめ込むことは簡単だけど、アマノが数日上がらなければ、気の短い営業マンから、我先にと売ってくる。その後暴落することは分かりきっていた。銀座でも同じ事が起こる。日本曹達なんかどうでも良いに決まっていた。長い時間に渡る複雑な思い入れも何も無い。(続く)

Vol.75 「仕手筋とノムラ(4)」

本当の仕手筋とは、実はあの当時のノムラ自体だったのだろうかと思う事が何度もある。仕手筋とは、ある銘柄を狙って、その株を、買って買って、買い占めて、そして会員なり顧客を喜ばせて、最後は誰かがその更に上値を買って、自分達全員の玉を売り逃げなければ、誰かがババを掴むことになる。本当にその会社が好業績なり、会社の内容が一変して市場の注目を浴び、全員参加型の大幅な株価上昇につながるのであれば別であるが、実際はそんなことはほとんど無いといって良い。


ただ、バブル期のウォーターフロント銘柄なり、ノムラがシナリオを書き、全ての投資家参加型になった、石川島や東京電力、東京ガスといったとんでもない大型銘柄が10倍にもなった事が、歴史上最も強烈な仕手相場だったような気がする。ただ、やっぱり、上に書いたあの時代、前代未聞の銀座と虎ノ門の首都圏クロスが凄まじい結末だったと思う。


虎ノ門、銀座の双方の支店は完全に干上がっていた。営業マン全員の全ての顧客はそれぞれ、日本曹達、アマノ株で一杯一杯になっており、虎ノ門では自分の顧客が売りたい、損でも良いから売りたいと言っても、それを営業マンが止められなければ、営業マン自身が自分の別の顧客で、売りたい顧客の売り株数以上の買い物を用意して、支店の残は絶対に減らしてはならないという恐怖政治が引かれていた。


とにかく、厳しい玉管理だった。客はいつまでも上がらない株など持っていたくないし、営業マンも手数料ノルマは別にちゃんとあるのに全く売買が出来なくなり、もう限界に来ていた。銀座のアマノも恐らく同じ状況だったのだろう。


そんなある日の夕方、虎ノ門では突然全員集合が命じられ、仰天の支持が飛んだ。支店長が珍しく指示を出し、そしてY田課長が細かい指示を出した。「明日の寄付きで日本曹達を全員売れ、明日寄付きで合計1000万株の曹達を売る!一度にまとめて売れるのはこのタイミングだけだ。いいか、今から客に電話しろ!」と、とてつもない指示が飛んだ。ずいぶん長い間持たせていた客だろうが、昨日「直ぐにも1000円までぶっ飛びます!」って適当な事を言って買わせた客でも全部同じである。とにかく売れと言う。(続く)

Vol.74 「仕手筋とノムラ(3)」

筆者のノムラでの在籍時代、最も身近にいた仕手筋はK産業だっただろうか。1980年代初頭から、アマノ、蛇の目、飛島建設、そして最後は国際航業などを手がけて、最終的には逮捕されて終わったが、一時期は兜町で一斉を風靡した超大物仕手筋のK氏だっただろうか。虎ノ門支店とは直接のコンタクトは無かったと思うが、噂では虎ノ門の永遠のライバル支店であった銀座支店が、新興の仕手筋として売り出してきた当時の彼と共に、当時アマノをY原支店長が銀座支店全員参加でアマノを買いまくっていた。


新興の仕手筋が、あの当時のノムラの大支店とグルで買い上げたのだから、実際にかなりの影響力があった。虎ノ門は、当時日本曹達を買い占めていたが、独立独歩で単一支店の全ての客を動員しても、最終的には限界があった。日本曹達は350円位から約750円まで買い上げて見たが、最終的には虎ノ門は息切れをして買占めは無残は結果に終わった。


逆にアマノは銀座の単一支店での買い上げではなく、新興の仕手筋の資金力と他の動員力がありギリギリの水準で踏ん張っていた。値段的にも400円前後から1200円前後まで爆騰して、何度も何度も売買していた銀座の顧客もそれでもある程度は儲かっていただろう。虎ノ門は実際に350円から750円までの狭い値幅で、最初あっという間に600円前後まで買いあがったので、ほとんどの客は700円前後の高いところで最終的には全て引っかかっていたので、客は600円台に下落した株価にもう限界であった。


銀座支店のアマノの方は、紆余曲折はあったものの、それでも株価は順調に値上がりしていたので、客もそれなりに何度か儲けていた比較的元気だった。それでも最終的には両方の支店が、これ以上買えない。誰も買えない。全てのポジションはアマノであり、そして日本曹達になっていたので、アップアップになり、前代未聞の首都圏クロスという手口でこの相場は終焉した。最終的には銀座と虎ノ門のほとんどの顧客が犠牲になり、この2つの大仕手相場は終わった。今にして思うと、その結末は常軌を逸していたと思うが、それでも新興仕手筋のK氏は一躍この業界で有名になり、その後の蛇の目、飛島建設、国際航業など華々しい一時代があった。(続く)

Vol.73 「仕手筋とノムラ(2)」

事実、ノムラを含めて大手証券は確かに投資家を大切にして無かったから、これらを逆手に取り、一般個人投資家の見方なのだと甘い誘惑で誘った彼等は、ある意味では一般大衆にとって、ドンキホーテであり、石川五右衛門だったのかも知れない。


しかし最後に私腹を肥やし詐欺を行った中江滋樹などは単なる詐欺師以外の何者でもない。中江の本性を早くから見抜いていたのかどうかは定かではないが、ノムラでは当時店内規制(社内規制)で、投資ジャーナル関連銘柄は一切買い注文を受け付けていなかった。顧客が支店に電話してきて預かり資産もあり、現金も預けてあったとしても、顧客が投資ジャーナル銘柄を買いたいと申し出たら、「当社ではこの銘柄はお受けできません」と買付けを拒否していた。


当然投資家はどうしても買いたければ中小証券などの地場証券に口座を開けてそちらに流れていく。しかし面倒くさくなる投資家も多いから、結果的に買い付けが出来ないとなれば、だんだんその仕手筋の資金は限界になるので、大体にして相場はババ抜きゲームとなるのだろう。


他の仕手銘柄もかなり多くの銘柄で当時のノムラでは買付禁止、あるいは取扱禁止銘柄となっていた。巨大証券に立ち向かって一般個人を煽動して相場を作ろうと思っても、巨大証券には巨大証券の武器があるし立ち向かう方法も知っていたのだろうか。


まあノムラの営業マンは、「自分の言う事を聞く客」しか「客」と思ってないので、絶対仕手株などを買わせることは無かったし、毎日毎日営業場では仕切られまくるので、客が他の株を買う余裕などあったら仕切り玉を買わせることに一点集中するから絶対に「営業課」の営業マンの客には、「客注」(客の意思で銘柄を選定して営業マンに買ってくれって言ってくる注文のこと)を受けることは無かった。


いつもY田課長に「自分の言う事を聞かない客は客にするな!店頭(カウンターレディーと称する店頭の女性担当)に回して(扱いを変更して)しろ!」っていつも言われていた。客のリスクで、客の判断で、手数料もちゃんともらえるのだし、株屋は手数料を上げれば良いんだから、何だか変な感じがいつもしていたが、ヤクザの構成員として組の方針には絶対に逆らえない。若頭や組長が言う事には絶対服従の時代だった。(明日に続く)

1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>