参考資料525 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

ノストラダムスは実は「3797年」までの予言をしていた、という批判について
「これも私を非難する人たちが、鬼の首を取ったように、歓喜してぶつけてくる非難材料の一つです。
 初めてこれを非難材料に使ったのは、すでに亡くなった某有名作家で、この人が、私の『大予言・初巻』が出てまもなく、“五島への決定的パンチ”として取り上げました。
 根拠はノストラダムスの「息子セザールへの手紙」です。この中で彼はたしかに、「自分は現在(その手紙を書いたとき)から3797年までの絶えざる予言を書いた」と記しています。
「それはつまり、3797年までは人類は滅びないということだ。だから1999年に破滅の危機があるなんてウソだ。したがって五島勉はインチキ」というのが、その有名作家の主張でした。以後、これを受け継いで、多くの非難者が私の1999年危機説を笑い、なかには「3797年まで続くんだから、何をしてもいいんだ、放射能も排ガスも、いくら出しても大丈夫なんだ」と私に電話してきた人もいました。
 しかし実は、ノストラダムスは同じ手紙の中で、「3797年」の記述より原文で50行ほどあとのところに、「われわれは現在、すべてのことが成就する七番目の千年紀に生きている」と書いているのです。
 また本文の終章で述べたとおり、彼は『諸世紀』1巻48番の詩で、「7000年、別のものが王国を保つだろう」とも書いています。
 このように7000年とか7000年紀とかの年数を、予言書や予言の手紙に書いた人が、自分は3797年までの予言を書いた」とも述べた。これは誰がみても矛盾で、単純な西暦だけの数え方では理解できないということです。
 つまり彼は、キリスト教文明がどうなるかを予言するときは、イエス・キリストの誕生から始まる西暦を使い、もっと長い人類文明を見通すときには、エジプトのピラミッドあたりから始まる5000年紀、7000年紀・・・・といった数を使ったのです。
 ここから「3797年」は、キリスト教ともピラミッド起源とも違う数え方による年数だとわかります。ビノ師の話では、これは「ノストラダムスが属していたユダヤのある部族の年数」で、「家系への自覚をうながすため息子への手紙に使った」、そして「西暦に換算すればやはり2000年ごろになる」ということでした。」
「ノストラダムスの大予言 最終解答編」五島勉著(1998年)より

感想
>根拠はノストラダムスの「息子セザールへの手紙」です。この中で彼はたしかに、「自分は現在(その手紙を書いたとき)から3797年までの絶えざる予言を書いた」と記しています。

私は詩の年号は全て暗号だが序文の「息子セザールへの手紙」の「3797年」だけは西暦と考えていたが、これが年号は全部暗号だよというサインなのかもしれない。
というのは、1巻48番の詩の7000年はキリスト教の聖数7には「旧約聖書によると宇宙の運命の神が世界と人類をつくった期間が7日間だったとされ」とあるので完成の意味があると思われるので、それに1000年をかける事によって「千年王国完成の年」を表したと解釈する。
そして、3巻94番の詩からそれは「予言集」を出版した1555年の500年後の2055年と考えられるからだ。また、1巻48番の4行目からその時に予言集に書いてある事が全て終わるらしいからである。
2巻13番の詩
Le corps sans ame plus n'estre en sacrifice,
Jour de la mort mise en nativite:
L'esprit divin fera l'ame felice,
Voyant le verbe en son eternite.
魂のない肉体はもう捧げものにはならぬ
死をむかえる日にそれは復活にむかう
神霊が魂に悦びをあたえよう
ことばの不滅を目のあたりにして  山根和郎訳

感情のない身体はもはや犠牲とはならない
(キリストの)降誕において置かれる滅亡の日
崇高な精神は心をフェリスにするだろう
予言者、彼の永遠への言語表現     (私の訳)

訳の解説
「corps sans âme」は、慣用句で「魂の抜けた人、ふぬけ、指揮官(指導者)を失った軍隊(党)」なので、「魂のない肉体」というような死体的なイメージより現実的な表現を選んだ。(この先の未来に「いけにえ」制度が復活するとも思えないし。)「estre」(êtreの古い形)「sacrifice」(犠牲、いけにえ、犠牲的行為、出費)「mise」(mettre(置く)の過去分詞)因みにロバーツ本とラメジャラー本では「mis」となっていて、これだと男性形なので「置かれるのは日」だが、この原文だと女性形なので「置かれるのは滅亡(死)」となる。まあ、大意ではどちらも同じなのだが、ノストラダムスが何を伝えたかったかを考えると「終わり(崩壊)の日」か「死」か。「jour」(日、1日)「mort」(死、破滅、崩壊、終焉)「jour」は男性名詞で、「mort」は女性名詞。「nativite」(〔キリストの〕降誕、〔聖母マリア、洗者ヨハネの〕誕生、キリスト降誕図(像))降誕(誕生)に「naissance」(誕生、出現)ではなく、「nativite」を使ったのは、キリストの降誕を表したかったとしか考えられない。「felice」は、辞書になく、さらに古い辞書の横断検索でも見つからなかったので、古語でもない確率が高い。だだ、参考としては「félicité 」(至福)などの可能性もある。(「félicité 」は、1606年の辞書に載っているのでノストラダムスは充分知っていたと思われる。厳密には、「felicité 」で「félicité 」となったのは、1762年の辞書から。)

ただし、このキリストはイエス・キリストでもないほふられた小羊でもない「ヨハネの黙示録」第12章で生まれてくる救世主と解釈される。
http://ameblo.jp/hitorinomeaki/entry-11628400368.html

おまけ